2026年2月19日
知らない土地に行ったらその土地の人と話がしたいものです。初めて会う人とどんな話ができるのかと言えば、限られたものですが、それによってその土地との結びつきが深まることだけは確かです。それにはその土地の言葉が話せないと叶わないことなので、海外ということになると行きたいところ選びが狭くなってしまいますが、それでもいいと思っています。
行った所でその土地の人と話をする。その土地に行っただけではまだそこに辿り着いたと言う気になりきれないので、その土地と何らかの関わりが欲しくなるので、話ができない時は買い物をします。ただお店をぶらぶらするのではなく必ず何かを買います。大抵は必要のないものだったりします。ところが何年もしてから偶然に手にした時などに、あのときあそこで買ったものだと思い出し、同時にそこでの雰囲気などが同時に思い出され、ひとしきり懐かしい時間の中に浸っていられます。買わずにただ手に取っただけではそれが起こらないのです。そのときにお店の人と話でもしていればその話の内容も思い出されたりします。思い出に輝きをもたらしてくれるのは結びつきの様です。
そのような接点を持つことで、その土地に対しての何と言うのか軽いリスペクトの様なものも生まれます。話すこともなく、買うこともせずにただ通り過ぎただけでは関係が結べていないので、思い出す時など、あの街はどうだったとか、こうだったとかのつまらないコメントを口にしたりしてしまいます。物事と関係を結ぶことが大事な様です。
2026年2月17日
日本に滞在している間の楽しみの一つに富士山があります。富士登山、富士詣でと言うほどではないのですが、子どもの頃から親しんだ富士山は大好きな山という以上の特別な何かの象徴だった様で、滞在の間に一度は見ないと気が収まらないという存在です。ドイツで生活しながら年に二度三度と日本に帰って来る様になってからは、富士山の存在が日本にいた時以上の存在になっています。
ほとんどが東海道新幹線を使って東京から西に向かうか、東京に帰って来るときの数分の出会いなのですが、雲に邪魔されずに富士山の全景が見えるかどうかは、その日の新幹線移動の思い出に大きく左右してきます。ただいつも残念に思うのが立ち並ぶ煙突です。富士山からの豊富な水を利用する製紙工場が乱立していて、景観を妨げています。日本は自然を大切にするとか言いつつも、工場の設立を許してしまう軟弱な政治体質が何とも不思議です。
コロナ騒動が終結してから静岡にいる友人を訪ねるたびに、静岡が誇る富士の名所にいつも連れて行ってもらっています。それまでは友人の家族を訪ねていたのですが、独り身になってからは二人でドライブを楽しんでいます、知る人ぞ知るの浜石岳からの富士山、あまりに有名な日本平からの富士山と印象に残る富士山を見てきたのですが、今回は三保の松原からの富士山を堪能しました。三保の松原からの富士山は堪能したと言うレベルのものではなかったのでそのことを書き留めておきたく思いブログに向かっています。
三保の松原を体験した今、ここからの富士山に勝るものはない様な気がしています。まだあるかも知れないし、こうした印象は主観的なものなので断定は避けますが、私には間違いなく頂点でした。夕方になり少しづつ色づいてゆく雄大な冨士の姿が素晴らしい自然環境に包まれる中に浮かび上がって来るのです。左に防風林の分厚い、樹齢を重ねた松並木、手前は駿河湾、そして右側には大きく伸びた海岸、その向こうには伊豆半島のシルエット。全く人工的なものが目に入ってこない環境の中の富士山はそれだけでありがたいものなのですが、富士山の形もとてもバランが取れていて、多くの日本画の大家が描いた富士山はここからのものではないかと想像できるものでした。
三保の松原には羽衣伝説があります。天女が舞い降りたということですが、この浜にはそうした伝説が生まれるにふさわしい道具立てが揃っていました。形のいい浜辺、そこに打ち寄せる力強い波に加えて、富士川によって運ばれてきた石の群です。大きさは五センチから三十センチのもので、浜辺は砂ではなくこの石が敷き詰められているのです。波打ち際から離れるに従って石はまばらになるのですが、それでも石の絶対数は想像を遥かに超える相当なものです。
その石混じりの浜に天女が降り立ったと言うことがはっきりとイメージできたのが今回の大きな収穫でした。
実はスイスのライン川が、深いアルプスの奥からラインの川となって流れ込んでくるところに、この三保の松原の浜辺のような岩の集積された場所があるのです。そこはアルプスの少女ハイジの話の舞台になったところと隣接しています。作者のヨハナ・シュピーリがこの場所を選んだのは彼女の直感なのでしょうが、それは偶然というには的確すぎる場所選びだった様な気がします。ゴロゴロと大きな力が集まって作り出す雰囲気は静岡の三保の松原に本当によく似ています。
今回の美穂の松原体験で、富士山とスイスのアルプスの山々がどこかでつながった様な気がしたのです。深い幸せを感じつつ富士山が夕闇に姿を消してゆくのを見送っていました。
2026年2月3日
明日、二月三日、二年ぶりに日本に向かいます。節分の日ということで、二年を跨いでの大旅行となります。しかも如月の満月にです。
西行法師の辞世の句と言われるこのうたの下句は、そのきさらぎの望月のころ、となっています。今風にいうと、二月の満月にということです。
ここで読まれている花は梅ではなく桜の花だというのは少々驚きです。きさらぎは如月ですから二月を指し、仏陀が亡くなった二月十五日を暗示しています。二月の満月の煌々と照る桜が満開の二月(できれば十五日)に死にたいものだと西行法師は願ったのです。そして一日遅れの二月十六日に七十三歳で亡くなっています。
死ぬと言うことは民族、宗教によって随分違いのあるものです。現代人の生死観は民族性でもなく、宗教でもなく、科学によって裏打ちされています。人類史的に見た時には特殊なものと言えるのではないかと思っています。安楽死のような、いわば合理的な発想はかつてなかったことです。良い悪いではなく、なかったのです。あり得ないことだったのです。今はそれも合理的に見てありということになっています。死んで仕舞えば何もないという考え方が基本にあるのかもしれません。死んだ後のことは万人にとって同じで、わからないことです。そのため様々な発言がなされているのですが、いまだに結論は出ておらず、死をどのように整理したらいいのかは、わからないのです。だからといって何もないと決めるのは早とちりです。わからないというところから、ないと結論づけるのは強引すぎます。なぜ保留できないのでしょうか。簡単です、保留する力がないからなのです。結論を出さずに置いておくといのは実は難しいことなのだと最近思う様になりました。これは魂の力からくると思っています。とは言ってもどっちかに結論づけないと治らないように教育されてしまったので仕方がないのかもしれません。
西行の歌に戻りましょう。こんなにたくさんの自然を纏って死を迎えようと願う人は今の時代にはどこを探しても見つからないでしよう。自然と共にあり、自然に包まれて生きていた人と現代の人は自然の意味づけが変わってしまったからです。今や自然は環境という、政治的、経済的な対象になっていて、宗教とは全く関係のない方便の対象になっています。自然を口実に儲けている人がいると言ったら言い過ぎでしょうか。自然をうまく使うと巨額の富が舞い込んでくるのです。自然は目的化され、純粋に愛でるものではなくなってしまったのです。かつてのカールソンの「沈黙の春」は痛烈な警告でした。そこには純粋な自然への願いが生きていました。しかし何十年後には自然保護は全く別のものになってしまいました。
西行法師はこの歌に、これ以上詰め込めないほどの自然を盛り込んでいるのに、歌そのものは静かな調和が保たれています。俳句では季語として一つだけしか許されていませんし、和歌にしても一つの自然を歌い切るだけで大変な集中力が必要とされるのに、花、春、如月、望月と四つがひしめき合うという妙技を見せる歌です。パンクしそうなのに、西行法師のこの歌は不思議なことに静けさがあるのです。決め手は歌出の「願はくは」にあると思っています。歌う気持ちの方向が明確に示されているからです。西行法師の目標は死です。もがき続けた人生が手袋を裏返したように多種多様な自然を盛り込んで辞世の句を歌い上げているのでしょう。
西行は日本中を旅した旅人でもありました。当時の旅は今の旅からは想像もつかない過酷なものだったはずで、歩いて日本中をめぐるというのは考えられないことです。それなのになぜ旅に出たのでしょう。行楽に週末どこかに出かけるのとは全然違うのです。
一生を旅に費やした芭蕉の辞世の句は、旅に病んで夢は枯れ野を駆け巡る、です。
二人の詩人は、今の東北から始まり日本中を旅し続けたのです。詩人と旅は深い因果がある、切っても切れない炎を感じます。旅にいるというのは、毎日が崖っぷちにある様なものなのかもしれません。芭蕉は弟子に、「どの句も、それが辞世の句になると思ってよめ」と言っていたそうです。彼らからすると、今は旅と呼べるほどのものではないということになりそうです。一寸先は闇というのは、昔も今も変わっていないのかもしれませんが、今は分からないや病みを払拭しようと保険に入り、色々と保証され、守られすぎているので、人生そのものの捉え方が昔とは違うのです。当然死に対しても同じことが言えると思います。
現代人の生とは随分軽くなってしまった様です。同時に死も軽くなってしまったのでしょうか。
なんだか取り止めのないことを書いてしまいました。
日本のどこかの空の下でお目にかかりましょう。