自分のことを物語る癖

2025年12月10日

私たちの自分という意識はギリシャ時代にはすでに「汝自身をを知れ」としてみられ、それが今日まで哲学として受け継がれているのです。

近年、その聖なる問いは「自分を探す」というテーマに姿を変え、一般化して普及しています。自分探しが哲学かどうかは別として、自分探しは多くの人が興味を持つテーマとして登場したことは確かのようです。

自分探しというのは「自分とは誰なのか」を知ろうとするものなのでしょうが、自分に向き合うという行為、実は難しいもので危険なものだということは案外忘れられています。哲学で自我と向き合って自殺に追い込まれた人は数多く、そのこともこの分野が一筋縄では行かないものであることを物語っています。

ところが今日の自分探しはポピュラーな面があります。幾つかのメソッドも確立されているようで哲学者たちの迷い込んだ迷路には迷い込まずにいられるようです。ただメソッド化して簡単に自分を探せるようになったということは、自分の持つ癖のようなものと自分本来とが混ざっているような印象を与えてしまうのは否めないようです。

ドイツでも自分探しは流行しましたが、最近は少なくなっています。ところが日本では今でも継続しているようです。自分探しをしている人たちの自分というのが何なのかは人よって違うとは思うのですが、手っ取り早くいうと、自らが作る自分物語の中にある、居心地のいい自分なのではないかという気がしないでもありません。ですから自分探しをする人たちは自分物語を作ってみれば、自分が知りたい自分が自分に一番わかりやすい形で見えてくるのではないかと思ってしまうのです。自分探しといいながらそこでは苦し紛れに自分を正当化しているだけなので自己満足の域を超えていない様子も随分みてきました。

特に日本で自分探しが盛んなのは、日本人が自己主張を苦手としているところが仇となっているような気がします。そこの原因究明が進むと、自分探しは減ってゆくのではないのでしょうか。自己主張というのは基本的には自己正当化から生まれるものですから、他人思いの、他人を優先してしまう日本人はここが大の苦手なのです。ですから自分探しを他人探しに置き換えれば面白いことが起こるのではないかと考えます。ただその時の他人は自分という他人です。自分というのは実は他人でもあったという観点から自分を他人として扱ってみるのです。例えば自分の家に帰るときに「ただいま」ではなく「お邪魔します」と言ってみたりするようにです。片付けなどをしている時に、次に使う人のことを思って片付けてみるのです。ところが次に使うのが自分だったりするのを発見すると案外新鮮です。つまり自分の中に潜在している「自分という他人」に気づくことで、自分と少し距離を置いて自分をみることができると自己満足ではない自分に向かい合えるような気がするのです。

自己主張や自己正当化で凝り固まっている人たちには、他人、他者に対して気を配るということはないのです。他人が見えないのです。自分が大好きで、自分だけしか見えていないものです。この人たちの持ち込んだ自分という固い外壁を壊すのは至難の業です。思考を鍛えてゆけば知的に合理的に解決できると考えている人は、思考が記憶や習慣という名の癖の上に成り立っていることを忘れています。知的な人ほどその壁は頑固ですから、頭がいいと言われる人ほど自分の壁の中に頑固に居座っているものなのです。ということはこの壁は知性をもってしても壊せないということで、別の方法が求められることになります。

癖というのは、無くて七癖と言われるほど私たちの日常生活にこびりついたものですから、なかなか離れて行ってはくれません。瞑想などして日常から距離を置く訓練も助けになりますが、不慣れな瞑想は力が無いので、力強い日常生活からの影響は私たちに襲いかかり続けますから、日常生活から離れることはなかなかできないものです。むしろ何かに集中することの方が、日常生活を忘れるためには役に立ちます。好きなことをやっていると時間が経つのを忘れると言いますが、この時間と言われているものが日常生活の癖と絡み合っているので、時間は癖そのものと言っていいほどなのです。

日常生活から離れた、ある種の無重力な意識の状態の中で、内側から湧いてくるもの、その中に影のようなものが現れてきます。それは自分なのです。ところがそれは自分が考えていた自分とは違うもので、始めての出会いの時は戸惑いますが、それが私たちに自分というイメージを与えている存在なのです。それは芸術的感動によく似ています。芸術作品に感動した時というのは今までの自分が吹き飛ばされるような感触です。そもそも感動というものの力が相当力のあるものなのです。芸術の持つ働きは、結論的にいうと日常生活からの解放と言ってもいいもので、芸術作品に接し、感動しながら芸術へのセンスを磨くことで、自分で見えていない自分と出会えるかも知れません。出会えるとは言ってもほんの一瞬です。陶芸家の河合寛次郎は「自分に出会いたい。仕事する」と言う言葉を残しているほどです。一瞬で消えてしまいますから、説明したり解釈したりとコメントをしている内に消えてしまいます。その自分というのは理屈をつけて説明したり、自分というストーリーを作って自己満足しているところには立ち止まってくれないのです。そこに残るのは自分にとって都合のいい自分なのです。見つけてほしい自分というのは、外からの激しい衝突のような体験によって日常から解放された瞬間のわずかな時間の中に生まれる、まるで他人のような存在なのです。その瞬間は言葉では説明できない微妙で微かなものなのです。

知的な人たちはその瞬間を言葉にして語り過ぎて、かえって新しく生まれた大切な自分を壊してしまっているのかも知れません。

 

 

言葉には意味だけでなく意志がある

2025年12月8日

言葉のことを考えていると、言葉には二つのきたら木があることに気が付きます。一つは意味を伝える道具として使われるものですが、それだけでは言葉が何なのかを言い尽くしていない様に思うのです。聞き慣れない言い方かもしれませんが、言葉には意味の奥に意志が働いています。この意志は私たちが言葉を使っているときにいつも働いているのですが、辞書には載っていない見えない部分ですから、普段は気づかずにいます。

詩の言葉というのが特にあるわけではないのですが、詩に着かられている言葉は日常で使われる言葉とは少し違い、慣れていない人にはとっつきにくいものです。使われていることばは意味だけではなく、私が言葉の奥にあるものとして捉えたい意志の方が強く働いています。てすから詩を読んで意味ばかりを探そうとしている人には、詩が何を言いたいのかチンプンカンプンということがよく起こります。詩の理解というのは普通の文章などを読むのとは違いうものです。簡単に言えば感じるところから入って行かないとできないと言うことなのですが、では何を感じたら良いのかというと、言葉の意志と言うことになります。意味が言葉の現象的な表れ、機能ということだとすると、意志は深いところにある根源的な衝動と言ったらわかっていただけるかとも思います。もしかししたら死をかいた本人もはっきりと意識していなかったかもしれないものです。詩人の本能の様な物で感じ取って使っているのかもしれません。

ドイツ語で詩のことはDichtungと言います。英語ではpoet,poetryです。ドイツ語でもラテン系の外国語としてPoesieと言ったりしますが、その時は詩というよりは詩情のことを指しているようです。このDichtungというのは「凝縮した状態」と言う意味です。水が凍る時に余分なものを除いて固まる感じでイメージしていただけたらと思います。従ってそうした言葉で綴られる詩の世界は透明感があるものとも言えそうです。詩を読んで、その意味を知ろうとしても詩が言いたいことに出会えません。詩の言葉が意味だけではないからです。詩は凝縮したことで暗示的な力に支えられます。詩の言葉は直接に何かを言い表していると言うより、多義的で、いろいろなことを暗示します。

詩の透明感と多面性が詩を読む人にとっての醍醐味なのです。言葉が意志を持つと、言葉は定義的な限定された意味から多義的になるようで、そのことから詩を読む時には知っている言葉でも知らない言葉に出会ったように新鮮に感じられないと詩は遠ざかってしまいます。その時は直感が頼りになるものです。この直感が機能していないと、詩というのは何度読んでもチンプンカンプンのままなのです。散文は知性からの正確さが求められます。詩の言葉は直感の正確さとでも言いたいような、知性とは別の研ぎ澄まされた感性が求められています。知性が散文で物語る時、詩は言葉の意味の奥からの意志の力で暗示的に語ります。

かつて長いことお世話になった広島にある、瀬戸内海汽船が持っていた夢の館、星ビルでお世話をしてくださった土屋さん(本名吉田直子)が、瀬戸内海汽船の仁田会長がなされた社員研修の内容を話してくださったのですが、その時の話がとても印象的でここで皆さんにシェアしたいと思います。星ビルの名前は星の王子さまからだと聞いています。

仁田会長の社員研修は少し変わっていて、ある時は星ビルの社員に向かって「詩を沢山読みなさい」、とおっしゃったそうです。「マニアルな接客方法なんかはお客さんが喜ぶ様なものではないので、接客のセンスを磨くには良い詩を沢山読むのが一番です」とおっしゃったそうです。それを聞いた時、この仁田会長の研修は本物だと感動してしまいました。接客している時にどのような言葉を使うかはマニアルでは学べないものです。お客様がどのような方なのかを読み取って、それに相応しい言葉を選べる様になるには、言葉のセンスしかないのです。そのためには本当に詩を沢山読んで鍛えるしかないのです。私も全く仁田会長と同じ気持ちです。

 

 

 

音は聞こえないのです。倫理も無言で語ります。

2025年12月7日

先日のブログの最後の一行に何人かの方がすぐにコメントを書き込んでくださいました。響きは聞こえるものだが音というのは今はまだ聞こえていない、ということを書いたのですが、やはりそのように感じている方がいたことが嬉しく、それらのコメントを何度も読み返してしまいました。ありがとうございました。

音楽会には時々足を運びます。確かに生の音楽を聞くのは新鮮ですし、インスピレーションをもらえることもあります。だからといって生の演奏だというだけでは満足できないことも事実です。中学の時に買ってもらった小さなトランジスターラジオで聞いた音楽は今でも忘れられない思い出がたくさんあります。感動したのです。本物の感動でした。小さな安物のトランジスターのラジオの音なんて、生の演奏とは比べ物にならない幼稚なものです。しかしそんな音なのに今思うと深い満足を得ていたようです。聞いていたのは響きの向こうの音だったのかも知れません。

音楽会で実際に演奏している人が目の前にいるの目を閉じて聞くことがあります。舞台の上の演奏者が実際に楽器を演奏しているのですから、こんな贅沢なことはないのですが、生の音だからといって満足が得られるのかというと決してそんなことはなく、終わって家路に着くときに、「今日の演奏会はなんだったんだろう」と自分に問いかけたりします。今聞いてきた響きは耳に残っているのですが、心は満たされていなくて、大切なもののやり取りが演奏した人と私の間に交わされていなかったのが無性に虚しく足取りが重たいのです。

人前で演奏を聴かせられるようになるには何百回と繰り返して練習してきているはずです。確かに楽譜は間違えなく弾けていました。だからといってそれで終わりではないのです。演奏技術は申し分なく、しかも使われた楽器も名器であれば、それなりの演奏にはなります。しかし音楽はそれで完了するものではないのです。私が感動する演奏は一言で言うと豊かな演奏です。深く、静けさを湛えた演奏です。速い演奏でも落ち着きがあり、激しいフレーズでも静けさがあるものです。私は豊かさと言う言葉が一番ふさわしいと思っています。この豊かさは、何年か演奏すればものにできるのかと言うそんなことはないものです。何年も演奏しているのに、未だに豊かさとは縁のない演奏と言うのもあります。どうしたらこの豊かさをものにできるのかは、言葉にしてもあまり意味がないように思います。ハウツーではないからです。

 

小学生の子どもたちに倫理を教える小学校の先生たちを、国内留学という形で養成している教授の方とお話をした時に伺った話です。多くの先生たちはすぐに「どうしたら子どもたちに倫理という世界があることを教えられるのか、できればそのためのメソードを教えていただきたい」と言ってくると困ったような表情でお話ししていらっしゃいました。小学生への倫理の授業を志している学生を指導している多くの教授たちがメソードを立ち上げていることを指摘され、「メソードでは倫理の心を伝えられない」と断言され、批判されておられました。「倫理の世界は形にしたらその時点で価値のないものになってしまう」ともおっしゃっていました。その教授は「子どもたちには倫理という言葉を一切使わずに、倫理を感じてもらいたのでね」と言いながら「それが子どもたちに伝えられたかどうかはテストをしてもわからないのです。ところが子どもの表情を見ていると子どもが何かを感じ取ってくれたことが読み取れます。ほんの一瞬のことだったりですが」と続けられました。その一瞬はもしかすると生涯消えることのないものになっているのかも知れないのです。

倫理を感じ取る心と音楽の豊かさ、なんだかとても近いところにあるもののように思います。演奏者が、一瞬のひらめきで音を弾いたかどうかは聞いていればすぐにわかるものです。ただ練習してきた成果を舞台で披露しているだけの演奏は、聞いていて新鮮さがないのですぐに疲れてしまいます。そこからは豊かさの「ゆ」の字も感じられないのです。子どもにとっての倫理の体験も、授業の後のテストでいい点を取るとか、あるいは先生に向かって言葉で上手に説明できても、子どもの心の血や肉にならなければ意味がなく、テストなどは全く意味のない形骸化したものに過ぎないのです。

これらのことは、出会いといっているものの本質と重なり合うような気がします。人や物と出会うことができるかどうかの問題です。出会った時に「知っている」というスタンスが生まれてしまうと、もうそこでは何事も発生しないのです。出会いの本質は、出会った瞬間のひらめきです。演奏会では練習してきたことを全て忘れて、今ここで新しい出会いを喜べることが大事なのです。そのように演奏できたら、その日の演奏は演奏者にとっても生涯忘れることのないものになるはずです。子どもが倫理という世界を垣間見た一瞬、その子どもにとってその一瞬のひらめきのようなものは忘れようにも忘れられないものになっているのです。