日常の中の気付き

2025年11月29日

私たちは日々どんなふうに生きているのでしょうか。もちろん人それぞれです。人によっては何となく流れに乗って生きているという人もいます。常に新しいものに挑戦している人もいます。会社を作って富豪を目指している人もいます。目標を定めてそれに向かって邁進している人もいます。みんなその人にとって日常生活ということですから、日常生活は人の数だけあるのです。人混みの中ですれちがう人みんながそれぞれにそれぞれの人生をやっているというのは目が回るほどですが、そこに多様性が感じられるのも事実です。。

ところでこの日々の生活ですが、私たちの意識の中ではどのようなスタンスをとっているのでしょうか。日々の生活を身近なものと捉えていいのでしょうか。毎日の平凡な生活ほど、案外自分らしいものはないのかもしれませんから、やはり日々の生活というのは身近なものと言っていいのかもしれません。

確かに身近なのですが、豈図らんやそうした日々の生活に潜むものは見えていそうで見えていないものなのです。修行を積まれた僧侶の方が仰るには、「日常生活への気付きが一番近い様で遠いいもの」なのだそうです。日常生活での気付きは平凡な流れの中に埋もれているものを見つけ出すわけですから、滝行や幾多の荒修行に比べるとイヴェント性が全く欠けている退屈なもののように見えるところが落とし穴の様です。かの修行僧に言わせると、「人生には目的などというものを置く必要はない」のだそうで、人生は長い道であって大切なのは今歩いていることに気が付くことの様です。老子がいう道のことを思い出しました。目的の定まった道に従うのではなくいつもの道を歩いていれば良いということの様です。歩きながら道のそばに咲いている花が何なのかに気が付くことが大切なのです。森鴎外が晩年に、散歩の時に道端に咲いている花の名前さえも知らずに生きてきたことが恥ずかしいと呟く時、軍医として名声を得て、作家としても名を成した文人が、ふと日常の偉大さに気付いた時の思いです。

日常生活は人生の根幹なのに多くの人がそこを見過ごしているのがとても残念です。現代社会はイベント社会ですから、常にどこかで催し物が企画されて多くの人が足を運びます。外からの刺激がないと退屈してしまうのです。退屈な人生なんて現代社会では誰も望んではいないのです。退屈というのはドイツ語で、時間を持て余すと言います。何もすることがないということです。自分でやりたいことが見つけられないということです。何でもいいからやりたいことをしなさいと言われても、すぐに見つかるわけではないですが、問題は自分の満足していないということではないかと思います。満足は人によって違います。大抵は何かを与えられていることで満足するのです。しかし外からのもので本当に満足できるのかというと、違います。貰えばもっと欲しくなるので、満足は永遠に得られないのです。足るを知るという姿勢がないと満足は得られないのです。先日のブログの満足するというドイツ語の古い表現が、「お陰様で満足しています」という姿勢だったことと関係しいます。与えられたことで満足できるのは、足るを知る、つまり満たされているからとお陰様という姿勢からだ知る時です。そこに直感が降りてくるものなのです。ガツガツしている人は自分の予定を滞り無く成し遂げることしか興味がないのです。

家庭料理のことは再三にわたって言ってきていますが、日常生活を一番端的に言い表しているものです。お母さんが作る料理ということですが、今日では段々と薄れているものです。その反面、YouTubeの料理の動画ではよく「おばあちゃんのレシピ」というものをよく見かけます。お袋の味よりももっと伝統に根ざしている感じがするのでしょう。毎日食べることができるというのが家庭料理ですが、ここが偉大なる所以なのです。最近はグルメの勢いに負けて、珍しいものを高級に食べることが流行っています。ミシュランの星に惑わされ長い列を作る人たちも増えているそうです。フランス人好みの料理が持て囃されているのかもしれません。しかしフランの人たちがどんな料理を食べているのか調べてみると、結構田舎の家庭料理というものが目に付きます。素朴な家庭料理というものです。しかし今や世界はファースフードの時代です。世界中、どこへ行ってもおんなじものを食べているなんて考えるだけでゾッとしてしまいます。日常生活の大切な一角が崩れ落ちてしまったというのが現実なのです。

突然話が飛びますが、クラシックの音楽好きにはベルリンフィルハーモニー管弦楽団とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団というのがとても気になるところなのです。お相撲でいうと東西の正横綱のような存在です。私が若い頃は、ベルリンの方は才能のある優秀な演奏者を世界中から駆り集めた世界最高の管弦楽団と言われていました。ではウィーンの方はというと、ウィーンは家庭音楽というヨーロッパの伝統の上に築かれた管弦楽団、そこにはヨーロッパに根付いていた家庭音楽が根っこにあると言われていました。ベルリンがどんなに上手に演奏しても、ウィーンの持つ伝統と味わいは生み出すことができないと言われたものでした。ウィーンにはウィーン節の様なものがあって、それはヨーロッパの家庭音楽のという温床があって成り立っていたものだったのです。しかし悲しいかな今のウィーンの楽団員がそのような人たちばかりだと考えられませんから、ウィーンの音もベルリンの音のように世界最高峰に近づいてきているのかもしれません。ということは世界の管弦楽団がみんなおんなじ音を出すようになる日も近いのかもしれません。

日常が失われると世界はこうなってしまうものなのです。

 

正しさはとても脆いものです

2025年11月28日

先日のブログで正しさについて書いたものへの補足的な文章です。

「正しい」といういうのはまずは感じられるもので、初めから形を持ったものではありません。もし正しいという感触を成文化したりすると正しさ本来の姿が失われてしまうものです。正しいという手応えは閃光的な直感のもとで捉えられた時にだけ存在している脆い(もろい)もので、それがある目的のために使われる段になると、正しさは権力と結びついて、権力を正当化するために盾の様な道具に成り下がってしまいます。権力はいつも自らの考えや手段こそが正しいと信じていて正当化しているのです。

ということは正しいを繰り返す人たちにはこうした下心があると考えていいのではないのでしょうか。つまりそのような形で現れる「正しいこと」はまずは疑ってみる必要があるものということです。必要以上に「正しいこと」として繰り返されたり、成文化された正しさはもう本来の正しさとは違って道具としての方便になっているからです。

賢い人たちが編み出したこの方法は実にうまく機能するもので、権力を取りたい人たちがいち早くそこに飛びついて「正しい」を振り回す姿は歴史の中で繰り返されてきました。今も繰り返されていますし、これからも繰り返されるものでしょう。正しいというのは、裏を返すと便利なものなのです。

善なるものもよく似ています。「こうすることは善であり正しいのです」と言われると返す言葉が見つからないこともあります。下手に返すと倍返しで懲らしめられたりします。それほどこの盾は硬直していて外部からでは壊せないものなのです。唯一この盾を壊すことができるのは、それまで主張してきた善や正しさに、自ら疑問を感じ始める時です。新しい正しさに気付いた時ということかも知れません。それは他人からく言い含められたために起こるものでは無く、内側から、しかも直感的に悟る様に自ら気付く時です。

モラルとか倫理についてディスカッションなどしている時も、もどかしいものを感じます。これも形にして、つまり言葉にして捉えようとすると痒いところに手が届かない様なものなのです。モラルや倫理のことで忘れてはならないのは、それが個人的なものだということです。一人ひとり違った感性で自分自身に説明されているのです。一般的になってしまったモラルや倫理は形骸化したもので、制度化され、システム化されてしまい、果ては教育の中にまで降りてきたりして、教育という名前の洗脳に化けてしまいます。

シュタイナーが学校を作るときに、先生になる人たちを中心に催された二週間にわたる集まりの基調講演として毎朝行った講演、今日「一般人間学」として読むことができますが、そこでの第一声が「この学校は知のための教育でも、情のための教育でもなく、モラルへのセンスを育てる教育を目指しているものなのです」とはっきりと言っていますが、そこでシュタイナーは自分で考えたモラルを押し付けようとしているのではないことは明らかです。そうではなく、子どもたち一人ひとりの中にモラルへのセンスを育てるという課題について語ったのです。ところがこれは至難の業です。かつてモラルは宗教という枠の中で捉えられ、教えられたものでしたが、それを外してしまうというのは無謀なことだからです。宗教が一番手っ取り早いものでしたが、そこからモラルを解放しようとするわけですから前人未到の境地です。それを教育の場で実践しようとするわけですから、シュタイナーが考えた教育は今までの教育理念からは遠く外れたものにならざるを得ないのです。

正しさ、善、モラル、倫理というのはこれからも繰り返し書いてみたいテーマです。今一番求められているものだと思うからです。よろしくお付き合いください。

 

It rains のitf八百万の世界

2025年11月26日

英語のItは文法的には不定代名詞といいます。代名詞というのはある名前を持ったものを代行しているもので、何か、例えば庭の木を指したりしているのです。しかし雨が降るという時のitは不定代名詞ということで不定ですから、何も代行するものがないということで非人称とも言われます。非人称ということは、自分を指す一人称でもなく、あなたとか君を指す二人称でもなく、彼とか彼女という三人称にも当てはまらないのです。

It rainsは雨がある、雨が降ります、雨だなどと訳せるのですが、主語はitで動詞がrainなので、直訳しようとすると「それが雨をしている」とでも訳すのでしょうか。厳密にいうと雨が降るという自然現象が説明がつかないことが問題なのです。なぜ雨が降るのか、何が雨を降らしめているのかがわからないので、不定代名詞というものを苦肉の策で編み出したということなのでしょう。誰でもないものが雨降りという行為をおこなっているのです。雷が鳴るというのも謎めいた自然現象で、そういう時にはこの誰でもない非人称を主語として登場させるのです。そのために不定代名詞なるもので文法的に文章の体裁を整えるのです。まさに苦肉の策です。

ちなみドイツ語でIt rainsはEs regntとなります。このesは英語のitよりも少しは具体的に説明ができます。出所がはっきりしているということです。昨日ブログに書いた二格というところがesの出どころです。

古い言い方に Ich bin es zufriedenという言い方があります。言いたいことは、私は満足していますということです。今日ではIch bin damit zufriedenとなり、damitという何で、どんなことで満足をしているかを明記します。古くは満足というものが曖昧なものだったようで、esでもってぼんやりと満足な自分を表した様です。このesは三人称の人称代名詞と形はおなしなのですが、実際は不定代名詞のesです。

この不定代名詞のesがどこからくるのかというと、摩訶不思議な二格からで、そこで使われている二格のesというものからです。二格というのは昨日見たように「お陰様で」を言い表すときなどに使われる、今日的には不思議な格です。お陰様と言う時も誰のおかげなのかはわからなくていいのです。空気の様なものなのか、昔よくいったお天道様なのか、とにかくこの世的なものではないことだけは確かです。雨を降らしめているのも、この世的な力ではないと昔の人は感じたのでしょう。古代のギリシャ語で雷が鳴るというのは、「ゼウスの大神様が太鼓を叩いている」というふうにいっています。自然現象は神がかっていたのです。今日では気象学が気圧や湿度などから天気を説明したことになっているので、不定代名詞を使って非人称的に言い表す必要がなくなっているのですが、言葉としては未だに未知なるものとして昔ながらに神がかり的に表現し続けています。

さて二格のesはそもそも目的語として使われるのですが、雨が降るという時には主語として使われているのです。どうしてこんな刷り違えが可能なのでしょうか。それはこの二格が魔法の使いで、目的語ともなり、また主語としても使われるからなのです。今日でも南ドイツの方言の中にDes gefällt mirと二格を主語にして言ったりします。とても気に入っている、という意味ですが、二格が主語になっているのです。もちろん現代語では主語となるのはいつも主格、つまり一格で、それしか許されていませんから、標準語的には間違いということになります。言葉というのは昔は今と違ってもっとずっと自由なものだった様で、主語になったり、述語になったり、目的語になったりと変幻自在だったのでした。つまり現代という時代は、実に型にはめられて、窮屈な言語生活を強いられているということの様です。あるいは人間がだんだん融通が利かなくなってそれにふさわしい言葉遣いを選択した結果、型にはまってしまったのかも知れません。鶏と卵の様なものでどちらが先かは分かりません。

ちなみに日本語の「雨が降る」はどういうことを言っているのでしょうか。これまた特殊な言い方の様です。雨が主語ですから、雨に行動の衝動的な意志が宿っていると見ているのです。雨の神様が体をブルッと降ったら雨になる様な感じです。さすが日本は八百万の神がいるようで雨の神様の仕業でした。