イジメとは

2019年11月17日

イジメはもうずいぶん長くジメジメと社会に巣食っている現象です。特に学校社会でのことなのですが、未だ手だての方法が見つかっていないようです。ニュースではいつも事件発生後の、ほとんどが被害者の自殺、学校側の謝罪の場面が報道されます。

イジメの精神というのがあると思います。これは精神で、実はとても深く人間に根ざしていることを認識しなければ手だての方法は見つからないものです。どのくらい深いかというと愛と同じくらい深いものですが、愛の方が少しだけ深いので、手だてとして考えられるのは愛しかないかもしれません。

いや、愛だけでしょう。

 

さっき駅で「痴漢は犯罪です」というポスターを見ました。混んだ電車の中の痴漢行為、よく話題になるお酒を飲んだ乗客が飛行機の中でアテンダントのお尻を触るという行為すら犯罪視するのに、イジメは見て見ない振りをして野放図です。イジメだって同じく犯罪だと思うのですが社会はイジメに対していたって「おおらか」と言いたくなるくらい野放図です。学校は勉強しに来るところなので、イジメ対策は先生への義務でないかのようです。

ただ、痴漢を犯罪視しているにも関わらず痴漢行為はいまだに根絶していないところを見ると、イジメを犯罪視しもそれは決定的な手だてではないのかもしれません。

 

教育者こそそこに気付いていち早くイジメに対応して欲しいのですが現実は教育者の集まりの場でイジメが増殖しています。それでも野放図なのです。知らん顔している学校なのですから、学校を教育の場と考えることが間違っているのでしょうか。

もっと激しく言います。今日の学校教育の根底を支えているのは子供の成績だということです。その現実を見る限り学校は教育以前のレベルのもので、教育の名に価していない、と。

 

 

現代社会はお金中心に回っています。お金は大事なもので、人々の暮らしを幸せにするものですからいつの時代にも大切に扱われたものです。ところが今の時代ほどお金が人々の幸せと切り離されたことはないのです。

お金は空回りして、人々の生活、特に幸せとすっかり離れたところにいます。お金があっても幸せになれないどころか、お金があるから幸せになれないという事態すら生じています。お金のない国の子供達からは幸せという言葉が聞かれても、お金のある国の子供にとって幸せは蒸発してわからないものになってしまったのです。

 

幸せを知らない子供たちとはなんなのかというと、満ち足りていない存在です。満ち足りていないわけで、欲に振り回されて、もっともっとの世界をさまよっているのです。地獄のようなものです。成績もお金も、もっともっとの世界の写し絵です。本来成長というのは、欲とは無縁のもので、決して欲の反映したものではありません。成長というのはもっともっとではなく、今を満たしなが進んでいるもので、お金の世界で使われる「成長経済」という時の成長は、欲に裏打ちされた詐欺的に仕組まれた錯覚で、成長とは関係のない巧みに仕組まれたもっともっとなのです。

 

本当の成長のことを知れば・・、イジメから少し遠ざかれるような気がします

私のライアー

2019年11月14日

今年の秋は久しぶりにライアーを弾き手応えを感じました。

自分でも弾かないで弾くことに近づいて来たかなと感じています。

以前は私の演奏している時の指遣いを見て「ただ弦を触っているだけ」と感じられたようです。ところが今年はその指遣いから生まれた音楽を「ただ無心に水が流れているみたいですね」と聞いて頂けました。

初めてライアーのCDをリリースしたときタイトルは「光の波紋」でしたが、イメージしたのは水面に広がる波紋でした。と言うことは当時既に水の流れ、水の動きを意識していたわけで、現在はその延長にあるに過ぎないことになります。

今年の反応はいつも以上に私を励ましてくれました。「仲さんの音を聞いていると私が溶けて無くなってしまったようでした」といった感想が多かったからです。

それこそが私が願っているライアーの音なのです。私はその音が出したくて今日までライアーを弾いてきたのです。その音になんとか近づいていることが確認できて幸せでした。

十月から十一月にかけて今年も各地を周りました。

私の会を催してくださった皆様に心から感謝いたします。有難うございました。

門前の小僧

2019年10月16日

ゼロ歳の時からおじいさんの籠に入れられキノコ採りに出かけた人の話です。おじいさんが土地でも有名なキノコ採りの名人だったため、Tさんは気が付いた時には、門前の小僧の様に習わずしてキノコの生き字引になっていたそうです。
生き字引と呼ばれ一目置かれた訳ですが、大量の知識ではなく、経験で培った直感からキノコの育ち方、森の中でのキノコの現実を見抜くことが出来たのです。ですから実際には字引以上のもので、Tさんのことを聞きつけたキノコ研究の大家、某大学の教授、から目をつけられます。

ある日「たってのお願いです」と頼まれ一緒に山に入ってキノコ観察をしたことがあるそうです。
私がみるところでは、キノコとTさんの間には隙間がなく、竹のことは竹に習えが身に染みついているのです。身についているので特別に身構えることがなくいつも自然体でさりげなくキノコの不思議な世界を垣間見せてくれるのです。

「Tさん、キノコは毒キノコですよね」
「・・・?!」
「あの有名な 毒キノコの一種だと思うのですよ」
「・・!?」
Tさんからするとその年は雨が多く、キノコはそうなるといつもとは少し形を変えるとおじいさんからの伝授でしたが、教授のプライドを傷付けてはいけないと黙っていたのだそうです。その大家は大学に入ってからキノコに興味を持ち、コツコツと研究をした努力の人でした。とはいえ主な知識は書物からの知識でキノコを観察する姿は、キノコの生き字引のTさんからするといささか歯痒いもので、生徒さんを連れてこなくてよかったと言う場面はそれ以外にもいくつかあったそうです。
おじいさんは寡黙でTさんが大きくなって自分から質問するまで何も教えてくれなかったそうで、そのぶんTさんはおじいさんの仕草の一つ一つが目に焼き付いているそうです。おじいさんの存在が本当の意味で良い手本だったと述懐します。

おじいさんの動きが知識そのものだそうです。キノコを探しているおじいさんの目、その目はキノコだけでなく森の中の自然全体を捉えていたのです。キノコを見つけキノコに向かう時の足取りや姿勢が全てを語っていたというのです。

おじいさんはいつもキノコから呼ばれているようだったそうです。

Tさんがキノコの世界と一つになれたのは、おじいさんが何も教えてくれなかったからだとTさんは確信しています。教えられたことを子どもは覚える、そう思うのは大人の錯覚です。教えられたことを覚えると考えるなんて、とんでもない迷信です。実際は反対で、Tさんのように教えられないから覚えるのです。矛盾している様ですが、これが本当の学びの姿です。
赤ちゃんが生まれてすぐ言葉を教えられたら、赤ちゃんは言葉を覚えないでしょう。そんな風に覚えたら機械が喋る様に喋るかも知れません。教えないからパーフェクトに覚えるのです。教えられないから流暢に話せるのです。教えられないから言葉の本質が見えてくるのです。そうして覚えたものは揺るぎのないもので、自信となってその人の人生を支えるのです。

今日、敎育と言う名のもとに蔓延している多くの誤謬の本質がここにある様に思えてなりません。