文化の中の芸術

2019年1月7日

芸術が栄えれば文化も栄えますが、芸術が廃れば文化は枯渇します。芸術によって文化が生まれ、文化によって芸術が育まれと、卵と鶏のような関係があるようです。

文化が枯渇してしまったら社会はどうなるのかというと、人間生活の機能面を重要視する社会が生まれることは必定です。それは効率を求める社会でもあり、多分近い将来人工知能に取って代わられるものです。

文化が生まれるためには、衣食住を支える経済力以上のものが欠かせないのですが、お金が有り余るほどあっても文化が作られと言う保証はないのです。政治的な権力を手に入れても同じです。権力を行使してなんでも思いのままに出来るようになったとしても、権力を象徴するものばかりがゴロゴロする社会になってしまいます。文化を生むには、芸術センス、芸術への理解が欠かせないのです。

 

ミヒャエル・エンデさんと生前にこんな話をしました。

「美術館や音楽会の会場から出てきたとき、私たちは表面的にはなにも変わっていない。お金持ちになって出てくるわけでもなく、賢くなることもないし偉くなって出てくるわけでもない。しかし何かが変わっている。会場に入った時と出てくる時では、大げさに言えば別の人間になっていることだってある。これが芸術の力だ。」

また別の人から、

「芸術について語るとは、自分が一番大切にしている人のことを誰かに語ろうとしている時に似ている。」

と言う言葉を紹介されました。

芸術について考えるにあたりとても貴重なヒントをくれた忘れがたい言葉なのでここに紹介させていただきました。

 

文化を支える芸術。この芸術というのは心の深いところ、とんでもなく深いところにまでしみ込んで、時には一人の人間の人生を変えてしまうのです。この魔法が芸術です。芸術の中の美のなせる技です。

芸術は美を表現します。そして創作であり創造されたものでなければならないのです。しかし何が美で、何を以って創作とするのかと言うことになると、定義することも証明もすることもできません。美に至っては焦点が定められないとても曖昧なものです。しかも主観的で、蓼食う虫も好き好きの世界です。芸術とは、言葉にしてしまうとこんないい加減なものなのです。

これが芸術ですから、芸術というのは社会的に見れば使い道がない無力なものと言えます。ところがこのなんの役にも立ちそうにない芸術が文化にはかけがいのないものと言うことですから、見方によってはあながち役立たずでも無力でもなさそうです。ここが文化を、芸術を理解するためには大切なことです。

文化という言葉は好んで用いられる言葉です。文化の日、文化祭、日本文化、果ては文化大革命まで、文化という餌で社会運動という魚を釣ろうとしているのです。目標を定め、社会を動かそうとするとき文化という言葉はとても効き目のある言葉です。しかしそこでの文化は本来の文化には似ても似つかない、文化に一番遠いい姿をしているものです。その文化の中では芸術が育つ環境がありませんから、芸術的素質を持って生まれても息ができませんから時期に窒息して死んでしまいます。

人間的であるというのはやはり文化を持つ存在だということに尽きるようです。文化を求めるところで初めて芸術が目を吹き出し、そこに息づく美が人々の心を満たし社会を潤いのあるものにするのです。美という極めて曖昧なものが、人間的であろうとする時、皮肉なことに最も具体的な力を発揮しているのです。

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