聞くと見るとは大違い – 日本は聞く文化。

2024年4月27日

「きく」を日本語では四つに使い分けています(もっと沢山になるかもしれません)。少なくとも「聞く」、「効く」、「利く」と「訊く」があります。この中で一番の立役者は「聞く」ですが、ここにももう一つの「きく」が隠れています、「聴く」です。耳を傾けてしっかり聞く時は後者の「聴く」が使われますが、どちらも音を「きく」ことですから、大抵の場合は「聞く」で済ませています。薬が効いているかどうか、あるいはこの間のお仕置きが効いたかどうかなどは「効く」という漢字を宛ます。右利きか左利きか、お酒を利酒するという時は「利く」という具合にです。

 

ドイツ語を日本語に訳したときに「聞く」と関連付けられているものがたくさんあります。しかし、基本的には日本語と同じで「音を聞く」ということでまとめていいと思います。

日本語で「聞く」と関連付けて訳されているドイツの言葉は、年上の人、先生の言うことを「きくHorchen」、聞き分けの良いことをGehorsamと言います。天使とか天命といった高尚なものに対しては「きくVernehmen」、解らないことを「きくFragen」、集中してちゃんと「きくZuhören」と色々な「きく」が使われています。それぞれ、状況が違うことを理解しているかどうかが問われていて、聞くこと自体は「聞くHören」と一つしかないので、日本語のように色々な「きく」があるわけではないのです。

言葉の使われ方に振り回されるのではなく、そもそもの「聞く」に焦点を当ててみると、日本語とドイツ語の間に違いなどはないことに気が付きます。両方とも対象になっているものと「一つになる」と言うことです。

ドイツ語の聞くHörenはそもそも「属している」と言うGehörenという言葉と同じで、このGehörenは今ではこのように綴りますがかつてはHörenだったので「聞く」と同じでした。「属している」とは、所属しているものと「一つになる」ということに他ならないのです。

日本語の場合もほとんど同じで四つの異った「きく」は基本的には対象と一つになることと解釈していいと思います。薬が体の中で体と一つになって「きいているか」ということですし、体が右を使うことで右とひとつになっているか、それとも左とかということです。利酒は利酒をする人が試飲するお酒と一つにならないと解らないものです。美味しい不味いという個人的な好みではなくお酒が持っている味を「利き分ける」のです。これは美味しい、これはまあまあと距離を置いていては利酒はできないのです。聞くと聴くとの違いは表面的には集中度の違いと見られています。後者の聴くの方が集中しています。この聴くは少し違う時でした。偏は耳偏で同じですが、旁の方が少し違っていて、今は「十」を書いて「四」を書いてその下の「心」を書きますが、古い漢字は「四」の下に横棒を一本引いたのです。そしてその下に「心」を書きました。その意味するところは神道の考え方に依り「一霊四魂」が表され、人間の心の中では四つの魂が一つの霊に支えられていると考えられていたのです。その「一霊四魂」が心の中で調和している時、聞く集中力が高まるとされたのです。

ちなみに耳偏を行人偏に変えると、道徳の徳になります。徳と聴とはとても近いものなのです。徳とは心の中が調和された時の行いということですし、聴くというのはただ集中度のことばかりでなく、人間の徳性に通じていて、透明に聞くということです。

日本の「きく」には今述べたような一面があり、ドイツ語の「聞くHören」が「属している」を意味しているのとよく似ていて、「大いなるものと一つになる」ことを暗示しているのだと思います。現代人が人の話を聞けなくなって、自分のことばかり主張しているのは、潜在意識の中で大いなるものへの尊敬の念が薄れているからなのかもしれません。

 

ドイツ語のいろいろな「聞く」という言葉を見てみましたが、気をつけてみてみると聞くと訳されていても「聞く」という行為そのものに焦点が合わされているのではなく、聞く状況に注目していて、状況の識別を言葉にしてるのです。状況をしっかり見極め、理解して使い分けているということです。つまり聞くことより状況理解が問われているのです。ということは「しっかり見ろ」ということで、聞くというより見ること、状況を見定め使い分けることが重要視されているので、ドイツというのは基本的には聞く文化ではなく見ることが大事な文化ということになりそうです。

見ると聞くとは正反対な所作だということも知っておきたいところです。聞くというのは目の前のもの一つになることで、見るというのは目の前のものと距離を保つということです。見るというのは知的な作業で、英語ではseeというのが「みる」を意味するものから「わかる」という意味に転移します。「聞く」というのは理屈を抜きにした、無邪気な透明な濁りのない行為ではないかという気がしてきます。

未熟な幼稚性と無邪気な童心

2024年4月27日

大人らしさと子どもらしさとは不思議な関係です。

「幼い」とか、「まだ青二才だ」と言われるのは決して嬉しいことではないですが、無邪気で純粋ですねと言われると嬉しくなってしまいます。天国に近い存在のような気がしてきます。

私たちは成長して大人になるように仕向けられていると言っていいと思います。もちろん教育はしっかりとそこに加担しています。立派な社会人にならないといけないということで教育は行われている面もあるのです。

しかし宗教的には子どもであれ、童心を大切に、無邪気で純粋であれということになっています。大人の社会に汚れれないようにということです。そうしないと天国への道は遠いいということになっています。ところでいち早く大人にしようとしているのは誰なのでしょう。今の社会はこの見えない力に追いまくられているようです。

大人と子ども、大人になると子どものままでいるというのは、大変な駆け引きです。まるで綱引きのようです。軍配はどちらにあげたらいいのでしょうか。

 

もう一つ別のタイプがあります。学者として専門分野のスペシャリストとして右に出る者がいないほど突出しているのに、幼稚で、行動全般が大人気ないというタイプです。

インファントという名前のついた症状があります。幼稚症とでも訳したらいいのでしょうか。私は一時期色々な方面の学士の方々と頻繁にお付き合いがありました。立派な博士論文を書き上げた専門家の人たちです。しかし付き合っている時にいつも感じていたのは、この人たち何かが育っていないということでした。一番顕著なのが普通でないということで、いわゆる常識というものが全く理解されていないのです。常に周りと摩擦が起きているのになぜ摩擦が生じてしまうのかは全く理解されていなかったようです。ほとんどの原因は実は些細なことだったのですが。

常識を極度にわきまえて生活している人と付き合うのも疲れるものです。決して間違いを犯してはいけないのです。適度に度を外してくれないと、窮屈になって呼吸ができなくなってしまいます。こうした常識派も偏った人たちです。やはり一種のインファントと言えると思います。

 

どちらも子どもらしさを持ち合わせていない人たちです。同時に大人らしさも持たない人たちです。子どもの時に子どもでいられなかった人たちの末路と言ったらかわいそうですが、実際にはそんな気がします。子どもの時に子どもでいられるというのは最大の贅沢のような気がします。今は子どもの社会の中に大人社会がしっかりと組み込まれているのです。

 

 

 

 

倫理はどこにあって、どこからくるのか

2024年4月26日

最近は倫理のことが気になっていますから、文章にして留めておきたいので書かせていただきます。お付き合いください。

倫理を持っている人とはいいません。

倫理観という言い方をして、倫理観に欠けている人などといいます。倫理観に満ちている人というのもおかしいです。

倫理とは何かというと、私は善と悪をおにぎりのように一つにまとめたものだと思っています。生々しい善と悪とか行き交うところです。

説教などで素晴らしいことだけを朗々と説いている人がいますが、倫理に適った話ではないのです。それは質の悪い説教話に過ぎません。もちろん悪への勧めのようなものは論外です。

倫理というと善に近いもののように捉えるのが常ですが、倫理を実践するとなると、善行ばかりでは優等生のようなもので退屈極まりなく、悪の味も知っている懐の深い人でないとできません。倫理は貧富とも関係なく、知的能力とも関係なく、才能のあるなしにも関係なく、いい人でもいいし悪い人でもいいしと、なににも依存していない自由なものです。

倫理が欠けてくると、善と悪の間の行き来が滞ってしまうと教条的になって、ドグマの世界になります。原理主義といいます。そういう人は顔が引き攣っています。懐の深い人は柔和な表情の持ち主です。そうすると倫理とは柔軟性ということでもあるようです。善と悪を思いのままに操れる人ということです。

一つの政治思想に取り憑かれてしまうと表情にすぐ現れ、それは次第に人相にまでなってゆきます。どの宗教、どの政治思想でもいいのですが、そこにどっぷり浸っている人たちには「こわばった顔立ち」という共通性が見られます。

倫理はユーモアの別名ではないかという気がしてきました。