2025年9月15日
プロの音楽会でも弾き間違いは避けられないものと言ってもいいくら間違えるものです。有名なピアニストが、「演奏会の後には自分が今日の演奏会で弾けなかった音符の音がたくさん散らばっているんだ」、と言っていますが、ピアノの大家ですらそのような状況ですから、普通の人は間違って当たり前と思っていいと思います。
ところが新聞評となると辛口の批評家が手ぐすねを引いて待っていますから、全体的には素晴らしい出来だったと言えるのに、ちょっとしたところで間違うとそこをやたらと誇張してさぞ演奏が良くなかったかのような批評文を書いたりします。私はそこのところがどうしても納得できないのです。粗探しなんてだいの大人がするものではないと思っていますから、重箱の隅っこを突っつくような粗探しはすべきてはないとその様な記事を読むたびに思います。人のケチをつけるってそんなに楽しいことなんでしょうか。性善説を信じたいのですが、そういうものに遭遇すると性悪説の傾いてしまいます。
先日のブログで褒めるるいうのは難しいということに触れましたが、今日はけなすというのはいとも簡単にできてしまうということに注目したいと思います。
極論をすれば、他人を貶めるということです。それによって自分が優位に立てるということでしょうか。人間というのはいつも上下関係を意識して生きているものの様です。いつも上位にいたいのです。韓国に呼ばれて行っていた時に、誕生日が1日でも早いと目上ということになると聞いてポカンとしてしまいました。年上の人に対しては敬語を使わなければならないということでした。そんなに細かくこだわる必要なんかないではないかと反論しましたが、受け入れてもらえませんでした。他の国ではカーストという制度もありますし、西洋社会の中では人種差別は遠いい昔の話ではなく、今でも露骨に見られるものです。みんな自分が優位に立ちたいのです。
自分を特別のものと感じたい人たちは、お役人さんの中には五万と居るみたいです。というのかそういうことを知って官僚になるのが本音の様です。役人、官僚、議員、代議士と本当は国民のために働く人たちが、一番偉そうな顔をしてフンズリ返っているのは、本末転倒です。それでは社会に支障がきたされ、社会そのものが機能しないのです。私がハンブルクの小さな障がい者施設で働いている時、何のきっかけか理事に選出されて短い期間でしたが理事を勤めていたことがありました。その時に先輩の理事に、「理事というのは偉いということではなく、施設で働いている人や施設に子どもを預けている親御さんのために、仕事を代行をしているであって、そこを履き違えると施設の運営に支障をきたすことになる」とはっきりと言われたものでした。
それなのに今の議員、代議士たちは目の前にちらついているもの、特にお金とか女とか天下りの地位に釣られてとんでもないことをしている様に見えるのです。自分達はますます偉くなったと勘違いしている様なのですが、恥を晒しているだけです。お米はたくさん実ると穂が自ずとしたの方を向くものです。「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という諺にもなっている例えですが、偉くなった人はみんな選ぶっている様では、社会は支障をきたしてしまうのです。それは今だれる目にも明らかになっているのではないかと思います。
しかしこれは人間の業というのか、一朝一夕でよくなるものではないと思うのですが、言葉にしてみました。
2025年9月11日
誰でも一度くらいは褒めたことがあるはずです。何を褒めるのかはここでは大した問題ではないので、ものでも人間でもいいのですが、駆け引きなしに素直に褒めるということをです。もしそのような経験がない方がいれば、「それは悲しいことです」と申し上げたいと思います。
褒めると言うのは難しいことだと思っています。安易に褒めるとかえって礼を逸した仕草と受け止められることもあります。相手もを不愉快にすることもあります。褒めるという所作が難しいと思うのは、基本的には敬いの気持ちにつながるからです。そのためかどうかはわかりませんが、褒めることについては意外と語られていないものです。もちろんむやみに「素晴らしい・感動した」といった言葉を連呼してもそれは誉めたことになっていないだけでなく、相手を不愉快にしていたりもします。
褒めるとは本当はとても難しいことなのです。誉めている言葉の奥に畏敬の念、敬意といったものを感じないと嫌味に聞こえねこともあります。軽々しく褒めている人を見ていると、嘘っぽく聞こえ品位を感じないだけでなく、褒めているつもりでも、おべっかいのようないやらしいものに映ります。打算の混じった褒め言葉ほど偽善的なものはないかもしれません。
褒めると言うのは評価とは違うものということを心しておかないと、両者を混同してしまいます。評価は知性から生まれるもので、色々と比較した上で下されていることが大半です。ですから評価している人は知的であることが評価されます。しかしの感情の部分は顧みられないものです。それは褒めるという行為が感情とは別のものだと知っているからだと思います。評価で大事なのは客観的であること、つまり評価の基準のようなものです。しかし客観とは言っても主観的な基準がもとになっていることもありますから、主観か客観化の境は曖昧なものと言えます。そして時に評価というのは抽象的なものになりかねません。
褒めるというのは主観からのものです。知的であろうとしている現代の人はなんでも対象を評価しています。評価の数値、点数が飛び交っていて、それがものの価値を決めてしまっていることもあります。そこで怖いのは評価が一人歩きしてしまうことです。評価とは言っても実は相対的なものだということは心しておく余裕が欲しいものです。
小学校の時に音楽の時間に一人ひとりが教室の前に出て先生の伴奏に合わせて歌わされたことがありました。それは評価されて後日点数となって渡されました。もちろん他の人にはわからないように個人にだけ渡されたように記憶しています。とは言うものの一生懸命歌ったのに評価が低かった級友はとてもガッカリしていました。音楽教師になるための養成を受けた先生の下す評価ですから、ある程度は客観的に判断されてのことと思うのですが、低い評価しかもらえなかったクラスメイトたちは納得がいかないようでした。そもそも歌うことは評価できるようなものではないと思うのですが、残酷にも点数がついてしまったのです。今にして思うと、下手とか上手を別にして良かったところを指摘して簡単な褒め言葉を渡してあげればよかったのではなかったのかと思ってしまいます。「私は、僕は歌が下手だ」と思っている同級生もいましたが、もし彼らが先生からサプライズな褒め方をされていたら、彼らの人生が変わったかもしれないと今にして思います。子どもが歌う歌に点数をつけるなんて、なんてセンスのない、残酷なことをやっていたものだとつくづく思うのは、芸術的なものは点数評価から外れているところに価値があると思っているからです。なぜそんなことが起こったのか、教育の至らなさのようなものを痛切に感じます。子どもが一週懸命歌ったことそのものが、それだけで価値のあることで、それだけでもう十分素晴らしいことなのに、そこに評価のような残酷なことがなされれるなんて、本当にセンスのないことだとただただガッカリしてしまいます。
私たちの生活の周りを見ると、評価ばかりが氾濫しています。料理の世界でも評価が見られます。大変もてはやされているようです。音楽の世界でも盛んにコンクールが催されます。絵画の世界もそうです。知的な欲望に侵されているのかもしれません。そろそろそうした評価から解放されて、一人ひとりが素晴らしいと思うものを、一人静かに褒めるような感性が育って欲しいものだと願うのです。そのことを通して人間は自律性、自立性を高めているのです。評価は、大衆を洗脳し、先導する力にもなりかねないものなのではないのでしょうか。心の底から素直に誉められる人が増えてくれることを願います。
2025年9月10日
今日は少し悪戯っぽく書いてみます。
私は時々、今一緒にいた人が人間だったのか、あるいはそうではなく人間らしく見えるが本当は上手に人間らしく振る舞っていただけの人工生命体だったのではないかと思ったりすることがあります。もちろんそんな極端なことは滅多にあるわけではありませんが、情を感じない人間味がないような人が多くなっているのことだけは事実のようです。今後将来的には人工生命体とか人造人間というものががますます優秀になってゆくことは十分考えられるわけで、そうなると人間らしい人工生命体 (アンドロイド、Android) と人間そのものとの違いはますます狭くなって行くことは必定間ないことで、しまいには違いがわからなくなってしまうような気がします。
もし一人の人間を能力とか機能するという側面からだけから見たら、それはもうすでに物的世界からものを見ていることになります。状況の中で立派に機能しているかどうかから人間を見ることになるのですから、一人の人間の人間像から離れ、人間が人間離れして、逆に人工生命体が人間らしくなるのかもしれません。Androidが人間化してくるのです。一方人間がどんどん機能的になり、物化、Android化してゆくのです。今は将来大きな流れに成長する始まりにすぎません。そのため違いはまだ明瞭ですが、これから接近どんどん進むわけですから、その時人間としてどのような立ち位置から振る舞ったらいいのか、今の時点ではまだ想像すらできないというのが正直なところだと思います。
人間は能力、記憶力、さらに機能的な側面からだけではなく、利点はなんと言ってもメンタルなサイドで、しばらくはそこを強みとして人間性という感触を持つことができるとは思いますが、心理分析、精神科学による人間分析が進み人間のメンタルが整理されデジタル化できるようになれば、人間そっくりな感情を持ったAndroidか登場することは間違いありません。優しく、思いやりもあり、言葉遣いも丁寧で、知的な分野だけでなく、心を通してしかできない領域でも人工生命体は大活躍すること請け合いです。衝動的になるようなことはなく、依怙贔屓のようなものもなく、精神異常による極度に感情に訴えるようなこともなく、賄賂のようなものは不正も知的に制御されていいるはずですから公平な住みやすい社会が生まれることと思います。穏やかな社会を作るのに貢献しているのはAndroid人間の方で、感情的な問題を起こして社会を乱しているのが人間という構図が未来像なのかもしれません。人間とは愚かなものだとAndroidから批判される時代が来るのかもしれません。
Androidも恋をするのかどうかする生殖行為を通して子孫につなげて行くことはできるのだろうか辺りが、今後のAndroidの課題かもしれません。好き嫌いという理性の枠外のことは一見初歩的なものとみなされがちですが、初歩的であればあるほど未分化の状態ですから逆に整理不能の難しい問題が潜んでいるように思います。理性的なものは思考的に整理できるものですからAndroid的ですが、心の中の好き嫌いという現象は理性から遠く離れているものであり、まだ理性がと届いていない幼稚な所と見られていますが、実は好き嫌いというエモーショナルなものは整理された心理状態とは比べ物にならないほど分かっていないものなのです。初歩的と言えるがゆえにかえって難しい面が多々あります。言語の習得のようなものです。言語を初心者に教える時が一番難しく、上級者はもう教えなくても自力でどんどん進んで行けるのですが、初心者は手取り足取りをしながら教えないとわからないので、熟知したサポートで支えてあげなければならないと言うことになり、教える側からすると非常に高度な言語能力と人間学が必要になります。
さて今日はここまでです。尻切れとんぼのような終わり方をしますが、結論めいたことを言うのは今の時点ではまだ未知数のことが多すぎます。これからの成り行きを見守るしかないようです。