2026年1月9日
今日はすこぶる主観的なことを書いてみます。
シューベルトの未完成交響曲は私の音楽観の要にある作品です。この音楽を私は今までの人生の中で一番多く聞いたとはっきり言えます。音楽ってなんなのだろうという疑問が心の中に湧いてくると、知らずのうちにこの音楽に耳を傾けているのです。この曲になんらかの答えがあることを感じているからです。ところが音楽会で聞くことがほとんどないのは不思議です。思うにこの作品が地味すぎて、実はこれがシューベルトの音楽の真髄なのですが、コンサート映えしないからです。二楽章などはほとんど消えて行く様です。商業的になってしまった音楽界にからは無視されてしまうのです。それは大き要因ですが、私は他にも理由がある様に思うのです。
この曲はそれまで続いてきた西洋音楽の終着点であると言っていい作品なのです。と同時に新しい音楽のあり方の出発点にある作品なのです。歴史を見ると文化や文明にエポックというものがあります。始まりがあり終わりがあるのです。西洋音楽の始まりをいつにするのかは様々な考え方がありますが、大体五百年くらいの歴史があると考えていいと思います。古代ギリシャからグレゴリオ聖歌までを一区切りできます。その後は中世、ルネッサンスのあたりからシューベルトまでも一区切りできると思っています。普通はルネッサンス音楽、とかバロック音楽、古典派音楽、ロマン派の音楽といくつかに区分けしています。それはそれで正当性があるのでしょうが、シューベルトの未完成という交響曲の存在を考えると、そうした区分け以上に大切なことがあるのではないかと考えざるを得ないのです。音楽は作曲されてそれが上手に演奏されるという形式は今や終わりつつあるのです。作曲はされてるものの演奏者が自ら歌う音楽に変われつつあるのです。ある意味では即興性が演奏に持ち込まれると言うことです。シューベルトの音楽には即興の余地がたくさんあります。交響曲でそれがなされたのがシューベルトの未完成交響曲だと言えます。
私がそう考える決定的な要因は、この曲はシューベルが作曲してそれをオーケストラで演奏するというふうに演奏された旧来の形にいつも満足がゆかなかったからです。著名な指揮者の優れた演奏ほどつまらないのです。確かにシューベルトによって作曲されたのですが、シューベルトは押し付けるようなことはしません。指揮者はそこでオーケストラが自ら音楽を生み出せるようにするのです。
普通にいうとオーケストラは一人の作曲がが作った音楽を演奏するためにあるものです。オーケストラは一つの楽器として扱われているのです。たくさんの楽器が集まった一つの楽器なのです。作られた作品をその巨大な楽器で演奏するのです。しかしシューベルトの未完成はその限りではないのです。この巨大な楽器が自分で音楽を生み出してしまうのです。私の勝手な想像でてすが、グスタフ・マーラーやディミトリー・ショスタコービッチはシューベルトのこの精神を受け継いでいる人たちです。
優秀な指揮者になればなるほど、未完成交響曲をオーケストラという道具で立派に演奏しようとこの音楽に向かいます。それが彼らが学んできた方法なのです。それ以外は考えられないのです。しかし未完成交響曲はそうされると窮屈を感じてしまい、音楽にのびやかさがなくなってしまいます。自らが音楽を生み出すというのは、オーケストラが呼吸するということです。指揮者の支配的意図が強いとオーケスらは必ず呼吸困難に陥っています。聞いている方も苦しくなってきます。
この曲は若いオーケストラやアマチュアのオーケストラが演奏してもそれなりの音楽になります。このことはいつも不思議でした。ベートーヴェンの作品などはプロの演奏家でないと納得のゆく演奏が聞けないものですがシューベルトの未完成交響曲に限っては違うのです。指揮者が有名すぎるとかえってつまらないものになってしまうという皮肉なことが起こっているのです。
シューベルトの未完成交響曲が今後どのような形で音楽界を生き延びることができるのか私は興味津々に見守っています。今は微かな灯火にしか過ぎないこの作品ですが、将来は火が消えてしまうのか、あるいはこの灯火がこれから多くの人に引き継がれ新しい音楽を作る原動力になるのか、楽しみで仕方ないのです。
2026年1月6日
結婚生活が六十年になるご夫婦とお話しをした時に「もうすっかり相手さんのことは理解していらっしゃるのでしょうか」と聞いたのですが、「いやいや結婚した当時と同じくらいしか分かってはいないですよ」と笑い飛ばされてしまいました。「近くにいてくれる人のことは何年一緒にいてもわからないものなのでしょうね」ということでした。
その時考えていたのは、そもそも「分かる」とか「分かろう」という前提が間違っているのかもしれないということでした。六十年一緒に生きてきたというのは、実はよく分かっているということの証しと考えていいものではないのかという気がしてきたのです。
「分かろう」などと力まないで、やんわりと感じてイメージされているもので十分なのかもしれません。ということは私の質問も「お互いにどのようにイメージされていますか」というのが良かったのかも知れません。
音楽を聞いていいつも不思議に思っているのは、今聞いているその音楽を理解しているのだろうかということです。好きということで聞くのですが、理解したいから聞くということはありません。音楽と理解とはどうも反りが合わないようです。もしかするとそこが私が音楽に惹かれる所なのかも知れません。
演奏会やある人の演奏をとやかく解説する人がいます。職業的な解説者、評論家と言われている人たちですが、私は時々ですが新聞などで読むことがありますが、大抵は読まなくてもいいような内容ばかりです。良かった悪かったなどと批評してなんになるのでしょう。それで音楽の進歩に寄与できるものなのでしょうか。私の知る音楽家たちは新聞の批評など一切読まないと口を揃えて言っています。
音楽を聴いているときによく風景が浮かんできます。これはイメージです。イメージ的で感じているのです。しかしそのイメージを言葉にしようとした瞬間にイメージは壊れてしまいます。でもイメージは放っておけばそのままいつまでも残っています。
今までは分かるというのは知的な作業の結果でした。そこにはある基準があり、それに沿って説明が捕捉されていって分かったということになったのです。しかしそれには基準となる物差しが必要とされていました。その時の分かるには前提があったわけで、パターン化されてしまうという欠点を伴っていました。このパターン化がこれからの分かるではかえって邪魔になると考えるのです。
では何に基づいて分かるがなされるのかということですが、ここに芸術的な理解というものが登場すると思っています。芸術というのは主観的な世界であるので、芸術作品を鑑賞する一人一人が別の理解をしていても一向に構わないものです。かえって一つの基準で判断されてしまうと、独裁的な全体主義の元での芸術作品のような極めて硬直した、一辺倒なものになってしまいます。それでは芸術とは言えないのです。プロパガンダです。
芸術を支えている美意識、美的感覚はそもそもは主観的なものなのですが、驚くなかれ時には客観でもあるのです。ただ客観とは言っても強制されるものではなく、混沌とも取られがちですが、個々の感性で測られるものです。洗練された美的感覚というのは出鱈目な主観の集まりとは違います。美的感覚の根底には見えない客観性が生きています。芸術的な感性が今まで理解に繋がるものとは考えられずにいたのは、その見えていなかった客観性が原因です。
帰って学問的な科学的客観というものは一見絶対的なもののように見えますが、案外時代のか流れの中で誤りが指摘され消えていったりしているのです。百年前の栄養学ではない日二百グラムの肉を食べタンパク質を取らなければいけないと言っていました。今そんなことをいう人はいません。客観に見える主観的なものなのかも知れません。
主観に貫かれているだけの作品にはナルシストの後味がありますが、隠れた客観がそこに流れていると世界への畏敬の念が感じられます。芸術というのは主観的客観、畏敬の念によってイキイキとしたものになってゆくのです。
2026年1月6日
歌には詩があります。歌詞と言われるものですが、その詩の言葉は歌いながら口ずさまないと思い出せないものです。この事実にはいつも不思議を感じています。これは日本語だからというのではなく、ドイツの歌の歌詞を言うときも口ずさ間ないと思い出せないものなのです。
詩は独立したものですから必ずしも歌とならなくてもいいのです。歌になりやすい詞と歌にできないような詩とがあります。どちらが良い詩なのかと言うことは言えません。ただ今までの経緯からすると難しい堅苦しい詩の言葉はメロディーになりにくいもののようです。よく文学の専門家たちはシューベルトが曲をつけた詩を「文学的には大して価値のあるものではない」など言いますが、言葉のイメージが歌になりやいすものが選ばれたので、シューベルトの歌から文学批評をしてもなんの意味もないと思います。文豪ゲーテがモーツァルトのオペラ「魔笛」を聞いて感動して、「続魔笛」と言うものを書いたのですが、文豪らしい作品で難しすぎて誰も音楽をつけようとはしなかったと言われています。「魔笛」の台詞は至って単純なものだったのでオペラになれたのです。いわゆる学問的な専門用語などは絶対に歌として歌えない言葉です。もし仮に誰かが哲学の専門書に歌をつけたとしても、とてもじゃないですが歌えるものではないはずです。もちろん聞くに耐えるものでもないと思います。
料理などもよく似ていて、素材を生かしたものが本当に美味しいものです。たくさん講釈をつけて、難しい料理を出されても、私などは喜んでいただく気にはなれません。シンブルと言う言い方は誤解を招きやすい言葉ですが、単純なと言うより、素材に沿ったと言う意味のシンプルもあると考えています。そう言う料理はまた食べたくなります。歌も同じで、歌詞とメロディーがマッチしていると長く歌い続けられるものです。
言葉の生い立ちを見ると、そもそもは歌われたものだと言うことがわかってきます。オーストリアのアポリジニは言葉は祈るためと歌うためにあると考えています。歌抜きには言葉は考えられないといってもいいのです。言葉が歌離れをしたのは、言葉に散文が居場所を獲得したときからです。言葉が理屈と説明と結びついた時からです。論理的になったときです。説明することで納得が得られるようになってからです。証明が価値を持つようになってからです。
或る詞の一節が、例えば「青い空の向こうに」といったとしたら、「空の向こうとはなんなのか」と科学者は嘲笑するでしょう。科学的に証明しなければならないからです。しかも「空とはどこからどこまでで、その向こうとか彼方とはどこを指しているのか」と厳しく質問してきます。私が、「その言葉で詩心が駆り立てられるのです」といっても、お互いに平行線です。
歌の喪失というのは、言葉から魂が抜けて、意味を伝える道具になったことを意味すると思っています。今日は合唱、つまりコーラスが盛んです。私の住んでいるシュツットガルトには二重や三重のコーラスグループが存在します。このコーラスの起源は古代ギリシャで、詩を歌いながらの輪踊り、輪舞だったのです。詩は今日のように散文詩ではなく韻文という形を持ったものであり、そこにはっきりとしたリズムがあったのです。そのリズムに合わせて踊ったのです。古代ギリシャの劇の中でその輪踊りは形を変え、劇の進行を歌で説明する係になります。日本の能楽の謡と同じです。その後グレゴリオ聖歌の中では聖書の言葉を歌いながら朗誦するようになります。そこまではユニゾンと言って、一つの声部しかなく、近世に入ってパレストリーナ以降今日のコーラスの多声部形になります。
コーラスは説明と言う知的作業を音楽を使ってやっていると見ていいのかも知れません。ヨーロッパでは楽器によるの音楽が盛んになり、その音楽からの影響からいくつもの声部に分かれて歌うようになってからは歌が立体的になり、建築的な要素が増してきます。楽器での音楽作りと合唱は並行しています。言葉よりも音楽的要素が中心になったといっていいと思います。個人的には、合唱は歌と呼んていいのか迷ってしまいます。声が主体となっている音楽づくりだから歌だというのは単純過ぎる解釈です。本来の歌からはずいぶんはなれてしまったような気がします。
私たちはまた歌を取り戻すことができるのだろうかということはよく考えます。人間が歌を必要としているのは明らかです。クラシック音楽の中では歌曲の音楽会は閑古鳥が鳴くような状態ですが、ロックやポップの音楽ジャンルでは、何万人という集客が可能なのです。武道館、野球場といった規模の会場がたくさんの人で埋まるのです。多くの人が歌を求めていると見ていいのではなのでしょうか。クラシック音楽が歌を失ってしまったのとは逆に、クラシック以外の分野では歌は衰えることなく歌い続けられていると言う事実はないがしろにできない事実だと考えます。