日本語の目的語は時々必要です

2025年11月3日

今日は少し込み入った文法という観点からの話をしてみようと思っています。

日本語の動詞は他動詞なのに目的語なしで使われることがあることです。話の中で目的語をはっきり言わなくてもことが足りてしまうのが日本語です。

お昼時になって、近くにいる同僚に「食べにゆく?」と聞くと「行こうか」という返事が返ってきます。これで通じてしまうのです。時間帯はお昼時です。西洋の言葉だったらお昼を食べに行こうとしているのですからどこかに「昼食」と言う事柄が入っていないといけないのでしょうが、日本語では少し違います。もちろん目的語である「昼食」があるに越したことはないのでしょうが、なくても状況から判断できるので絶対に必要ということはないのです。なくて済んでしまうのです。誰が誰とというのも状況の中に含まれていて自明のことなので、言葉にする必要がありません。つまり目的語は空気の中にあると言うことです。みんな空気を読んでいるのです。

「食べにゆく?」をみると、主語も目的語もないのです。それで通じてしまうのですから、日本語を外国語としている人は慣れるまで大変な苦労をされたのではないかと想像します。ドイツ語で「行こうか」と言っても実際に現実味が感じられません。宙に浮いた感じです。どこに、なんのために、誰がという方向性というのか、要素が欠けているため、不正確な会話ということになってしまいます。簡単にいうと何も言っていないに等しいので、相手に通じないのです。空気を読むのではなく、言葉を読むからです。

この違いは文法的な問題なのですが、実はもっと深いところに原因があると思っています。

ここまでは前置きで、本題はオイリュトミーされる方ならよくご存知の、ドイツ語で言うと、Ich denke  die Redeというものをもう一度取り上げてみます。

この文章、ドイツ人に尋ねても「よくわかりまん」という答えしか返ってきません。ドイツ人がわからないのですから、日本人にわかるはずがないのです。しかし日本でオイリュトミーをする場合ドイツ語をそのまま使ってしまっては、オイリュトミーをやっている人がチンプンカンプンということになってしまい、ことが進みません。そこで日本語に訳して日本の人たちがわかる様にしなければならないのですが、ドイツ人もわからないものを日本語にすることはできないのです。そこで苦肉の策というのか、誤訳という手法を使うことになります。そこで「私は話すことを考える」という文章を編み出します。しかしこれはドイツ語に治すとよく似ているのですがIch denke an die Redeの訳ですからそもそものIch denke die Redeとは別物なのです。本当を言うと困ったことなのですが、そもそものところがドイツ人にもわからないので訳しようがないので、間違っていてもそれが罷り通ってしまっているのです。

Denkenの意味は、現代ドイツ語では「思考する、考える」ですが、時代を遡ると「思い出す、想い出す」という意味合いが強く、さらに遡るとこの言葉が使われることは少なくなって、その代わりにGedenkenという言葉が主流になります。この言葉は現在も使われるものなのですが、使われ方が特殊で、亡くなった人のこと、死者のことを「偲んだり、思い出したり」というときにのみ使われます。ということは目の前にないものに思いを巡らしているということです。

こうしてみるとDenken、思考する、考えるという言葉にはもともと「目の前にないもの」に対して思いを巡らせていたということになります。それが時代を経て段々と目の前にあるものを考えるというふうに変化したのですが、ここで文法的な変化が起こります。たかが文法とは言えないのです。それは文法にはその言語の潜在意識、意志が生きているからです。

Denkenでこの変遷を見てみると、もともとは目の前にないものを、たとえば亡くなった方、死者に思いを巡らせるということでした。現代人の意識からすると、非現実的とも言えますが、当時は見えないものも現実だったということです。なぜかというと、Gedenkenははっきりと目的語を持っていたからです。つまりGedenkenという行為には、それが目の前になくとも、目的対象としてはっきりと対象があったということだからです。当時は見えない世界も現実だったのです。Gedenkenは目的語をもつ他動詞だったのです。

ところが現代のDenkenは自動詞なのです。ただ他動詞として使われることもあります。その時は非常に特殊で、対象が目的語として登場できるのです。その対象が何かというと自分自身です。そしてこの時の目的語は三格になります。英語で説明すると、私が彼女に誕生プレゼントをあげた、という文章に見られる、彼女にという、人称目的という形です。Denken Sie sich,というと「考えても見なさい。お考えになってみてください」ということになります。具体的に「何をどのように」考えたらいいのか、よくわからないのです。「あなた自身を考えてください」ということですから目的となるものがある様なない様なです。とにかく自分というのは一番わからないものなので、「よくわかっていないものを考えろ」ということですから、目の前にないものというかつての意味がここに残っています。目的語を持っているのでこのDenkenは他動詞です。

ところが今日では一般的にはDenkenは自動詞であるため目的語を持たないのです。日本語では自動詞と他動詞を曖昧にしています。そのため二つを区別するのは至難の業です。文頭で見たように、日本語では目的語を言わなくてもいいことが多いですから、他動詞なのに目的語がない、目的語が言葉にされないという奇妙な文法が存在するのです。だから全てが自動詞かというとそうでもないのです。

現代ドイツ語ではDenkenは目的語を取らないので自動詞扱いになります。ですから目的となる対象を持たない自己完結型となりますから、思考するというのは外に向かう行為ではなく、瞑想的なものということになります。しかし現代人の思考は瞑想のためではなく、科学の道具です。目の前にあるものしか信じていないのです。外にあるもの、つまり物質的なものに対して思考を巡らせるということです。しかしそもそもが自動詞なために対象に焦点を合わせなければなりません。そのために方向を指示するための前置詞という接着剤が必要になります。「何々について考える」とか「何々のことを考える」となって、擬似目的語が使われます。体裁だけは他動詞の様になるのです。

さて、Denkenは他動詞であることもあるのは見た通りですが、その時の目的格は三格でした。今日ではほとんど使われなくなってしまった格です。私たちが扱っているIch denke die Redeのdie Redeは格でいうと四格ですから、今日のドイツ語では何をどう考えているのかが全く検討がつきかねる、説明がつかない謎なのです。ということで、ここで一旦は行き止まりです。

ヘルマン・パウルという言語学者の著したドイツ語辞典に興味深い例が記されています。Denkenが物事の「内容」を表すときには四格を用いることかできというのです。たとえば無、悪、善、あることといったものです。真理もその中に含まれます。そのとき「内容」と「現象的に見えている対象」との境がどこにあるのかは明確には言えないと断っています。ということはdie Redeという、発言する、演説する、話をするという現象的な事柄ではなく、その中身つまり「語るということの本質、意味」に向かって思考を向けるときには四格か使えるということになります。つまりIch denke die Redeは「私は人間が語ることの意味に思考を向けている」というのが直訳になるかと思います。これでは堅苦しいのでもっと砕けた言い回しがあると思います。また状況に相応しい訳もあるに違いありません。

月への思い出話し

2025年10月29日

おととい、夕方西の空を見上げると雲の合間からくっきりとした三日月が美しく見とれてしまいました。夕闇までの僅かの間のお月見ですからありがたみも加わっていました。ここ一週間は雨模様で夜空の星とはご無沙汰していて、最後に見た月は確か夜明け前の西の空に係る下弦の三日月だったと記憶しています。新月を挟み再び現れた月は夕方の西の空に係る上弦の三日月になっていました。月は生き物のように欠けたり満ちたりしながら夜空を旅して私たちを見守っている様です。

月はラテン系の言葉ではluna、ルナで、ゲルマン系は英語ではmoon、ムーン、ドイツ語ではMond、モーントと言われそれぞれに違った捉え方がされています。共通したところでは自然現象、特に潮の満ち引きや女性の生理と結び付けられていますが、ルナの方は人間の気分を司る存在と見られているので、狼男の話などはそこ辺りに原因しているのかも知れません。ゲルマン系の月は時間を測るためのものということになる様です。昔は時間というのは天体の動きの中から読み取っていたわけで、月はその中でも身近に感じられる時間の変化を示してくれるありがたい存在だったに違いありません。

月は毎日少しづつ西から東に向けて移動します。子どもの時に近所のおじさんから、月を見ながら「拳を作って思いっきり手を夜空に向けて伸ばしてみろ」と言われてやったことがあります。それだけではなんのことかわからなかったのですが、確かに月は拳一つ分空を移動しているので、次の日は教えられた通り拳一つ分東の方に月が浮かんでいました。月の移動が、延ばした手の先の拳で測れるということを知り、ますます月が身近に感じられる様になったのを思い出します。

その月にアポロが着陸したのは高校生の頃でした。科学技術の推を集めた偉業に興奮してテレビにしがみついていました。その偉業によりいみじくも今までの月のイメージが粉々になってしまって、その日から月は全然違ったものに変わり、今までのような親しみとは違って、近くて遠いい交錯した存在になった様です。何年か続いたアポロ計画がなくなってからは、また昔の月が帰ってきました。アポロが着陸したということで近くなったのかというと逆で、月が心の中の夢から消えてかえって遠くの存在になってしまっただけでなく、色褪せた存在になってしまっていたのです。その頃には月の裏側の写真を見ても感じるものは何もなくなっていましたし、それが新月の時の反対側の満月だと分かっていてもなんだか虚しく白々しいだけでした。月の裏側には宇宙からの別の存在がすでに基地を持っているという話しも、心の中でどの様に整理していいのかわからずにいます。都市伝説という作り話ではないかと思ったりもします。

最後のアポロが月に行ってからもうずいぶん時間が経ちました。その間月面着陸の話しは観測機が頑張っているだけで、人間はいかなくなっている様です。そのおかけげで月の持つ本来の姿が心の中に蘇ってきたのは幸いでした。最近では月を見て、拳を握った腕を伸ばして、明日の月はあそこら辺りだなぁと子ども騙しのような天文観察をして楽しんでいます。

概念思考から想像力よる理解

2025年10月24日

概念思考と言われてもピンとこないかも知れませんが、物事を頭っから「こうだ」と決めてかかるということです。決めてかかる根拠はというと簡単です、思い込みです。私たちはわずかな知識と経験から、思い込みを確立させてしまっているのです。

シュタイナーはこの概念思考に陥らない様にと随所で警告しています。この概念思考がいかに恐ろしいものかをよく知っていたのです。ところがシュタイナーの本でそのことは十分承知していると自負する人たちも、実は「自分はもう概念思考から解放されている」と思いこみがちなのです。概念思考からの解放というのはそう簡単なことではないのです。自分の正体がなかなか掴めないように、自分の思い込みというのは全然気づいていないものなのです。

知っているという自負こそが思い込みの落とし穴にハマりやすいものです。知識というのは物事を理解する時に大いに役立つものですが、知識で目の前に起こっていることを固めてしまうと本末転倒です。かき集めた知識だけでは認識というレベルには達していないからです。知識から認識へと言う事なのですが、案外長く険しい道のりです。認識に至るためには、想像力からの助けが必要です。つまり認識というのは想像力による創造物という事ですから、芸術作品の様なものだとも言えます。音楽会や、美術館でたくさんの知識で、今、目の当たりにしている作品を説明してしまっている人を見かけます。沢山知っていることは悪いことではないのでしょうが、今作品を目の前にしているということは、一つの事件だとも、一回きりの一期一会だと言えるのです。その出会いの場で、知識という物差しで、今、目の前で起こっていることをコメントしてしまうとなると、今その作品と出会っていることの意味がなくなってしまいます。例えば同じ絵でも音楽でも昨日出会っていたら違った感動があったかも知れないのです。あるいは明日はまた違う感動で接しているかも知れないのです。一期一会の意味は今を生きるということでもあるのです。一期一会が実現するためには想像力がなければならないということです。

私たちが物事を理解するためには、知識ではなく想像力によって作り出されるイメージがなければ、いつも同じということになってしまいます。それではステレオタイプ、あるいはパターン化されたものということになります。

想像力を豊かにするというのは、知識を集めるのとは違います。

サッカーの試合で、ゴールの前でスクランブルのような状態でボールが誰にも予想がつかない様な動きをしているとき、一人の選手の目の前にボールが来たとします。その選手が型通りにシュートの練習ばかりしていたとすると、その時咄嗟に判断してボールをゴールに蹴り入れることはできないのです。臨機応変でなければならず、どんな時にでもどんな状態でも体がそのボールに適材適所の反応できなければ、ゴールを奪うことはできないのです。必要なのは直感的な想像力です。これをどのように訓練するのかというと、基本的な体力づくりと、基本的な技術練習を、地道に繰り返すことです。そのことからセンスが磨かれてゆきます。もちろん、ただ練習を積んだだけではダメで、試合という場数を踏むことが必須です。音楽も同じで、いくら一生懸命に一人で技術練習をしても音楽的に豊かにならないものなのです。場数を踏まないとダメだというのはスポーツも音楽も同じです。センスは本番で一番磨かれるものだと思います。

知識というのは実に融通の利かないものなのです。今盛んに取り上げられているAIも膨大な知識が寄せ集められたものです。ただ百科事典とはちがい、AIがAIなりの結論を導けるところです。しかし人間から知識を入力されるという前提で初めて可能なことです。将来的に恐ろしいのは、こちらから入力する知識が間違ったものだとしたらということです。権力者が自分の都合のいい知識だけを入力させることだって起こりうるのですから、知識が権力と結びついて、それを政治が悪用するとなると、世界の理解が偏見に満ちたものとなってしまいます。AIが言っているのだからそれは正しい、ということになればそれは大変なことなのです。そこのところに気づかずにそれが正しい解釈だと鵜呑みにしてまうのは大変危険なことです。AIが強力なプロパガンダの手段になりかねないのです。

物事を理解するために、知識一辺倒で想像力を働かせることができないとなると、その時点でAIの奴隷状態にあるということになります。AIはあくまで参考までにとどめて、各自が最終的に判断できる空間を持たないと、未来は危険なものになってしまいそうです。私たち世代はまだコンピュータが道具だという意識がありますが、なんでもAIに聞くという習慣が当然のものになったり、AIが教育に入り込んできた時に、権威として存在してしまうことになりかねないのです。

いま私たちに必要なのは、各自が想像力で理解するという習慣を持つことです。

そうして生まれた理解というのはそれだけで既に芸術作品だからです。