言葉には意味だけでなく意志がある

2025年12月8日

言葉のことを考えていると、言葉には二つのきたら木があることに気が付きます。一つは意味を伝える道具として使われるものですが、それだけでは言葉が何なのかを言い尽くしていない様に思うのです。聞き慣れない言い方かもしれませんが、言葉には意味の奥に意志が働いています。この意志は私たちが言葉を使っているときにいつも働いているのですが、辞書には載っていない見えない部分ですから、普段は気づかずにいます。

詩の言葉というのが特にあるわけではないのですが、詩に着かられている言葉は日常で使われる言葉とは少し違い、慣れていない人にはとっつきにくいものです。使われていることばは意味だけではなく、私が言葉の奥にあるものとして捉えたい意志の方が強く働いています。てすから詩を読んで意味ばかりを探そうとしている人には、詩が何を言いたいのかチンプンカンプンということがよく起こります。詩の理解というのは普通の文章などを読むのとは違いうものです。簡単に言えば感じるところから入って行かないとできないと言うことなのですが、では何を感じたら良いのかというと、言葉の意志と言うことになります。意味が言葉の現象的な表れ、機能ということだとすると、意志は深いところにある根源的な衝動と言ったらわかっていただけるかとも思います。もしかししたら死をかいた本人もはっきりと意識していなかったかもしれないものです。詩人の本能の様な物で感じ取って使っているのかもしれません。

ドイツ語で詩のことはDichtungと言います。英語ではpoet,poetryです。ドイツ語でもラテン系の外国語としてPoesieと言ったりしますが、その時は詩というよりは詩情のことを指しているようです。このDichtungというのは「凝縮した状態」と言う意味です。水が凍る時に余分なものを除いて固まる感じでイメージしていただけたらと思います。従ってそうした言葉で綴られる詩の世界は透明感があるものとも言えそうです。詩を読んで、その意味を知ろうとしても詩が言いたいことに出会えません。詩の言葉が意味だけではないからです。詩は凝縮したことで暗示的な力に支えられます。詩の言葉は直接に何かを言い表していると言うより、多義的で、いろいろなことを暗示します。

詩の透明感と多面性が詩を読む人にとっての醍醐味なのです。言葉が意志を持つと、言葉は定義的な限定された意味から多義的になるようで、そのことから詩を読む時には知っている言葉でも知らない言葉に出会ったように新鮮に感じられないと詩は遠ざかってしまいます。その時は直感が頼りになるものです。この直感が機能していないと、詩というのは何度読んでもチンプンカンプンのままなのです。散文は知性からの正確さが求められます。詩の言葉は直感の正確さとでも言いたいような、知性とは別の研ぎ澄まされた感性が求められています。知性が散文で物語る時、詩は言葉の意味の奥からの意志の力で暗示的に語ります。

かつて長いことお世話になった広島にある、瀬戸内海汽船が持っていた夢の館、星ビルでお世話をしてくださった土屋さん(本名吉田直子)が、瀬戸内海汽船の仁田会長がなされた社員研修の内容を話してくださったのですが、その時の話がとても印象的でここで皆さんにシェアしたいと思います。星ビルの名前は星の王子さまからだと聞いています。

仁田会長の社員研修は少し変わっていて、ある時は星ビルの社員に向かって「詩を沢山読みなさい」、とおっしゃったそうです。「マニアルな接客方法なんかはお客さんが喜ぶ様なものではないので、接客のセンスを磨くには良い詩を沢山読むのが一番です」とおっしゃったそうです。それを聞いた時、この仁田会長の研修は本物だと感動してしまいました。接客している時にどのような言葉を使うかはマニアルでは学べないものです。お客様がどのような方なのかを読み取って、それに相応しい言葉を選べる様になるには、言葉のセンスしかないのです。そのためには本当に詩を沢山読んで鍛えるしかないのです。私も全く仁田会長と同じ気持ちです。

 

 

 

音は聞こえないのです。倫理も無言で語ります。

2025年12月7日

先日のブログの最後の一行に何人かの方がすぐにコメントを書き込んでくださいました。響きは聞こえるものだが音というのは今はまだ聞こえていない、ということを書いたのですが、やはりそのように感じている方がいたことが嬉しく、それらのコメントを何度も読み返してしまいました。ありがとうございました。

音楽会には時々足を運びます。確かに生の音楽を聞くのは新鮮ですし、インスピレーションをもらえることもあります。だからといって生の演奏だというだけでは満足できないことも事実です。中学の時に買ってもらった小さなトランジスターラジオで聞いた音楽は今でも忘れられない思い出がたくさんあります。感動したのです。本物の感動でした。小さな安物のトランジスターのラジオの音なんて、生の演奏とは比べ物にならない幼稚なものです。しかしそんな音なのに今思うと深い満足を得ていたようです。聞いていたのは響きの向こうの音だったのかも知れません。

音楽会で実際に演奏している人が目の前にいるの目を閉じて聞くことがあります。舞台の上の演奏者が実際に楽器を演奏しているのですから、こんな贅沢なことはないのですが、生の音だからといって満足が得られるのかというと決してそんなことはなく、終わって家路に着くときに、「今日の演奏会はなんだったんだろう」と自分に問いかけたりします。今聞いてきた響きは耳に残っているのですが、心は満たされていなくて、大切なもののやり取りが演奏した人と私の間に交わされていなかったのが無性に虚しく足取りが重たいのです。

人前で演奏を聴かせられるようになるには何百回と繰り返して練習してきているはずです。確かに楽譜は間違えなく弾けていました。だからといってそれで終わりではないのです。演奏技術は申し分なく、しかも使われた楽器も名器であれば、それなりの演奏にはなります。しかし音楽はそれで完了するものではないのです。私が感動する演奏は一言で言うと豊かな演奏です。深く、静けさを湛えた演奏です。速い演奏でも落ち着きがあり、激しいフレーズでも静けさがあるものです。私は豊かさと言う言葉が一番ふさわしいと思っています。この豊かさは、何年か演奏すればものにできるのかと言うそんなことはないものです。何年も演奏しているのに、未だに豊かさとは縁のない演奏と言うのもあります。どうしたらこの豊かさをものにできるのかは、言葉にしてもあまり意味がないように思います。ハウツーではないからです。

 

小学生の子どもたちに倫理を教える小学校の先生たちを、国内留学という形で養成している教授の方とお話をした時に伺った話です。多くの先生たちはすぐに「どうしたら子どもたちに倫理という世界があることを教えられるのか、できればそのためのメソードを教えていただきたい」と言ってくると困ったような表情でお話ししていらっしゃいました。小学生への倫理の授業を志している学生を指導している多くの教授たちがメソードを立ち上げていることを指摘され、「メソードでは倫理の心を伝えられない」と断言され、批判されておられました。「倫理の世界は形にしたらその時点で価値のないものになってしまう」ともおっしゃっていました。その教授は「子どもたちには倫理という言葉を一切使わずに、倫理を感じてもらいたのでね」と言いながら「それが子どもたちに伝えられたかどうかはテストをしてもわからないのです。ところが子どもの表情を見ていると子どもが何かを感じ取ってくれたことが読み取れます。ほんの一瞬のことだったりですが」と続けられました。その一瞬はもしかすると生涯消えることのないものになっているのかも知れないのです。

倫理を感じ取る心と音楽の豊かさ、なんだかとても近いところにあるもののように思います。演奏者が、一瞬のひらめきで音を弾いたかどうかは聞いていればすぐにわかるものです。ただ練習してきた成果を舞台で披露しているだけの演奏は、聞いていて新鮮さがないのですぐに疲れてしまいます。そこからは豊かさの「ゆ」の字も感じられないのです。子どもにとっての倫理の体験も、授業の後のテストでいい点を取るとか、あるいは先生に向かって言葉で上手に説明できても、子どもの心の血や肉にならなければ意味がなく、テストなどは全く意味のない形骸化したものに過ぎないのです。

これらのことは、出会いといっているものの本質と重なり合うような気がします。人や物と出会うことができるかどうかの問題です。出会った時に「知っている」というスタンスが生まれてしまうと、もうそこでは何事も発生しないのです。出会いの本質は、出会った瞬間のひらめきです。演奏会では練習してきたことを全て忘れて、今ここで新しい出会いを喜べることが大事なのです。そのように演奏できたら、その日の演奏は演奏者にとっても生涯忘れることのないものになるはずです。子どもが倫理という世界を垣間見た一瞬、その子どもにとってその一瞬のひらめきのようなものは忘れようにも忘れられないものになっているのです。

二元論ではなく三元論

2025年12月5日

宇宙は意識から成り立っている。こんな言葉をシュタイナーは第五福音書のなかで言います。

ただここで言われている意識をどのように捉えたらいいのかは千差万別で、解釈は人の数だけあるのかも知れません。ですから意識という言葉を聞いたからと言って安心できるものは何もないということです。意識は謎に満ちているので、今日学問的な分野でいろいろなアプローチがされていますが、その正体は未だ解明されていません。

意識の持ちようで、目の前の風景が変わってしまいます。健康か病気かが逆転してしまいます。病気というのは意識の手のうちにあるものなのでしょうか。こう考えると意識というのは状況を変えてしまう魔法の力のような大変な力を持ったもののようです。

日本では昔から、病は気からと言うわけですから、意識と気とは同じとも言えます。日本人には意識というより気と言ったほうが親しみがあります。ところがこの気というのもよく分からないものですから、意識と気で面食らっていると二重の迷路に迷い込んでしまったようなものです。

急に意識がなくなるということは珍しいことではありません。貧血で意識がなくなることもありますし、手術のために射った麻酔の注射が原因で意識が戻らなくそのまま亡くなった母の友人のような例もあります。交通事故で頭を打って意識不明のまま何年も生きていた方も知っています。植物人間というような言い方もされていました。外に反応することも意識があるからなのです。ただ条件反射は意識とは少し違うもののようです。また意識について語る時には無意識という双子の片割れのことも考慮に入れないとまずいようです。

気がついているということが意識があるということでもあります。意識的にそこを通らずに来た、と言えば意図的にという意味です。何か重要な選択を迫られている時、考えても結論が出ないので無意識からの力に任せたという時は頭で決めないで腹で決めたなんて言います。意識は頭にあって無意識は腹にあるのでしょうか。無意識の方が自分のことをよく知っているとまでいう人がいます。意識というのは実に目まぐるしく私たちの日常生活の中を変化しながら出没しているもののようです。

私は音楽を聞くときぼんやりと聞くことにしています。一生懸命聞くこともたまにはありますが、遠くでまるで自分と関係がないかのように鳴っている音楽を聞くのが好きです。その時に一番その音楽のことがわかって聞いているような気がします。ガツガツになって聞いたからと言って、音楽は理解できるものではないのです。音楽が無意識、意識下と深い結びつきがあるためだと思うのですが、芸術というのは往々にして意識して接している時より無意識的にぼんやりと感じている時一番本質に近づいているのかも知れません。建築などもぼんやりと空間の中に身を置いたときにその空間が語りかけているものを聞いているものです。芸術の鑑賞に一番相応しいのはぼんやりだと自負しています。芸術史などをしっかり勉強して膨大な知識を詰め込んだからといって一枚の絵や今いる空間がわかるものではないのです。そのようにして知識や情報で分かるものというのは、他の絵と比べるときだけ有効で、一枚の絵の前でその絵からのエネルギーを感じている時には、芸術史の知識はほとんど役に立っていないものです。

私たちの生きている時代はうまく整理がつかない、なんだか混沌としているような収まりの悪さ感じます。かつて二元論という考え方が支配していた時代とは、少し違うものがあるように思っています。二元論は物事を二つに分けて整理します。白黒をはっきりさせるのです。イエスかノウかです。善か悪かと言った具合です。今は二つではなく三つに分かれているのではないかという気がするのです。三つ目がどのように働くかは一様には言えないですが、例えば子は鎹(かすがい)というとき子どもが夫婦という二極をうまく繋いでくれているということです。善と悪の間にもう鎹があるような気がするのです。グレーゾーンと捉える人もいるかも知れません。曖昧なものとも言えます。二元論ではなく三元論になったことで、整理が付きにくくなってしまったことは事実なのですが、三つ目が登場したことで無意識は活性化されたようです。二元論の時には極論しますが、考えれば結論が出たものです。はっきり結論が意識できたのです。しかし三元論では考えただけでは結論が出ないことが多く、混沌とした状況が多いようです。そんな時ぼんやりが有効になってくるようです。芸術が活躍する時です。学問も芸術的になり、科学も芸術的になり、哲学も教育も芸術的になるのです。

そしてこのぼんやりの中に直感が舞い降りてくるのです。