2026年1月6日
結婚生活が六十年になるご夫婦とお話しをした時に「もうすっかり相手さんのことは理解していらっしゃるのでしょうか」と聞いたのですが、「いやいや結婚した当時と同じくらいしか分かってはいないですよ」と笑い飛ばされてしまいました。「近くにいてくれる人のことは何年一緒にいてもわからないものなのでしょうね」ということでした。
その時考えていたのは、そもそも「分かる」とか「分かろう」という前提が間違っているのかもしれないということでした。六十年一緒に生きてきたというのは、実はよく分かっているということの証しと考えていいものではないのかという気がしてきたのです。
「分かろう」などと力まないで、やんわりと感じてイメージされているもので十分なのかもしれません。ということは私の質問も「お互いにどのようにイメージされていますか」というのが良かったのかも知れません。
音楽を聞いていいつも不思議に思っているのは、今聞いているその音楽を理解しているのだろうかということです。好きということで聞くのですが、理解したいから聞くということはありません。音楽と理解とはどうも反りが合わないようです。もしかするとそこが私が音楽に惹かれる所なのかも知れません。
演奏会やある人の演奏をとやかく解説する人がいます。職業的な解説者、評論家と言われている人たちですが、私は時々ですが新聞などで読むことがありますが、大抵は読まなくてもいいような内容ばかりです。良かった悪かったなどと批評してなんになるのでしょう。それで音楽の進歩に寄与できるものなのでしょうか。私の知る音楽家たちは新聞の批評など一切読まないと口を揃えて言っています。
音楽を聴いているときによく風景が浮かんできます。これはイメージです。イメージ的で感じているのです。しかしそのイメージを言葉にしようとした瞬間にイメージは壊れてしまいます。でもイメージは放っておけばそのままいつまでも残っています。
今までは分かるというのは知的な作業の結果でした。そこにはある基準があり、それに沿って説明が捕捉されていって分かったということになったのです。しかしそれには基準となる物差しが必要とされていました。その時の分かるには前提があったわけで、パターン化されてしまうという欠点を伴っていました。このパターン化がこれからの分かるではかえって邪魔になると考えるのです。
では何に基づいて分かるがなされるのかということですが、ここに芸術的な理解というものが登場すると思っています。芸術というのは主観的な世界であるので、芸術作品を鑑賞する一人一人が別の理解をしていても一向に構わないものです。かえって一つの基準で判断されてしまうと、独裁的な全体主義の元での芸術作品のような極めて硬直した、一辺倒なものになってしまいます。それでは芸術とは言えないのです。プロパガンダです。
芸術を支えている美意識、美的感覚はそもそもは主観的なものなのですが、驚くなかれ時には客観でもあるのです。ただ客観とは言っても強制されるものではなく、混沌とも取られがちですが、個々の感性で測られるものです。洗練された美的感覚というのは出鱈目な主観の集まりとは違います。美的感覚の根底には見えない客観性が生きています。芸術的な感性が今まで理解に繋がるものとは考えられずにいたのは、その見えていなかった客観性が原因です。
帰って学問的な科学的客観というものは一見絶対的なもののように見えますが、案外時代のか流れの中で誤りが指摘され消えていったりしているのです。百年前の栄養学ではない日二百グラムの肉を食べタンパク質を取らなければいけないと言っていました。今そんなことをいう人はいません。客観に見える主観的なものなのかも知れません。
主観に貫かれているだけの作品にはナルシストの後味がありますが、隠れた客観がそこに流れていると世界への畏敬の念が感じられます。芸術というのは主観的客観、畏敬の念によってイキイキとしたものになってゆくのです。
2026年1月6日
歌には詩があります。歌詞と言われるものですが、その詩の言葉は歌いながら口ずさまないと思い出せないものです。この事実にはいつも不思議を感じています。これは日本語だからというのではなく、ドイツの歌の歌詞を言うときも口ずさ間ないと思い出せないものなのです。
詩は独立したものですから必ずしも歌とならなくてもいいのです。歌になりやすい詞と歌にできないような詩とがあります。どちらが良い詩なのかと言うことは言えません。ただ今までの経緯からすると難しい堅苦しい詩の言葉はメロディーになりにくいもののようです。よく文学の専門家たちはシューベルトが曲をつけた詩を「文学的には大して価値のあるものではない」など言いますが、言葉のイメージが歌になりやいすものが選ばれたので、シューベルトの歌から文学批評をしてもなんの意味もないと思います。文豪ゲーテがモーツァルトのオペラ「魔笛」を聞いて感動して、「続魔笛」と言うものを書いたのですが、文豪らしい作品で難しすぎて誰も音楽をつけようとはしなかったと言われています。「魔笛」の台詞は至って単純なものだったのでオペラになれたのです。いわゆる学問的な専門用語などは絶対に歌として歌えない言葉です。もし仮に誰かが哲学の専門書に歌をつけたとしても、とてもじゃないですが歌えるものではないはずです。もちろん聞くに耐えるものでもないと思います。
料理などもよく似ていて、素材を生かしたものが本当に美味しいものです。たくさん講釈をつけて、難しい料理を出されても、私などは喜んでいただく気にはなれません。シンブルと言う言い方は誤解を招きやすい言葉ですが、単純なと言うより、素材に沿ったと言う意味のシンプルもあると考えています。そう言う料理はまた食べたくなります。歌も同じで、歌詞とメロディーがマッチしていると長く歌い続けられるものです。
言葉の生い立ちを見ると、そもそもは歌われたものだと言うことがわかってきます。オーストリアのアポリジニは言葉は祈るためと歌うためにあると考えています。歌抜きには言葉は考えられないといってもいいのです。言葉が歌離れをしたのは、言葉に散文が居場所を獲得したときからです。言葉が理屈と説明と結びついた時からです。論理的になったときです。説明することで納得が得られるようになってからです。証明が価値を持つようになってからです。
或る詞の一節が、例えば「青い空の向こうに」といったとしたら、「空の向こうとはなんなのか」と科学者は嘲笑するでしょう。科学的に証明しなければならないからです。しかも「空とはどこからどこまでで、その向こうとか彼方とはどこを指しているのか」と厳しく質問してきます。私が、「その言葉で詩心が駆り立てられるのです」といっても、お互いに平行線です。
歌の喪失というのは、言葉から魂が抜けて、意味を伝える道具になったことを意味すると思っています。今日は合唱、つまりコーラスが盛んです。私の住んでいるシュツットガルトには二重や三重のコーラスグループが存在します。このコーラスの起源は古代ギリシャで、詩を歌いながらの輪踊り、輪舞だったのです。詩は今日のように散文詩ではなく韻文という形を持ったものであり、そこにはっきりとしたリズムがあったのです。そのリズムに合わせて踊ったのです。古代ギリシャの劇の中でその輪踊りは形を変え、劇の進行を歌で説明する係になります。日本の能楽の謡と同じです。その後グレゴリオ聖歌の中では聖書の言葉を歌いながら朗誦するようになります。そこまではユニゾンと言って、一つの声部しかなく、近世に入ってパレストリーナ以降今日のコーラスの多声部形になります。
コーラスは説明と言う知的作業を音楽を使ってやっていると見ていいのかも知れません。ヨーロッパでは楽器によるの音楽が盛んになり、その音楽からの影響からいくつもの声部に分かれて歌うようになってからは歌が立体的になり、建築的な要素が増してきます。楽器での音楽作りと合唱は並行しています。言葉よりも音楽的要素が中心になったといっていいと思います。個人的には、合唱は歌と呼んていいのか迷ってしまいます。声が主体となっている音楽づくりだから歌だというのは単純過ぎる解釈です。本来の歌からはずいぶんはなれてしまったような気がします。
私たちはまた歌を取り戻すことができるのだろうかということはよく考えます。人間が歌を必要としているのは明らかです。クラシック音楽の中では歌曲の音楽会は閑古鳥が鳴くような状態ですが、ロックやポップの音楽ジャンルでは、何万人という集客が可能なのです。武道館、野球場といった規模の会場がたくさんの人で埋まるのです。多くの人が歌を求めていると見ていいのではなのでしょうか。クラシック音楽が歌を失ってしまったのとは逆に、クラシック以外の分野では歌は衰えることなく歌い続けられていると言う事実はないがしろにできない事実だと考えます。
2026年1月5日
直感を大切にしていますなんていうと、知性派の人たちからは、「ろくすっぽ考えないで物事を決めるなんて子ども騙しだ」と笑われてしまいます。直感を信じていない人にとって直感なんてなんの根拠もないもののように見えるでしょう。根拠をしっかり持って証明するよう習慣づけられている現代的思考からすると、直感はうわついた思いつきのようで危なっかしいものに見えるのかも知れません。
芸術という世界に目を向けるとそこは証明一辺倒な世界とは別の世界があります。直感がイキイキと息づいていて、説明的で、しかも理屈で固められたものとは別の混沌とした世界がそこにはあるのです。芸術とはそもそも個人の直感的な確信に発しているものです。しかも不安定で未完のもので、そうした性質を無視して理屈で型に嵌めようとすると芸術は悲鳴をあげます。それはもう芸術ではなく理路整然とした説明の世界になってしまうからです。芸術は説明しきれないところが最大の魅力と言っていいものなのです。直感はそういう場所でしか鍛えられないものと言えるのです。
芸術を学問的に研究する一つに芸術史があります。芸術史を学ぶと芸術の推移や、芸術の骨格といったものが見えてくるものです。芸術が時代から影響を受けていることは事実ですから芸術史は魅力のある学問なのですが、芸術の心臓部はそれで説明しきれないものです。よく似ているのは音楽家の伝記です。ある作曲家の伝記を読めばその人の作った音楽にたどり着けるのでしょうか。私の経験からいうとそれは難しいようです。そもそも音楽に感動するには音楽を聴くしかないのです。
音楽的直感を持たないとそんな混沌とした世界は不安になってしまい、溺れる者藁をも掴むになってしまうのでしょう。言葉は藁のようなものです。どんなに言葉を尽くしても語りきれないものがあるというのが芸術の魅力だと思っています。そんな不確かな空間から芸術というものは生まれているのです。それは古代から現代まで変わらない芸術の姿です。そしてこれからもづっと続くものなのです。
楽器を演奏していると、直感が頼りで、いつも直感で弾いていることが分かります。演奏する作品の練習は大事なことです。しかし練習ばかりしても上達しないことも演奏家はよく知っています。本番という場数を踏むと練習以上の収穫があるものです。それは本番で音作りをしているときは直感が練習の時以上に働いているからです。練習した時の記憶に頼って演奏していると、音楽が固くなってしまいます。音楽のしなやかさは演奏が直感の連続の中にある時に生まれるもので、練習の成果だけではこちこちの感動をもたらすことのない音楽になってしまうのです。演奏の大家からよく耳にするのは「練習が嫌いだ」というのはこういうことなのです。
直感と芸術は鶏と卵のようなものです。芸術を支えている直感にとって大切なのはぼんやりする時間です。ぼんやりしている時が直感がイキイキする時なのです。頭で考えている時はしっかりと焦点を合わせてしまいます。それは結論ありきで考えていることが多いので辻褄合わせにしか過ぎないのです。考えるというのは白いキャバスに向かう時のように道に向かっているるものなのでしょうかす。無限の可能性の中を泳いでいるので、考えるといのも実は芸術的な側面も持っているものなのです。ジグゾウパズルのようにいつか終わるものではないのです。
とは言ってもジグゾウパズルにも別の側面があります。天才的なお子さんが五百ピースのものを二時間くらいで完成させたのを目の当たりにしたことがあります。そのお子さんのジグゾウパズルは直感的に私には写りました。そのお子さんは、普通は枠の所から始めるのに、全く違って一つのピースを取り出してそれを机の上に乗せ、そして残りのピースの中からその隣に来るピースを探すのです。残りの四百四十九のピースの中から一つを見つけ出すのは普通人には容易なことではありません。鋭く厳密に形を見抜く力がないとできない技です。興味深いのはそのお子さんにとってパズルが完成するというのはどうでもいいことなのです、隣に来る形を見つけていることがそのお子さんにとってのジグゾウパズルなのです。直感に近いもののように見えますが、そのようにパズルを早いスピードで完成させることができたのは、そのお子さんの持つ鋭く研ぎ澄まされた形認識能力だったようです。そのお子さんは重度の自閉症と病気を持ったお子さんでした。
話がずれてしまいましたが、直感というのは大抵の場合ぼんやりする時間に宿ります。大切なのは体のリラックスです。それと結論を急がないことです。直感は自力というより他力の部分がかなりあります。がむしゃらになるのではなく、自分が空っぽの器になることでそこに降りてくるものを直感と言っているのです。直感は心の中に降りてきたものを指していうのです。心の中が水晶のように透明になれたら直感が冴えてくることでしょう。