2026年1月13日
死と向かい合うことで初めて生きることの意味が見えて来るものです。当たり前のことのように聞こえるためか普段は深く考えないものですが、これが究極の人生論なのではないのでしようか。
ペルシャの賢人であり詩人のウマル・ハイヤームの詩集「ルパイヤート」の中の有名な一節、「死して生まれよ」更に続きます「さもなければ汝は地上の単なる客人に過ぎない」この言葉は何百年も前のものなのに現代人にとっても大きな意味を持つ言葉です。
生を受けた人間は必ず死ぬものです。ハイヤームの言葉は、何事もなく平凡に生きている時にあえて死と向き合えと言っているのです。死を先取りして、何事もなく生きている真っ只中で死と向き合えとはどう言う意味なのでしょうか。
いつかは死ぬんだと言っているだけではダメだと言っているのです。ここで「死」と言っているのは生物学的な観点からの「死」ではなく、宗教的、哲学的な意味での「死」です。ランクの違う「死」と言っていいと思います。
シュタイナーが歴史観察をする時に、それぞれの時代の持つ特徴、課題を明確にします。それは時代精神と呼んでいいものです。ドイツ語ではZeitgeistと言います。歴史の流れにはエポックという単位、区切り方があると言うのです。
その見方から、私たちの時代は「意識魂の時代」と名付けられています。シュタイナー以外では耳にすることはなく、人智学特有の分け方です。このエポックは15世紀の初頭から始まって今日に至っています。ちなみにひとつ前のエポックは「悟性魂の時代」でした。そこでの課題は「意識魂」と違っていて、理解することが大きな課題だったのです。今日でもさまざまな学問を通して理解を求めていますが、私たちはひとつ前の時代精神を今でも受け継いで生きているということなのです。しかし私たちが、私たちの時代精神を生きようとする時には、理解するというのとは違うことが期待されているのです。すでに五百年も経っているのに未だひとつ前の精神を受け継いで生きているというのは、正直歯痒いものなのです。今こそ思い切って私たちの時代精神にふさわしい生き方を始めなければならないのではないかと思います。
その時にはっきりと浮かび上がるのが「死」です。「死」のプロセスです。生物学的ではなく宗教的、哲学的な「死」です。一つ前の時代ではたくさん理解したことで人生が豊かに感じられたのです。しかし今は違うのです。私たちは生きる中に「死」を取り込んでこそ生きることが豊かに感じられるのです。
「死」の意味を分かりやすくするために、ひとつ例を出してみます。一人の友人をイメージの中で「死」に追い込むのです。肉体的にではなく、哲学的にです。その友人はやり手で、羽振りよくやっているので、国内だけでなく海外にも別荘を持っていて、時々招待されるとします。お金持ちですからグルメな食事によく誘ってくれます。いつも彼もちです。乗っている車は超高級車でよくドライブに誘ってくれます。お洒落で毎年何着かのスーツやコート、セーターを新調するのでその度に古くなったものを譲ってもらっているとします。
そんな友人に付随するものをイメージの中で哲学的に「殺す」のです。別荘も、グルメな食事も、超高級車も、おしゃれな衣類も全部が消えて無くなるのです。それが「殺す」ということです。友人に付随している魅力あるものが友達から全てなくなってしまいます。それでも残っているものが友人の真の姿なのです。目の前の煌びやかな宮殿が燃え尽きて今は廃墟となってしまった様なものです。それでもその友人を友人と呼べますか、ということです。
人間は誰しも自分を夢見、自分に期待し、自分を評価しています。基本的にはみんなナルシストなのです。そうした自分に対する妄想が焼け野原になった状態が「死」というわけです。それでもあなたは生きてゆけますか、とペルシャの賢者ハイヤームは問いかけるのです。その焼け跡に何を見つけられるのかということです。何も見つけられない人もいます。その人にとっては今までの妄想が消え失せてしまったのです。そこには絶望しか残っていません。
焼け跡を見つめ、そこで新しい命をイメージすること、それが「死して生まれよ」ということです。死んだ後の生まれ変わった生は、死ぬ前の生とは別のものです。あたかも青虫から蛹になって、最後は蝶になるのと同じです。これは禅が言う「無」によく似ています。死んで全てを失うのではなく、死んだ後は無限の可能性が待っているのです。生命のこの二重構成が「意識魂」と言うことです。
最近はスピリチュアルな人たちの間で死後の世界のことなどがよく言われますが、ここで言っている死というのは、生きているときに哲学的に遭遇する死のことですから死の意味するところが違います。
音楽を演奏する時にも、この「死」という考え方はとても大切です。死んでない音楽は、たとえ上手に演奏されてもつまらないからです。死んでない演奏というのは、演奏者が自分の感動だけで演奏しているものです。それは極めてつまらない演奏と言えます。自分の感動を「死」と言うプロセスを通して蘇らせないと、人に伝わる演奏はできないものなのです。
この「死」のプロセスを通すと言う考え方は、実は何にでも当てはまることなのです。みなさんご自身で人生の中の「死」を探して、意識魂の時代に参加してください。
2026年1月12日
現代は多様化したセラピーの世界が繰り広げられています。どのくらいのセラピーがあるのか数えたことはありませんが、相当の数と種類のセラピーがあるはずです。それだけのセラピーが必要とされるくらい現代人は病んでいるということなのでしょうか。
病気が増えたというより医療の進歩により昔は分からなかったことがわかる様になったためでず。現代数えられる病名は三万くらいあり、これからも医療が進むと、皮肉なことに病名が増えてゆくのです。病気が増えたのではなく病名が増えたということの様です。
病気というのは、望まれざる客の様なもので、できれば一生健康でいたいのが誰もが望んでいるところです。現代は病気になったら治すものと考えます。病気は問題児扱いです。治療というのは解決の道ということでもてはやされるわけです。
病気というのは機械の故障とは違います。治すとは言って修理ではないの簡単なものではないのです。病(やまい)は気からと昔の人は言っていました。心の有り様が病気の原因だと考えたのです。つまり病気というのは肉体的な故障と見るのではないことになります。むしろ心に原因があると見ていたのです。
ここが病気の難しいところなのです。若い頃に大病を経験しているので、健康、病気、治療というものをずいぶん考えさせられました。病気を治療で治すという一直線では考えなくなっています。つまり治すとか治療というのは簡単なものではないというのが私のスタンスです。
病気は病むともいいます。病気は体だけが病んでいるのとは違います。病気になった時、体はどうすればいいのでしょう。体のすることは今までのことを止(や)めることです。病むは止むということです。今までの流れがそのまま続いていけばそれに越したことはないのでしょうが、いつも順風に乗っていられるものではないのが人生です。人生の中に滞りが生まれ、しこりが生じると心が病みます。そして病んだ心は体にも影響します。その時体がすべきことが「止む」と言って、今までやってきたことを止めることなのです。もしかしたら心の中でいつか止めたいと思っていたのかもしれません。しかし自分では止めると言い難く言えい出せないでいた時に、病気になることで今までのしこりなりなんなりを止めるきっかけが作られるのです。大病をした後人生が変わった人の話しはよく耳にしますが、病気が転機になったということの様です。
病気を治すということは悪いことではありません。むしろ病気と真正面から向かい合うことは大切なことです。しかしそのために大量の薬を飲んだりしているのが現代の治療だとすけば、それは考える必要があるものです。病気と向き合うというのは医療的に治療することだけではないからです。病の原因は心の中に、つまり気の中にあるのです。そこに滞りがあるのです。滞ったものを元のように流れを良くすることです。
私の個人的な経験でいうと、頭を空っぽにすることに努める様になって健康が回復した様な気がしているのて、病気が治ったとは考えていません。きっと病気どこかに燻っているのかもしれまん。それでも普通に健康に生きています。
2026年1月10日
耳慣れないことですが、唯名論と実在論という哲学的な論争がヨーロッパの中世で行われていました。哲学の分野の研究対象というだけでなく、現代社会との酷似性があるように思うので取り上げたいと思います。今回は珍しく少し厳しいことを書くことになるかもしれません。
人間ということについていう時、人間というものがその様に命名されているだけなのだというふうに考えるの唯名論一派の人たちです。一方名前が付けられているだけでなく、それ以前に人間の実態が現実を超えた世界に存在しているとするのか実在論となります。古代ギリシャの形而上学、哲学者プラトンの考えていたイデアの世界です。またその弟子のアリストテレスも、物の本質は地上に存在する以前に原形があったとする形而上学を主張しています。時代を私たちの方に引き寄せますと、ドイツの文豪ゲーテが彼の独特な自然科学的観察で、植物の世界に対して原植物と言っているのも実在論的な捉え方です。そのゲーテの自然観を引き継ぐシュタイナーもその系列と見ていいと思います。一方、現代の主流となっている自然科学的な姿勢、現象学や統計学のように、地上で姿を持った物だけを手がかりに物事を説明しようとするのは唯名論の後継者と言ってもいいのです。現代主流の唯物論的思考はかつての唯名論者そのものです。
唯物的思考、証明的自然科学とオカルト、神秘主義、エソテリックな捉え方が現代でも二分していますが、西洋哲学の歴史の中でもこの二つの対立がいつもあり、その対立の中で世界が論じられていたのは興味深いことです。おそらくこの先もこの二つの対立は引き継がれて行くに違いないのでしょう。
今回取り上げた理由は、今日の世界全体が唯名論的に傾き過ぎているという懸念からです。哲学的な言い方を使うと肩が凝りますが、日本的に「建前と本音」という言い方にしたらわかりやすいのではないかと思います。建前だけが権利を盾に横柄な態度で社会を闊歩しているのです。様々な組織がそうした名目のものに造られています。組織の名称だけみるとまともしやかで、他人が横から口を挟むことができないほど立派なのですが、そうした組織が実際にやっていることというのは名前とは裏腹に酷いものだったりすることが多いのです。名前が立派に聞こえるものほど、その内容の低劣さは増してゆくようです。それらが政治的権力と結びつくのですから、実態はさらに複雑で悪質な物に変わってゆき、まるで社会の癌と言えるものになります。建前社会の弊害は今至る所に見られます。現代社会は唯名論の末裔、とか唯物論の支配する社会という範囲を遥かに超えて、政治的には利権と結びついて外目に立派なことをいうプロパガンダでしかない、空虚な実態のない社会に変わろうとしているように見えるのです。誠実な政治家もいらっしゃいますが、その人たちはその実態を明らかにしようとしているのですが、常に猛烈な利権擁護の反対勢力によって潰されてしまうのです。
なんという社会が出来上がってしまったのでしょうか。本音で語れるような、本音で社会が動く様にするためにはどうしたらいいのでしょうか。教育を変えることが大切だと考えている方もいらっしゃいます。確かに教育もその一つとして大切な働きをするものです。しかし現代の教育は大きな組織になり過ぎています。
難しいことですが、個人個人の意識の持ち方が変わることなく変化は期待できないと思います。意識の変革が大きな力になるものだと思います。しかし入手できる情報も見えない力でコントロールされているわけですから、正しく現実を捉えることすら難しいのです。個人の意識のありようが今ほど価値あるものに見えている時代は無かったのではないのでしょうか。究極は意識なのです。意識の持ち方にかかっているのです。意識でしか根本を動かせないのです。意識は曖昧なものに見られてしまいますが、単に考えた末の成果ではなく、まだ未知の勇気の原動力となる現実を変えられる魔法の力だと思っています。