思い出のブログの再録です

2019年3月23日

以前に書いたブログに、正確には六年前のブログです、毎日のようにロシア語で解除しろというコメントが入るので、それを解除して、ここに新たに別のタイトルにして載せます。

 

 

その時のブログの内容です

勝手な想像ですが、庭という言葉が俄(にわか)からきている、そんな気がしました。文字にしてしまうと別のことですが、音として聞けば近いものに聞こえます。言葉はそもそも音の方が先で、音の意味の方が本質であることが多いもので、俄と庭はブロクで遊べると思ったのです。

庭というのはもしかすると俄自然という意味かもしれないのです。

俄はあまり使わないのでここで確認しておくと、俄雨というのが一番知られている使い方です。

突然降り出した雨とか、本降りにならない通り雨のような雨のことを言います。

もう一つよく耳にするのは俄芝居と言う言い方です。俄狂言の方が歴史的な言い方です。素人のやる芝居やる芝居のような感じがしますが、必ずしもそうではなく、俄芝居を本職にする役者もいるので、何が本当の俄芝居かと言うのは定義し兼ねます。普通の芝居とは舞台づくり、衣装、カツラ、化粧などが少しずれているのが特徴です。

庭というのは本当の自然とはちがうもの、あるいは自然の一部を切り取ったもの、自然らしく仕立てたものかもしれません。

日本の庭の特徴は何かと整理していて「時間の流れ」が表現されているように感じたのです。庭にはヴィジアルな景色としての俄自然と時間的に俄時間が表現されているのだということです。

自然の中を流れている時間は悠久です。自然を見て悠久を感じるのは、私たちが自然を見たときに時間を感じているということです。何年、何百年どこではなく、何千年、何万年、何百万年という、現実には体験できない時間を生きながらにして表現しているのです。何百万年もかかる水晶の結晶も実際には体験できない時間を経て私たちの目の前にあるのです。形になった悠久なのかもしれません。

そんな目も眩むような時間を日本の庭は真似ようとしているのかもしれないと考えたのです。そう考えると庭がとてもいとおしく感じられるのです。

日本の庭のことをドイツ語で書くにあたって、ドイツ人が書いた日本の庭に関するものを読んでみましたが、期待はずれでした。

造形的なものの説明、歴史的な位置付け、庭のひろさなといった極めて物質的な(表面的な)視点から眺めているだけだったからです。アンバランスの美などは情熱をこめて語りますが、庭という形の向こうにあるものには目がゆかないのです。

ドイツにも日本庭園と銘打った庭があります。しかしそれらも形は日本で、鉄の柵の代わりに竹の柵がしてあったり、植えてある気が日本でという表面的なもので終始しています。そこで写真を撮ればまるで日本に来たようなものになるのでしょうが、庭にいても日本の庭にいるという実感は湧いてこないものです。もし彼らが日本の庭に生きている時間への思いを少しでも理解していれば、別のものになったのではないか、そんな風に感じています。

二千十三年五月三十日に発表したブロクでした。

仲正雄

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