唯名論と実在論、建前と本音

2026年1月10日

耳慣れないことですが、唯名論と実在論という哲学的な論争がヨーロッパの中世で行われていました。哲学の分野の研究対象というだけでなく、現代社会との酷似性があるように思うので取り上げたいと思います。今回は珍しく少し厳しいことを書くことになるかもしれません。

人間ということについていう時、人間というものがその様に命名されているだけなのだというふうに考えるの唯名論一派の人たちです。一方名前が付けられているだけでなく、それ以前に人間の実態が現実を超えた世界に存在しているとするのか実在論となります。古代ギリシャの形而上学、哲学者プラトンの考えていたイデアの世界です。またその弟子のアリストテレスも、物の本質は地上に存在する以前に原形があったとする形而上学を主張しています。時代を私たちの方に引き寄せますと、ドイツの文豪ゲーテが彼の独特な自然科学的観察で、植物の世界に対して原植物と言っているのも実在論的な捉え方です。そのゲーテの自然観を引き継ぐシュタイナーもその系列と見ていいと思います。一方、現代の主流となっている自然科学的な姿勢、現象学や統計学のように、地上で姿を持った物だけを手がかりに物事を説明しようとするのは唯名論の後継者と言ってもいいのです。現代主流の唯物論的思考はかつての唯名論者そのものです。

唯物的思考、証明的自然科学とオカルト、神秘主義、エソテリックな捉え方が現代でも二分していますが、西洋哲学の歴史の中でもこの二つの対立がいつもあり、その対立の中で世界が論じられていたのは興味深いことです。おそらくこの先もこの二つの対立は引き継がれて行くに違いないのでしょう。

今回取り上げた理由は、今日の世界全体が唯名論的に傾き過ぎているという懸念からです。哲学的な言い方を使うと肩が凝りますが、日本的に「建前と本音」という言い方にしたらわかりやすいのではないかと思います。建前だけが権利を盾に横柄な態度で社会を闊歩しているのです。様々な組織がそうした名目のものに造られています。組織の名称だけみるとまともしやかで、他人が横から口を挟むことができないほど立派なのですが、そうした組織が実際にやっていることというのは名前とは裏腹に酷いものだったりすることが多いのです。名前が立派に聞こえるものほど、その内容の低劣さは増してゆくようです。それらが政治的権力と結びつくのですから、実態はさらに複雑で悪質な物に変わってゆき、まるで社会の癌と言えるものになります。建前社会の弊害は今至る所に見られます。現代社会は唯名論の末裔、とか唯物論の支配する社会という範囲を遥かに超えて、政治的には利権と結びついて外目に立派なことをいうプロパガンダでしかない、空虚な実態のない社会に変わろうとしているように見えるのです。誠実な政治家もいらっしゃいますが、その人たちはその実態を明らかにしようとしているのですが、常に猛烈な利権擁護の反対勢力によって潰されてしまうのです。

なんという社会が出来上がってしまったのでしょうか。本音で語れるような、本音で社会が動く様にするためにはどうしたらいいのでしょうか。教育を変えることが大切だと考えている方もいらっしゃいます。確かに教育もその一つとして大切な働きをするものです。しかし現代の教育は大きな組織になり過ぎています。

難しいことですが、個人個人の意識の持ち方が変わることなく変化は期待できないと思います。意識の変革が大きな力になるものだと思います。しかし入手できる情報も見えない力でコントロールされているわけですから、正しく現実を捉えることすら難しいのです。個人の意識のありようが今ほど価値あるものに見えている時代は無かったのではないのでしょうか。究極は意識なのです。意識の持ち方にかかっているのです。意識でしか根本を動かせないのです。意識は曖昧なものに見られてしまいますが、単に考えた末の成果ではなく、まだ未知の勇気の原動力となる現実を変えられる魔法の力だと思っています。

 

音楽の分岐点 シューベルトの未完成交響曲 

2026年1月9日

今日はすこぶる主観的なことを書いてみます。

シューベルトの未完成交響曲は私の音楽観の要にある作品です。この音楽を私は今までの人生の中で一番多く聞いたとはっきり言えます。音楽ってなんなのだろうという疑問が心の中に湧いてくると、知らずのうちにこの音楽に耳を傾けているのです。この曲になんらかの答えがあることを感じているからです。ところが音楽会で聞くことがほとんどないのは不思議です。思うにこの作品が地味すぎて、実はこれがシューベルトの音楽の真髄なのですが、コンサート映えしないからです。二楽章などはほとんど消えて行く様です。商業的になってしまった音楽界にからは無視されてしまうのです。それは大き要因ですが、私は他にも理由がある様に思うのです。

この曲はそれまで続いてきた西洋音楽の終着点であると言っていい作品なのです。と同時に新しい音楽のあり方の出発点にある作品なのです。歴史を見ると文化や文明にエポックというものがあります。始まりがあり終わりがあるのです。西洋音楽の始まりをいつにするのかは様々な考え方がありますが、大体五百年くらいの歴史があると考えていいと思います。古代ギリシャからグレゴリオ聖歌までを一区切りできます。その後は中世、ルネッサンスのあたりからシューベルトまでも一区切りできると思っています。普通はルネッサンス音楽、とかバロック音楽、古典派音楽、ロマン派の音楽といくつかに区分けしています。それはそれで正当性があるのでしょうが、シューベルトの未完成という交響曲の存在を考えると、そうした区分け以上に大切なことがあるのではないかと考えざるを得ないのです。音楽は作曲されてそれが上手に演奏されるという形式は今や終わりつつあるのです。作曲はされてるものの演奏者が自ら歌う音楽に変われつつあるのです。ある意味では即興性が演奏に持ち込まれると言うことです。シューベルトの音楽には即興の余地がたくさんあります。交響曲でそれがなされたのがシューベルトの未完成交響曲だと言えます。

私がそう考える決定的な要因は、この曲はシューベルが作曲してそれをオーケストラで演奏するというふうに演奏された旧来の形にいつも満足がゆかなかったからです。著名な指揮者の優れた演奏ほどつまらないのです。確かにシューベルトによって作曲されたのですが、シューベルトは押し付けるようなことはしません。指揮者はそこでオーケストラが自ら音楽を生み出せるようにするのです。

普通にいうとオーケストラは一人の作曲がが作った音楽を演奏するためにあるものです。オーケストラは一つの楽器として扱われているのです。たくさんの楽器が集まった一つの楽器なのです。作られた作品をその巨大な楽器で演奏するのです。しかしシューベルトの未完成はその限りではないのです。この巨大な楽器が自分で音楽を生み出してしまうのです。私の勝手な想像でてすが、グスタフ・マーラーやディミトリー・ショスタコービッチはシューベルトのこの精神を受け継いでいる人たちです。

優秀な指揮者になればなるほど、未完成交響曲をオーケストラという道具で立派に演奏しようとこの音楽に向かいます。それが彼らが学んできた方法なのです。それ以外は考えられないのです。しかし未完成交響曲はそうされると窮屈を感じてしまい、音楽にのびやかさがなくなってしまいます。自らが音楽を生み出すというのは、オーケストラが呼吸するということです。指揮者の支配的意図が強いとオーケスらは必ず呼吸困難に陥っています。聞いている方も苦しくなってきます。

この曲は若いオーケストラやアマチュアのオーケストラが演奏してもそれなりの音楽になります。このことはいつも不思議でした。ベートーヴェンの作品などはプロの演奏家でないと納得のゆく演奏が聞けないものですがシューベルトの未完成交響曲に限っては違うのです。指揮者が有名すぎるとかえってつまらないものになってしまうという皮肉なことが起こっているのです。

シューベルトの未完成交響曲が今後どのような形で音楽界を生き延びることができるのか私は興味津々に見守っています。今は微かな灯火にしか過ぎないこの作品ですが、将来は火が消えてしまうのか、あるいはこの灯火がこれから多くの人に引き継がれ新しい音楽を作る原動力になるのか、楽しみで仕方ないのです。

物事を芸術的に理解するとは

2026年1月6日

結婚生活が六十年になるご夫婦とお話しをした時に「もうすっかり相手さんのことは理解していらっしゃるのでしょうか」と聞いたのですが、「いやいや結婚した当時と同じくらいしか分かってはいないですよ」と笑い飛ばされてしまいました。「近くにいてくれる人のことは何年一緒にいてもわからないものなのでしょうね」ということでした。

その時考えていたのは、そもそも「分かる」とか「分かろう」という前提が間違っているのかもしれないということでした。六十年一緒に生きてきたというのは、実はよく分かっているということの証しと考えていいものではないのかという気がしてきたのです。

「分かろう」などと力まないで、やんわりと感じてイメージされているもので十分なのかもしれません。ということは私の質問も「お互いにどのようにイメージされていますか」というのが良かったのかも知れません。

音楽を聞いていいつも不思議に思っているのは、今聞いているその音楽を理解しているのだろうかということです。好きということで聞くのですが、理解したいから聞くということはありません。音楽と理解とはどうも反りが合わないようです。もしかするとそこが私が音楽に惹かれる所なのかも知れません。

演奏会やある人の演奏をとやかく解説する人がいます。職業的な解説者、評論家と言われている人たちですが、私は時々ですが新聞などで読むことがありますが、大抵は読まなくてもいいような内容ばかりです。良かった悪かったなどと批評してなんになるのでしょう。それで音楽の進歩に寄与できるものなのでしょうか。私の知る音楽家たちは新聞の批評など一切読まないと口を揃えて言っています。

音楽を聴いているときによく風景が浮かんできます。これはイメージです。イメージ的で感じているのです。しかしそのイメージを言葉にしようとした瞬間にイメージは壊れてしまいます。でもイメージは放っておけばそのままいつまでも残っています。

今までは分かるというのは知的な作業の結果でした。そこにはある基準があり、それに沿って説明が捕捉されていって分かったということになったのです。しかしそれには基準となる物差しが必要とされていました。その時の分かるには前提があったわけで、パターン化されてしまうという欠点を伴っていました。このパターン化がこれからの分かるではかえって邪魔になると考えるのです。

では何に基づいて分かるがなされるのかということですが、ここに芸術的な理解というものが登場すると思っています。芸術というのは主観的な世界であるので、芸術作品を鑑賞する一人一人が別の理解をしていても一向に構わないものです。かえって一つの基準で判断されてしまうと、独裁的な全体主義の元での芸術作品のような極めて硬直した、一辺倒なものになってしまいます。それでは芸術とは言えないのです。プロパガンダです。

芸術を支えている美意識、美的感覚はそもそもは主観的なものなのですが、驚くなかれ時には客観でもあるのです。ただ客観とは言っても強制されるものではなく、混沌とも取られがちですが、個々の感性で測られるものです。洗練された美的感覚というのは出鱈目な主観の集まりとは違います。美的感覚の根底には見えない客観性が生きています。芸術的な感性が今まで理解に繋がるものとは考えられずにいたのは、その見えていなかった客観性が原因です。

帰って学問的な科学的客観というものは一見絶対的なもののように見えますが、案外時代のか流れの中で誤りが指摘され消えていったりしているのです。百年前の栄養学ではない日二百グラムの肉を食べタンパク質を取らなければいけないと言っていました。今そんなことをいう人はいません。客観に見える主観的なものなのかも知れません。

主観に貫かれているだけの作品にはナルシストの後味がありますが、隠れた客観がそこに流れていると世界への畏敬の念が感じられます。芸術というのは主観的客観、畏敬の念によってイキイキとしたものになってゆくのです。