気持ちを込めたら変わります

2026年3月27日

気持ちを込めて作ると変わるもので顕著なのは料理です。料理は食べる人の気持ちになって作られたら必ず美味しくなります。ただこの美味しさは世の中でしきりに言われている美味しいと言うのとは少し違うような気がします。高級食材はもちろん美味しいです、プロの特別な味付けももちろんですが、何か違う美味しさです。
私に中華料理のことを色々と教えて下さった広島の中華の名人は、よく満漢全席の話をしてくれて、調味料を使うのは素材を引き出すところまでと決めていました。塩と胡椒の他にはほとんど調味料というものは使いませんでした。調味料で味付けをしたら食べた瞬間は美味しいと感じても、お料理が続くと調味料の味になってしまってしまい飽きてしまうのだそうです。彼に言わせると食べた瞬間に美味しいと感じるような料理は偽物だそうです。
心を込めて作られたお料理は体に溶けてゆきます。必要以上の調味料で作られたものの味は後まで残ります。体に消える様な透明な味は一度知ってしまうとまた食べたくなる不思議な世界です。体に溶けて消えてゆく透明な味が本物だからです。
家庭料理というのはお腹をすかして待っている子どものことを考えてお母さんががむしゃらに作るので美味しいのです。料理人が作る味にはならないですが、美味しいのです。ただ食べている子どもたちは美味しいと思って食べてはいないと思います。それでいいのです。母の無償の行為なのですから。しかしそこでしっかりと家庭の味を覚えるだけでなく、成人してからの味覚の基準が確立されるのですから、お母さんが作る、がむしゃらかも知れませんが、心のこもった料理は一生の宝なのです。
音楽も気持ちを込めないと音が客席に届かないと思っていつも弾いています。これはもちろん数値で表されるものではありませんが、私の経験から言うと音に命がない音は単なる物理的な周波数です。また意識過剰に気持ちを込めるのも逆効果です。それは自己満足の世界になってしまい、聞き手から拒否されてしまいます。頃合がとても難しいです。客席に届いている音は案外さりげなく演奏されていたりするものかも知れません。
私が苦手にしているものにセラピーがあります。基本的には若い時の大病の経験から医療に少々不信感を抱いているところがあって、そこから来ているのかも知れません。治そうとする意識が私にはどうも邪魔な様なのです。料理も同じですが、思い込みを込めすぎたものは、私の体の中にどっしりと重く残ってしまうのです。セラピーの後かえってぐたっとしていたりします。もちろん優秀なセラピストの方もぞん仕上げておりますが、その方達はやはりさりげなく施術をされます。きっと技術ではなく、意識というのか心の力で施術されているからで、力みが全くないのです。
AIの発達した時代になると効率のいいことばかりが先行してしまう様な気がしなりません。心なんて無視されてしまうのかも知れません。料理などもレシピ通りにいつも同じものができてくるようになるのかも知れせん。均一の味、表面的にはよくできている料理は見た目だけの世界のことです。料理は食べてみないとわかりません。味のない食べ物がどんどん増えている様な気がしてなりません。そうなると物作りが大切になってきます。名工の手になる心のこもった作品は美しいだけでなく使いやすいそうです。よく仕立てられた服や着物は体にぴったりとくっつく様だと聞きます。技術はもちろんですが作っている時の意識のあり方が大きいと思います。長年の経験からの蓄積が大きくものをいうのです。熟練という言葉はAIの対局ある様な言葉です。
エネルギーという言い方で物に宿っている見えない力のことを神秘的に語るのが流行っています。エネルギーはたいてい測定できる物に置き換えられています。心や意識はそうした数値では表せない物だと思うのです。昔シュタイナーの本の中で、「これから物質主義的神秘主義が横行する様になる」というのを読んだことがあります。神秘主義的なことは神秘を敬わないとわからないことだという意味に解釈しています。松のことは松に習えという芭蕉の言葉は日本的な学問のあり方の姿勢なのかも知れません。

笑いを誘う芸、狂言

2026年3月26日

笑いがどこでどのように生まれるのか研究したものを私はまだ読んだことがありません。知っている方がいらっしゃいましたら是非教えていただきたいと思います。
それに引き換え笑いの研究は結構あります。ところがそれらを読んでも笑いと親しくなったような気がしないのです。きつと笑いは研究対象としてはふさわしくないものなのでしょう。
笑いにとって必要なことは自分で笑うことなのかも知れません。うまく笑えたら全ては解決するのです。
しかし今社会から笑いがなくなりつつあります。人々は笑わなくなってしまったのでしようか。笑いが人間から遠ざかることはないので、人々が笑えなくなったと言うことの様です。

テレビで日本のお笑い芸人さんたちが一生懸命お客さんを笑わせようとしているのを見ていると、なんとなく白々しくて目を逸らしたくなります。人の悪口を言って笑いを誘ったりして品がないものも多いのです。基本的には媚びた笑いだからつまらないのです。芸人なのにそれらの笑いは芸の域に達していないのです。私が個人的に、笑いを芸として一番楽しんでいるのは狂言です。実におかしいです。素直に滑稽です。狂言ほど笑いが凝縮したものはないのではないかと思っています。白々しいとか、恥ずかしい、とか言う様な境地を遥かに越えて、素直におかしいのです。天真爛漫です。そのおかしさに釣られて観客席にいる私もつい笑ってしまうのです。この時の笑いはとても正直な笑いで私は大好きです。
狂言のテンポが、これまた実に気持よく間伸びしていて、芯からリラックスできるのです。笑いにはのんびりと言うのは大前提の様な気がします。のんびりした時間の流れです。そもそも大真面目なお能の合間に演じられるもので、お能の緊張をほぐす大切な役割を担っていますから、少し間の抜けたようなテンポが望まれているのです。狂言役者が間の抜けた様な演技をするので、観客は誘われてのんびりしてしまうのです。そうなると大しておかしくないことが可笑しくなったりするのです。「わっはっはっ」と言う狂言の演者の豪快な笑いに触れるとこちらも思わず笑いたくなります。笑わなければ損したくらいに感じてしまいます。こんなに緩んだ笑いを他には知りません。もっともっと狂言が日本ばかりでなく広く世界に普及してほしいと願っています。

沈黙礼賛、つまり人の話をよく聞くこと

2026年3月25日

沈黙にはいろいろな種類があるので見て行きたいと思います。何も喋らないことが沈黙すると言うことですが、座禅をしているとだまつて座っているのに心の中は正反対です。外めは沈黙しているのですが心中は騒がしいほどです。様々な想念、想念が回り巡っているのです。むしろコツコツと黙って仕事をしている時の方が心の中は静まり返っているものです。
初めに言葉があったのキリスト教文化の中でも沈黙は大切な心の修行に数えられています。大きな修道院のーには必ず内庭があって、そこには回廊と呼ばれるものが付いていて、そこを修道士たちは毎朝無言で歩きます。回廊で他の修道士たちと一緒になるのですがしゃべることは禁じられています。回廊には喋ることが許されている部屋が一つだけあり、そこでは修道士たちがお互いの無言で歩いている時の体験などを交換するのですが、歩いている時はしゃべるのは禁じられています。しかし黙々と歩いているだけでなくお仕事が与えられています。聖書を黙読しながら覚えるのです。一行一句暗記するのです。そうすることで心の雑念を追い払って心を空にしているのかも知れません。
私が講演している時のことは今までに何度かお話ししているので繰り返しになりますが、話をしている時には、話している自分と黙って話を聞いている自分とに分かれています。体験的に自分の話を黙って聞いていてくれるもう一人の自分がいる様に感じています。きっとこの沈黙の部分を持たずに話をすると、話が空回りしたりして活き活きしてこないような気がします。ただ話をしてるだけで時間が来ましたので終わります、となってしまう様では講演とは言えません。実際に他の人の講演を聞きにゆくと、講師が沈黙に支えられているのかどうかはわかるものです。

心の中は一日五万とも六万とも言える想念が行き交っていると言われています。座禅の時にも当然出没していますが、禅ではそれにとらわれることなく流す様にと言われます。しかしその数が半端な数ではないのでただ座っている様に見える座禅も実は大仕事なのです。
ドイツでは「無言セミナー」と言うものがよくみられます。一週間修道院などを借り切って言葉を使わない生活をする様なのです。私は体験したことがないのですが、セミナーを受けて帰ってきた人たちは口々に「リフレッシュした」「自分に帰った」と明るく言っていました。
と言うことは、自分とは自分を主張している時にいるのではなく、何も言わずにいるときにいるものと言っていいのでしょうか。つまり自分と言うのは自分だと思っているほど自分ではないと言うことなのでしようか。特に自分を育てると言うことを考えると、人の話をよく聞くことが一番の様な気がします。自分だと思っているものは過去の集大成です。よほどの天才でない限り、自分と対話して自分を膨らませ進化させることはできないものてす。過去をどんなに磨いても過去は過去で自分の思い込みの中に留まってしまいます。過去に囚われてしまうのです。自分を育てるためには人の話をよく聞くことです。そこから新しい出会いが可能になるからです。その時の刺激で自分は一歩前に進みます。人の話に耳をかたむていると実に爽やかな自分が生まれて飛び立ってゆくのを感じるものです。精神衛生上沈黙は良いものとされていますが、最高の沈黙は人の話に耳を傾けることではないかと私は思っています。私たちの日常の中に最高の修行の場があったのです。