手紙が消えるデンマーク

2026年1月26日

「やぎさんゆうびん」という童謡、滑稽な状況を、白やぎと黒やぎの間の手紙のやりとりとして歌ったもので、もらった手紙をむしゃむしゃ食べてしまった黒やぎは「どうしましょう」と途方に暮れています。相手のヤギからの手紙を読む前に口にしてしまい、気がついた時には全部食べてしまって、困り果て、ついに相手のヤギに「今のお便り御用はなーあに」と聞き返す滑稽な内容です。

こんな話が通じなくなる時代が押し寄せています。

デンマークの郵便局が発表したところによると、郵便局は荷物の預かりと配達だけに業務を限定するということでした。どういうことかというと手紙を書いて投函してもそれは配達されませんということです。デンマークからはもう手紙がくることはないのです。また同国にいる友人に手紙を出しても届かないのです。デジタル化されたやりとりだけになり、アナログの筆跡のある手紙は消えてしまいもう読めなくなってしまったのです。まだFaxがあるじゃないと孫娘は慰めてくれますが、紙にに書かれた文字の持つ力は今の子どもたちには対して意味を持っていない様です。デンマークから手紙文化が消滅したと言うことで、ドイツでも明日は我が身かと心配する空気がうまれ初めています。

そのニュースを聞いて昨年何通の手紙を書いただろうかと振り返りました。なんと一通も書いていなかったのです。ということは手紙が配達されなくなっても私は困ることがないのです。したがってデンマークの郵便局が採った対策は賢明だったということになるのです。おかしなことに、デンマークの郵便業務が廃止されたとニュースで聞いた時には「けしからん」と咄嗟に思ったのですが、自分自身を振り返ると正直全然困っていないのが現実です。けしからんというのは条件反射的な衝動的なものだったのです。私だけではなく多くの方が似た様な状況を生きていらっしゃるのだと思います。だんだんと想像もしなかったことが起き始めている様です。

人とのやりとりは時代と共に変化しています。かつては人と話しをしたい時にはアポイントを取って直接その人を尋ねたものです。大事な要件の時こそそうしたものです。それが次には手紙で済ませる様になって、その次は電話でした。「電話でなんか用を済ますものではない」と少し時代遅れの私の父はよく言っていました。電話もインターネットの時代になると廃れてしまいました。駅や飛行場の公衆電話はほとんどなくなって、緊急用に一つ二つと間隔を置いて残されていますが、ほとんど使われることはない様です。

筆跡が指紋や声紋と並んでアイデンティティーを検証するためには欠かせないものだった時代がありました。しかし字を書くことがなくなったいま、筆跡は過去の遺物になってしまいました。紙の上に字を書くのは、芸術として書家などの専門家に限られてしまった様です。

 

講演のための準備

2026年1月23日

今回の日本滞在ではいくつかの講演会が予定されています。札幌、大阪、小郡、広島 そしてさいたま新都心。久しぶりの講演会でどんなふうなものになるのか楽しみです。ライアーも弾きます。

もちろんそのために準備をしなければならないと普通は考えるのでしょう。ところが私は講演会のための準備というものを今までしたことがないので、今回も準備なしで参ります。

ただ一つ準備らしいのが、こうしてブログを毎日の様に書くことです。書いていると思考が少しは働きます。これが準備といえば準備です。言葉への道筋を整えておくことです。言葉は使っていないと退化するものですから、ドイツにいて生活がドイツ語になってしまっているため、日本語が退化してしまいかねません。そこでブログで毎日日本語を使って、日本語で考える習慣を維持しないといけないわけです。ドイツ語の講演の前には、事情が違ってきます。私が好きドイツの作家の文章を力一杯、沢山読んだものです。ドイツ語への道筋というのか、流れを作るためです。日本語のためとなると、自分の中から流れを作れるのですが、私にとってのドイツ語はあくまでも外国語ですから、自分の中からドイツ語の流れを作ることはできません。そのために私の好きな文章を繰り返し読んでドイツ語という外国語である言葉の流れを外から作るのです。

講演というのは、テーマを理詰めで話すことではうまくゆかないものです。それでやってしまうと、箇条書きで済んでしまうので十分か十五分で話が終わってしまいます。短いわりに聞き手はあくびの連続です。そんなもの誰も聞きたくないのです。そうではなく、お話しに流れを作り、その流れの中で話を進めて行かなければ誰も聞いてくれないのです。何よりも流れが大事ということです。講演は活字で印刷されたものではなく書の様なものですから命は流れです。今回もブログを書いて、思考回路の錆び付いたところを修正しています。そうしていると言葉が見えてきます。ブログという書く場所を持たせてもらっていることに感謝です。

もう一つ準備らしいものと言えるのは、ドイツの友人たちと話すことです。ドイツ語ですが言葉ではなく話の内容ですから、沢山話します。つまらない、どうでもいい様なことを話します。無駄話の様なものが返って発想の転換になり、そこから何かが噴出してくることもありのです。講演というのは生き物なのです。講演は生きているのです。

今度は逆にやらないことというのはニュースは見ないことにしています。ニュースを見ていると思考が停止してしまいます。多分今日のメディアのニュースは洗脳だからでしょう。後やることは自然の中に身を置くことです。自然は何も語らないからです。講演で一番大切なのは、自分が黙ることです。公園の中には沈黙が生きていると思っています。沈黙が深ければ深いほど話が透明になってゆきます。黙っていないと話が降りてこないからです。黙って降りてくる話を皆さんと一緒に聞いているわけです。そして時には自分で感動したりしています。沈黙している自然はそれだから講演の目標であり先生なのです。講演の中で自らおしゃべりをしている様な人の話ほどつまらないものはないのです。普段おしゃべりでも講演の時は寡黙な私なのです。矛盾しているように聞こえますが、これが本当の講演の姿なのです。

 

 

山口小夜子さんのインタヴュー

2026年1月23日

久米宏さんがお亡くなりになり追悼の意味で昔の動画がたくさんアップされています。その中に山口小夜子さんにインタヴューされたものがありました。興味深く見たので報告します。

山口さんは昭和二十五年のお生まれですから私と同じ戦後の余韻のある時代を生きた方です。だからと言って共通するものはほとんどないと思うのですが、インタヴューをうかがっていると、考え方、感じ方の基本的なところに同じ時代の空気が流れている様に思えて仕方ありませんでした。ただし世界屈指のモデルさんと乞食僧です。お話の所々に出てくる禅問答のような不思議な会話の中に彼女の人となりがうかがえて惹きつけられてしまいました。五十七歳という若さでお亡くなりになったのがとても寂しいです。

なぜこのブログに山口さんを取り上げるのかというと、彼女が日本的なものを自分と同一視していたところが、モデルという欧米の影響が強い業界で珍しく、しかもそれをりきむ事なく自然体で貫いたところに強靭な意志を感じるからです。特に信念を貫く人によく見かける、表向きの柔らかさが魅力になっているところです。剣道で本当に強い人は、相手に隙があるように見えるものだと聞いたことがありますが、まさにそんな感じです。どこから打ち込んでも一本を取れそうなほど、一見スキだらけなのです。

久米宏さんの巧みな話術と見事に絡み合っていて、質問をする久米さんもタジタジになる時があるほどの話術を持っているのには、天性の素質を感じます。そなことを勉強したり、習ったりしたのではないところが、生々しくて魅力です。

久米さんに、奇抜な服をどの様に着こなしているのかと聞かれても、服に聞いています、とやんわりと躱してしまうのです。こうしようと思ったら拘りになりつまらないものになってしまいます、という事の様です。側から見ると大胆に見えるのに、本人はそんなつもりはなく、さらりとやっているだけなのが魅力の源泉なのかもしれません。

こんなに期待はずれの答えを返してくる相手はいないという様な顔を久米さんがされているのも一興です。よく散歩をされるそうで、時には何時間も歩くことがあるのだとき。そんなことを久米さんが聞かれて驚かれていました。飽きないのですか、疲れませんか、外を歩いていて目立つのでは、という様なことを聞かれると、まるで素っ頓狂な返事です。私目立たない人間なのです、とさりげなく躱すのです。ここが山口さんの原点の様です。表見は目立たない人が、実は一番存在感を持っているものなのです。偉そうなハッタリを口走る人ほど周囲からは軽く見られているものなのです。政治家によく見られます。ただ本人は気づいていないことが多いですが。

自分で育てた自分が一番強いという事の様です。山口さんはの生き方にはその強さがありYouTubeからでも伝わってきます。天才は道なき道を歩む人ですから、山口さんはまさに自らの道を行き、歩いた後に後世の人たちのために何かを残しているのでしょう。山口さんが残してくれた宝はなんなのでしょう。捉われない自然体、予め決めないこと、先入観を持たないこと、そこから生まれる存在感、そして無限大の可能性。相当直観の強い、どこかでやんわりと悟っていらっしゃる方の様です。