言葉の種類

2025年6月13日

言葉の種類と聞くと、大抵は外国語のことが思い浮かびます。

先日かつて一緒に勉強した人が66歳の誕生日をするからと誘われ行ってきました。ドイツの中でもフランスやルクセンブルクに近いところに位置しているモーゼルワインで有名なところでした。

そこでルクセンブルクのことが話題になり、お嬢さんがルクセンブルクの銀行で働いているという人と話がはずんで色々と新しいことを耳にしました。ルクセンブルクは人口70万人にも満たない小さな国なのに180の銀行があるということでした。世界の泡銭が流れ込んでいるという意味では、小さなスイスのようなものだというのです。ちなみにお嬢さんは五カ国語を話すことができると言っていました。いろいろな国とのコンタクトが命ですから、銀行員は大抵そんな感じで幾つもの言葉を話せなければならないのだそうです。そして33歳のお嬢さんのお給料はというと月150万は下らないということでした。それにボーナスがつき手当がつくのだそうです。五か国語という特技がものをいうのでしょうが、なんだかバランスの悪いものを感じました。

そんな話を支援学校の先生をしていらっしゃる方に話したら、私は学校で三つの言葉でやっていると言ってくるのです。ダウンちゃん語と自閉さん語と同僚と話すときの先生語というのか職員室語を使い分けて毎日やっていますということでした。なるほどと思いながら聞いていました。確かに全く違う対し方が求められるわけで、当然言葉遣いも変わってこなければならないわけですから複数言語文化ともいえそうです。子どもたちは純粋で可愛いので苦にならないけど、職員室で先生達と話すのが一番大変だと言っていました。先生同士で話すと通じているのか通じていないのかよくわからないことばかりだと笑いながら言っていました。三カ国語ではないですが、三通りの言葉遣いをすると、三カ国語に近いものがあるのかもしれません。

むかしあるお母さんが話してくれたのですが、子育ての時は言葉遣いが子どもの成長段階によって変わるので面白いと言っていました。長男は中学二年、長女は小学三年、次男が五才、そして末っ子がまだ一才という家族構成で、思春期に入った長男と喧嘩腰で話して、その後すぐに一才の子の所に行くと天使のように優しくなって、全然違う自分が話しているような気がするのだそうです。さらに小学生が帰って来たり幼稚園の子が泣き出したりすると、違う世界の言葉を一人ひとりの子どもと話しているみたいになるそうです。そこに旦那さんが帰ってきたりすると、一人で何役をこなしているのだろうと我ながら感心してしまうというのです。

ドイツに来たばかりの人たちがよくいうのは、ドイツ語を話している自分と日本語を話している自分は違うということです。もちろん母国語と外国語とは全く次元の違う別物ですから、当然といえば当然なのですが、ドイツ語というのがとても理屈っほい言葉なので、話をある意味で論理的に組み立てないと相手に伝わらないというところは、日本語とは大分違います。そこに流暢な母国語とつっかえつっかえの外国語の違いが加わってくるのですから、分裂した自分を感じるのかもしれません。私のようにもうそろそろ50年もドイツにいると、言葉の切り替えはまるでカメレオンが環境で色を変えるように相手によってコロコロと変わってしまいます。

言葉と人間というのは不思議な関係です。言葉によって鍛えられるものがあるようです。母国語だけで生きている人と沢山言葉を使い分けている人がいます。沢山言葉を話す人を見ていると、この人たちの人格形成は大丈夫なのだろうかと心配してしまうこともあります。お父さんの仕事の関係で世界七カ国で生活したという人と一緒に仕事をしたことがあります。もちろんそれだけの言葉ができるので便利と言えば便利なのですが、それは世界旅行をしている時位で、その人が言うには、どの言葉も深くきわめていないから、言葉を通して文化に入り込めないというのです。それはとても歯がゆいものだと言っていました。その話を聞いて、言葉というのは沢山喋れるというより、深く一つの言葉を身につける方が、その人の人格形成には大切なことなのかもしれないと感じていました。

今日もまた取り止めのない話になってしまいました。

教養というのはなんでしょう

2025年6月12日

教養特集、教養番組、という具合に、昔はなんでも教養というのが被さっていたような気がします。今の状況からすると有機、Bio、無添加というのに似ています。かつての浅草六区で名を成したミスヤバーというお店で発案されたカクテルは電気ブランという奇妙な名前のものでした。ブランデーをベースにしたカクテルというだけなのですが、当時の流行はなんでも電気がついたので、カクテルにも電気がつけられて、電気ブランとなったのでした。

思い起こすと教養小説と呼ばれたジャンルもあったようです。内容はお説教臭さは否めないものだったように記憶しています。文化というのは教養から生まれるということを信じていたのでしょう。教養は一つのステータスでした。学識人たちの知識です。とはいえ知的な側面の強いもので創造的な要素は含まれていないので、教養に支配された社会はお利口さんばかりが排出されることになるのですが、それで社会が豊かになるかというと、私は疑問に感じます。例えば、みんながお巡りさんになっても、社会がよくならないようなものです。ドイツがまだ二つに分かれていた時、共産主義というのか社会主義というのか東ドイツと呼ばれた国がありました。そこには秘密警察機構が張り巡らされていたのです。東ドイツが良しと考えた社会制度を維持するためには役に立ったのでしょうが、制度、組織のためのもので文化的には全く力のないものでしたから東ドイツは崩壊してしまいました。そういうものでは文化を基盤とした社会というのは健全に維持されないものだという良い経験になったものです。一人ひとりが文化的に目覚めないと社会は維持できないものだと思います。

それに関していうと主観が大事たということでず。ところが物事を客観的にみなければならないとはよく言われることです。しかしその客観的というのも注意してかからないと危ないところがあります。一般的なというふうにたなびいてしまうと、集団意識のようなものになってしまい、全体主義に加担してしまいかねません。大事なのはやはり主観です。一人ひとりがどう感じ、考えているのかということが、社会とか集団とかの中に生きていても守らないとならないものなのです。みんな一匹狼、みんなアウトサイダーという感じが健全を保つためには必要なことのような気がします。

とは言っても主観的な考えを一人ひとりが主張しているだけだと、社会はギクシャクしたものになってしまいます。大事なのは一人ひとりがお互いに尊敬の念を持つことです。リスペクトとするということです。これを欠いてしまうと、主張と主張とがぶつかり合うだけで、まとまりがなくなってしまいます。お互いに尊敬の念を持ちながら共同生活が営めたら、それが一番です。

民主主義というような美しい言葉は、なんだか危なっかしく、いくらかごまかしがあるような気がしてならないのです。人民が主役だということなのでしょうが、そんなことは今までに一度も実現したことがないことなのです。もしそんなようなものができたとしても、ほんの一瞬の短い陽炎に似た命のような気がします。私たちは民主主義だと信じ込まされているだけなのかもしれないのです。教育のおかげでしっかり洗脳されているのです。

最近のネット社会、SNSなどを見るとコメントが氾濫しています。なんにでもコメントするという風潮が蔓延しています。なぜだろうかと考えたのですが、自分を優位に置きたいという本能からのような気がします。何にでも一言申したいのです。それは尊敬の念、リスペクトとは水と油のようなものです。相手を敬うのではなく、自分で自分を敬っているのですから始末が悪いとしか言いようがないような気がします。相手を敬うというのは上等な精神で、自分が謙るということが必要なことが多々あるのです。自分を卑下するのではありません。卑下と謙譲とは違うものです。相手もを少し持ち上げるが、自分を少し引くかの違いはありますが、どちらも社会を健全にする力であることには変わりないと思っています。

教養の話からとんでもないところに来てしまいました。教養という知的な社会のおしゃれのようなものがない社会に生きてみたいです。みんながお利口さんになった今の社会が決して私たちが望んでいるものではないので、教養は案外邪魔なものなのかもしれません。教養が満ち溢れてもよくなることはあまりないような気がします。かえって悪知恵が横行して、醜い社会になってしまいかねません。教養の源は知性でしょう。この知性というのは使い方を間違えると詐欺師のようなところがあって悪賢いものなので要注意です。

みんながお利口さんになるのではなく、尊敬しあえるような社会が欲しいものです。ところで一体尊敬の念のようなものはどのようにしたら培われるのでしょうか、教育の中で、教育というシステムの中で教えられるものなのでしょうか。それとも先天的なもので。持っている人は持っていて、持っていない人はどんなに教えられてもいつまで経っても持てないものなのでしょうか。

リラックス

2025年6月6日

人が死を迎えるのは、仕事や何かで頑張っている時ではなく、ふと気を抜いてリラックスしたときらしいのです。

確かにごく日常的にもリラックスしたときに今まで隠れていた疲れがどっと出て寝込んでしまうことがあるものです。このところ我が家の庭の木や草が大変な勢いで生育して、手をつけずに放っておくと瞬く間に鬱蒼としてくるので、天気も良かったので、庭仕事に励んでいたのですが、暫くぶりの恵みの雨で小休止と決め込んだのはいいのですが、力が抜いたら途端に疲れが腰に出て、まるでギックリ腰にでもなったような状態になってしまい難儀しました。今はまた庭に呼ばれるようになり、動き始めたら、知らずのうちに腰の痛みは抜けて楽になりました。

リラックスというのは意図的にしようとしてもうまくできないものです。声のワークショップをしているときに、体の「リキミや緊張」を抜いてリラックスしてくださいというと、参加されている方達はリラックスどころか、かえって変に緊張したような不自然な姿勢になったりしていました。

意識して何かをするというのは普通に考えると上等な精神状態のような気がするのですが、人間は意外と不器用な存在で、適当に意識していればいいものを、意識しようとするとすぐに意識過剰になってしまうもののようです。人間と意識というのはなかなか組み合わないというものなのでしょうか。

反対にリラックスというのも苦手なようで、どこかに無駄な力が入って緊張してしまうようです。人間というのは意識も下手、リラックスも下手ということですから始末の悪い生き物のなのです。動物なとを見ていると、人間より遥かにリラックスが上手で、彼らには肩こりなとないだろうと思ってしまいます。とくに猫などを見ていると頭の先から尻尾の先までリラックスしっぱなしのような感じで羨ましい限りです。

昔日本中を講演して回っていたとのことです。一週間以上毎日違うホテルに泊まっていたりしていました。ホテル住まいになってしまうと毎日違うベッドで寝ることになります。あまり神経質でないので、その辺はあまり気になりませんでしたが、困るのは食事です。外食が続くとふとお茶漬けでも食べたくなるような感じです。

美味しい料理というのは、「外で食べているのに、それのことを忘れさせてくれるような料理」だと発見しました。ホテルの合間に自宅に泊めていただくことがあると、家庭の雰囲気の中で食事ができてホッとするものです。もちろん私はお客さんなので、日常の家庭料理とはいえ、その日は家庭料理の豪華版のようなところはあるのですが、それでも和んだ雰囲気の中でホッとできるものです。美味しいとか美味しくないというレベルではない食事でした。

レストランの中にも、外食していることを忘れさせてくれるようなものがあります。高級料理というものとは別のものです。高級料理というのは色々と講釈ついているもので、それを聞かされながら食事していると高級食材といえど食べ物が喉を通らないのです。挙げ句の果て、胃袋の中で重たいのです。あるとき、新潟での講演の折に、「これからお食事を持ってゆくのでホテルで朝食をしないでください」と朝一番に電話をいただいたことがあります。暫くするとフロントから「お客さまがお見えになっております」と電話があり、下に降りてゆくと、二つの重箱に炊き立てのご飯と筑前煮と何種類かのお漬物がぎっしり詰まっていました。そして魔法瓶にはお味噌汁まであったのですが、流石にホテルの朝食会場で食べるわけにゆかないので、部屋に持っていって食べました。当然レストランもコックさんが作っているのですが、その時のお手製の朝食は何かが違うのです。講演会のお世話をしてくださっていた方のお母さんが「仲先生はいつも外の食事ばかりだろうから、明日は私が煮物を作ります」と早起きをして作ってくださったものですから、私個人に特別に作ってくださった世界に一つしかないお弁当です。美味しいというだけでなく、それを通り越して体に馴染じんであっという間に平らげてしまいました。食べ物がこんなに体をリラックスさせるものだということを実感した嬉しい体験でした。美味しいというのは、調味料、旨味という味覚の問題だけではないようです。

広島の四日市に中華の曽苑というお店があり、今は無くなってしまったのですが、そこのご主人が「仲ちゃん、最近どんなものを食べてきたの」と聞いてくれて、私が食べてきたものを色々と挙げると「じゃあこんなものを作るか」と言って、いつも私の体が欲しがっているものを見繕って食べさせてくれました。その方はかつて大きなレストランの総料理長を歴任された方で、中華の最高峰「満漢全席」を作れるという方でしたから、なんでも思うように作れる方でした。手早く作られた彼の料理を本当に美味しいと思いながらいつも食べさせていただきました。美味しいを通りことしていたようです。美味しいというのは味覚の問題ではないようです。

自力でリラックスというのはなかなかできないのですが、そのような形で体がリラックスする状態を、恵まれた食事を通して体験させていただきました。今でもその時の満たされた幸せ感をよく思い出します。そしてその度に体が軽くなるのです。