無明のことについて

2025年8月30日

無明とは仏教的な考えの中で光が届いていない所のことを意味します。遍く照らしている光でも届いていない所がありそこは自ずと暗くなってしまうということです。仏教では悪の存在を言わないので、善と悪を対立させるという考え方がないと理解しています。善悪の対立はペルシャの時代のゾロアスター教、拝火教から生まれたと言われ、それ以来善と悪が対立したり、善が悪を退治するようになったのです。

悪の存在を認めるのではなく、ただ光が届いていないと考える所に仏教の大きな魅力を感じます。よくないことが起きてしまうというのはそこに光が届いていないからだと見ているだけなのです。悪と決めつけるのではなく光が足りていないというわけで、素晴らしい考え方だと思っています。善と悪と区別をすることは、想像するにイデオロギーの始まりなのかもしれません。無明は流動的ですがイデオロギーは固まってしまって変化しようがないものです。イデオロギーの世界はこれ固まった世界になってしまうのはそういうことなのかもしれません。

心の中の喜びは光そのものです。心が光に満ちていれば喜びに満ちているとみるのです。心の中の嫉妬や、恨みというのはそこに光が当たっていないから起こることなので、暗く喜びが足りないということなのです。現代病の鬱病も無明的に見たらいいのかもしれません。心に光が届いてないので、喜びが少ないようです。

足るを知るということはなんでも与えられて満足しているということとは違います。貧しくても足るを知るという気持ちになれるものだからです。ガツガツしている、もっともっとの状態とは間反対です。私たちの時代は欲望がまっしぐら突っ走っていますから、いつまで経っても、足りていないと感じて生きているような気がします。これはまさに無明ということそのものなのです。

音楽にさり気なく耳を傾けているときに、心が満たされることがあります。それは決まって、今聴いている演奏が光に満ちている的でした。技巧だけで突出したり、思い込みで固めてしまい、挙句のはてに「凄いだろう」と自惚れている演奏はガツガツした演奏で疲れます。日狩りが届いていない貧しい演奏だからなのだと思います。技巧的にすぐれて上手というのが今日の演奏家たちの常識になっていますが、そこに固執してしまうと、ガツガツが表にでしまい、聞き手の心を満たすことができないくらい冷たい演奏になってしまいます。光が足りていないのです。音楽が喜びで満たされていないというのは、音楽というよりも雑音に使い物のようです。それは致命的なものだと考えます。

品という字は、「ひん」と読むか「しな」と読むかで随分違ったものになってしまいます。気品という世界を感じるか、品定めや品評会のような世界に惹かれるかと、はっきりと分かれてしまいます。気品を生み出しているのは足るを知るが息づいている時です。満足感や喜びから生まれるもので、品定めは欲がらみのガツガツからのことが多いと思います。どの言語にも「ひん」にあたるものがあるのは嬉しいことです。ドイツ語ではWürde(ヴュルデ)となると思います。人間の尊厳さということです。人間を尊厳の立場から見られるというのはなんと幸せなことでしょう。

難しい話だったので、筋がまとまらず取り止めのない文章になってしまいました。

 

スイスの気配り

2025年8月27日

スイスには日本の大手新聞のようなものはありません。ほとんどが地方色の強いローカルな新聞が中心となっているのですがその中でもチューリッヒから出ている、Neu Züricher Zeitung、新チューリッヒ新聞は発行部数から見て、スイスの大手新聞と言える唯一の新聞です。そこで特派員として日本に滞在したフースター家族と私は親しくしています。

ご主人のトーマスと飛行機の中で隣り合わせたのが縁でした。隣に座った人がスイス人というのは彼が偶然にパスポートを整理していたので分かったのですが、スイスはドイツ語とフランス語とイタリア語とレトローマン語が国語として話されている国ですから、お隣のスイス人が何語を話すのかはその時点ではわからなかったので、初めの挨拶はとりあえず英語でして、その後「スイスの方ですよね。失礼ですが何語を話されるのですか」と尋ねました。帰ってきたのは「ドイツ語です」ということで、英語が得意でないので、それからはドイツ語で会話がスムースになったのでした。彼の専門分野は経済ということでした。当時はバブルが崩壊して日本から少しづつ経済大国の面影が薄れ始めている時でしたが、まだ円のレートは強く、物価も高く、彼がいうには「スイスより高い国に初めてきました」ということでした。

日本に行くと必ず一度は会っていたのですが、その度に奥さんのパトリチアが「日本はスイスだ」としきりにいうのです。一年目より二年目、さらに三年目とその印象はどんどん強くなって行くようでした。街の清潔さは特に強烈な印象だったようで「スイス以外ではお目にかかれない清潔さ」がとても気に入っているようでした。飛行場も駅もデパートも、とにかく人の集まるところはどこへ行ってもゴミがなく綺麗で、スイス以外にこんな国があることを知らなかったということでした。私の印象からも、ヨーロッパはどこへ行っても犬の糞とゴミで散らかっているのが当たり前ですから、そんな中でスイスは例外なのです。

スイスは「アルプスの少女ハイジ」の印象を大切にしています。印象とは別にスイスを実際に支えているのは金融、特に銀行で、匿名で預金できるため世界の大富豪がスイスの銀行に匿名口座を開設しています。そうしたお金が集まり、そこから預かり料として膨大な利益をえていますから、非常に裕福な国なのです。収入はドイツのほぼ二倍ほどです。日本の三倍くらいかもしれません。ただスイスが銀行で金儲けをしているというイメージは必ずしも国にとっていいものではなく、その守銭奴的イメージをを払拭するために「アルプスの少女ハイジ」からのイメージは、自然豊かな風光明媚な国というイメージを醸し出すため、物欲から離れた清潔なイメージ作りのためには非常に役に立っていのです。そのために国は相当の支援を酪農農家に給付して酪農を奨励しています。

話をスイスと日本の共通性に戻すと、気の配り方に触れなければならないと思います。日本はしつこいほど「おもてなし」を合言葉にしていますが、スイスにも別の意味での思いやりがあり、他の国からくるとスイス人は特別だという印象を持ちます。

スイス製、時計やカメラといった精密機械は相当高いクオリティーがありますから、値段も張ります。しかしスイス製は伝統に支えられているため信頼度が高く、他の国の追随を許さないのです。物作りのクオリティーは日本とスイスは双璧で品質の高さを競い合っています。ただスイスには伝統がある分値段が高く見積もられるところが、後から追いついた日本に水を空ける要因です。

先日子どもの家族とスイスに行っていました。就学以前の孫を連れていたので孫を遊ばせなければならず、公園のようなところではなく山の中の遊び場にみんなで出かけることにしました。そこはバーベキューができるようにひを使える場所が設けられていました。前日に降った大雨で周りはびしょ濡れでした。そのことは予め覚悟していたので、薪を持参して行ったのですが、スイスらしいサプライズなおもてなしに迎えられたのでした。火を使える場所の近くには小さな小屋があって、みるとそこには雨に濡れないように薪が積み重ねられているのです。さらに紙まで周到に用意されているのには、「さすがスイスむとびっくりしました。もちろん薪は無料です。管理しているのは自治体ですから、係の人が見回っているのでしょう。小屋の薪が空になれば補充されるということです。

用意する方の意識の高さもですが、利用者たちのモラル感覚も、そうした場所を維持するために大きく作用していると思います。使った後を片付ける習慣がスイスにもあって、日本でいう「発つ鳥後を濁さず」というスタイルがスイスでは日常に染み渡っています。しかし最近は観光客の質が低下しているということはよく耳にします。ホテルの備品が紛失するという今まではなかったことが続出しているのだそうで、特定の国は「お断り」という方針も打ち出されているということです。

ところでスイスにはいろいろな側面があって、それもスイスらしいと思わせるものです。路上駐車は日本では馴染みのないものですが、この路上駐車を料金制にしたのはスイス脱たのですが。また食品に賞味期限というシステムを導入したのもスイスだったのです。それによって個人経営のちいさな店舗がき巨大スーパーに飲み込まれてしまったのです。賞味期限というのは衛生上のことが出発点ではなく経営的な下心があって生まれたものだつたのです。

また近い日に日本円のレートが良くなったら、ぜひスイスに旅行してみてください。スイスはいいとこ一度はおいでと呼んでいると思います。きっと行かれた方はスイスが好きになること請け合いです。スイスのおもてなしも是非堪能してみてください。

今日はスイスの宣伝でした。もちろんスイスからは一銭ももらっていません。

 

見えていること、見えていないこと

2025年8月26日

オスカー・ワイルドはイギリスを代表する小説家、劇作家です。この人の言葉には現実を直視した鋭さを感じることが多く、ずいぶん読んだものです。

彼は「今、目の前に見えていることが一等不思議だ」という言葉を残しています。最近のオカルトブーム、スピリチュアルブームの考え方からすると、見えないものを尊重する風潮が強いわけですが、そうした中でこの言葉をもう一度噛み締めると、オスカー・ワイルドの感性がどれほど特殊なものかを感じます。表面的な言葉っじりを捉えれば唯物論者でないかという気がしてしまいますが、その程度の理解力では彼の言葉につきあう資格がないのです。そんなことはなく彼は現実を直視した上で神秘主義的な世界にも深く通じていた人だったのです。

神秘主義者を体現している人が「今目の前に見えていることが一等不思議だ」というのです。これはイギリス人が好むアイロニーを思わせるところもありますが、私にはそんなものだとは思っていません。真正面から現実に向かって切り込んでいる言葉と受け取れるのです。彼は本当に目の前にあるものに向かってそう思っていたのでした。

パウル・クレーというドイツの画家は「見えないものを見えるようにする」という姿勢で絵を描き続けました。見えないもののの存在に気づけば気づくほど見えるものが気になるようです。そして見えるものが不思議に見えてくるということのようです。

今は見えないことに興味を持つ時代です。なぜそうなってしまったのかは簡単に説明できないものです。ただ見えないものを追い求めても、それだけでは充分な神秘主義者ではなく、神秘主義を深めて行くと、逆に今見えていることを凝視することから、その奥が見えてくるものなのです。本質というのか実在というのかは言葉の表現の違いです。今、目の前に現れていることから目を逸らして、見えないことばかりを追っていると、それこそ見えない世界から騙されてしまうと言いたいのかもしれません。今、目の前にあるものを知ろうともせずに、見えないものを追っているというのは、実は本末転倒ということのようです。

シュタイナーも皮肉っぽく、唯物論者が一番物・物質のことを知らない人だと言います。

情報に取り囲まれているだけでなく、情報に振り回されている時代です。そうなってしまった時代の落とし穴は、人間そのものが情報として捉えられてしまうということです。結局社会的地位、ポジション、ステータス、資産がどのくらいある、そして学歴に頼りながら人を見てしまうわけです。人が人である所以とはなんなのかは問われることなく、情報処理されてしまった人が世の中を闊歩することになってしまうのです。そんな中で生き延びるためには、情報を集めるだけ集めて情報同士でこすりつぶすのです。いい情報フェイクな情報が混じりあっていますが、どれか一つを信じるのではなく(そうなっては情報宗教です)、幾つもの情報同士を並列に並べて眺めるのです。幾多の情報の中から全体像が見えてきたら物事が見えきたことです。そこで役に立つのが直感です。この直感は場数を踏むことで訓練され鍛えられるものです。

音楽に関していうと、録音という技術のおかげで現代は同じ作品を沢山の演奏家の演奏で聴くことができます。いろいろ聞いてみると、これが同じ作品なのかと思えるほど違う演奏に出会います。私は、これを「音楽が見えるようになった」ものだと思っています。ある作品が一人の音楽家の中だけで聞かれているうちは、それは見えない世界を彷徨っているかのように、聞こえない世界の消えてしまうのです。演奏されることで音楽は聞かれる音楽に変わります。それは見える音楽と言ってもいいような気がしています。私たちが生きている時代はたくさんの演奏を聞ける贅沢な時代なのです。幾つもの演奏を聞いた後にお気に入りの演奏が見つかるのですが、そこには大変な個人差が見られるものです。ただそれによって聞こえない音楽に帰っているのかもしれないのです。

見えたり見えなかったり、聞こえたり聞こえなかったり、数多の情報が混じり合う中で、私たちは私たちにとって真実と言えるものに出会わなければならないのです。今、目の前にあるものを凝視し、今、聞いている音楽に耳を傾け、情報のひとつ一つを吟味しながら向こうの世界を感じることができるのです。

たりになるのは直感のみです。