概念思考から想像力よる理解

2025年10月24日

概念思考と言われてもピンとこないかも知れませんが、物事を頭っから「こうだ」と決めてかかるということです。決めてかかる根拠はというと簡単です、思い込みです。私たちはわずかな知識と経験から、思い込みを確立させてしまっているのです。

シュタイナーはこの概念思考に陥らない様にと随所で警告しています。この概念思考がいかに恐ろしいものかをよく知っていたのです。ところがシュタイナーの本でそのことは十分承知していると自負する人たちも、実は「自分はもう概念思考から解放されている」と思いこみがちなのです。概念思考からの解放というのはそう簡単なことではないのです。自分の正体がなかなか掴めないように、自分の思い込みというのは全然気づいていないものなのです。

知っているという自負こそが思い込みの落とし穴にハマりやすいものです。知識というのは物事を理解する時に大いに役立つものですが、知識で目の前に起こっていることを固めてしまうと本末転倒です。かき集めた知識だけでは認識というレベルには達していないからです。知識から認識へと言う事なのですが、案外長く険しい道のりです。認識に至るためには、想像力からの助けが必要です。つまり認識というのは想像力による創造物という事ですから、芸術作品の様なものだとも言えます。音楽会や、美術館でたくさんの知識で、今、目の当たりにしている作品を説明してしまっている人を見かけます。沢山知っていることは悪いことではないのでしょうが、今作品を目の前にしているということは、一つの事件だとも、一回きりの一期一会だと言えるのです。その出会いの場で、知識という物差しで、今、目の前で起こっていることをコメントしてしまうとなると、今その作品と出会っていることの意味がなくなってしまいます。例えば同じ絵でも音楽でも昨日出会っていたら違った感動があったかも知れないのです。あるいは明日はまた違う感動で接しているかも知れないのです。一期一会の意味は今を生きるということでもあるのです。一期一会が実現するためには想像力がなければならないということです。

私たちが物事を理解するためには、知識ではなく想像力によって作り出されるイメージがなければ、いつも同じということになってしまいます。それではステレオタイプ、あるいはパターン化されたものということになります。

想像力を豊かにするというのは、知識を集めるのとは違います。

サッカーの試合で、ゴールの前でスクランブルのような状態でボールが誰にも予想がつかない様な動きをしているとき、一人の選手の目の前にボールが来たとします。その選手が型通りにシュートの練習ばかりしていたとすると、その時咄嗟に判断してボールをゴールに蹴り入れることはできないのです。臨機応変でなければならず、どんな時にでもどんな状態でも体がそのボールに適材適所の反応できなければ、ゴールを奪うことはできないのです。必要なのは直感的な想像力です。これをどのように訓練するのかというと、基本的な体力づくりと、基本的な技術練習を、地道に繰り返すことです。そのことからセンスが磨かれてゆきます。もちろん、ただ練習を積んだだけではダメで、試合という場数を踏むことが必須です。音楽も同じで、いくら一生懸命に一人で技術練習をしても音楽的に豊かにならないものなのです。場数を踏まないとダメだというのはスポーツも音楽も同じです。センスは本番で一番磨かれるものだと思います。

知識というのは実に融通の利かないものなのです。今盛んに取り上げられているAIも膨大な知識が寄せ集められたものです。ただ百科事典とはちがい、AIがAIなりの結論を導けるところです。しかし人間から知識を入力されるという前提で初めて可能なことです。将来的に恐ろしいのは、こちらから入力する知識が間違ったものだとしたらということです。権力者が自分の都合のいい知識だけを入力させることだって起こりうるのですから、知識が権力と結びついて、それを政治が悪用するとなると、世界の理解が偏見に満ちたものとなってしまいます。AIが言っているのだからそれは正しい、ということになればそれは大変なことなのです。そこのところに気づかずにそれが正しい解釈だと鵜呑みにしてまうのは大変危険なことです。AIが強力なプロパガンダの手段になりかねないのです。

物事を理解するために、知識一辺倒で想像力を働かせることができないとなると、その時点でAIの奴隷状態にあるということになります。AIはあくまで参考までにとどめて、各自が最終的に判断できる空間を持たないと、未来は危険なものになってしまいそうです。私たち世代はまだコンピュータが道具だという意識がありますが、なんでもAIに聞くという習慣が当然のものになったり、AIが教育に入り込んできた時に、権威として存在してしまうことになりかねないのです。

いま私たちに必要なのは、各自が想像力で理解するという習慣を持つことです。

そうして生まれた理解というのはそれだけで既に芸術作品だからです。

優しさ、それはシューベルトのようです。

2025年10月20日

優しさ、この言葉を聞いていつも思うのはシューベルトの音楽です。シューベルトの音楽に耳を傾ける人はとても多いです。特に歌は多くの人に愛されています。「歌曲の夕べ」と題して音楽会を開いた時に、会場が人で埋まるのはシューベルトだけなのです。他にも沢山の歌曲を作った作曲家がいるのに、その人たちの「歌曲の夕べ」では人が集まらないのです。これはドイツやオーストリアだけのことではなく、ドイツ語のわからないフランスでも、イギリスでも、もちろん日本でも同じことが起こるのです。シューベルトの歌には人を惹きつける何かがあるのです。シューベルトの歌を聴きたいと思う人が沢山いるということです。

シューベルトの音楽に多くの人が惹かれるのは、彼の音楽がとても柔軟な魂から生まれる柔和な音楽だからです。角張っていないところが彼の音楽の大きな特徴で、まるで水の流れのように滞ることなく滑らかに音楽が進んでゆきます。ここに私は優しさという言い方で言い表そうとしているものと共通するものを感じています。淀みなくということです。

こんなに滑らかな音楽体験は彼以外の音楽からは得ることができないでしょう。シューベルト以外の多くの音楽は角張っていて、とんがっていますから、まるで定規で線を引いて図形を作ったもののようです。良い悪いということではなく、シューベルトの滑らかさ、と他の音楽から聞こえてくる角張ったものという二つの世界があるということです。優しさが滑らかさだとかると、角張っているのは何なのでしょうか。私には自己主張というものと角張っているとは関係していると思えてならないのです。

角張った音がからは物質的なものを感じます。物質ですから硬いという印象もあります。思考の世界でいうと、何とかというメソッドを作ってしまう様なものです。何々イズムの様なものも同様です。そのように形のあるものにすると、外から見たときにわかりやすいという利点があります。そういうのが今日の私たちの思考的習慣の様です。そこが居やすい場所になっているのです。音楽にもそういうものが期待されているのでしょう、音楽の世界では角張った硬いものが高く評価されている様です。

角張った音楽からはお説教のような、こうでなければならないという、人を正そうと言った様なものを感じてしまいます。そう言われることで心が引き締まり、解放される人もいるのでしょうから。その様な音楽が悩み苦しむ魂を解放すると言われるのでしょう。そしてそれは精神を向上させるという言い方にもつながります。精神性のある音楽ということのようです。

シューベルトの音楽には説教らしさは無縁です。厳粛な教えなどないのです。人々教え諭そうとする意志もないのです。ですからシューベルトの音楽に高尚な使命感を感じない人もいる程です。そのことから西洋音楽史的には評価は得られないのです。優しいだけでは西洋の精神史の中では評価が得られない様です。

少し極端に言っているのですが、こうした傾向はずいぶん長いことありました。徐々にシューベルトに対する評価は変わりつつある様ですが、まだ角張った音楽ほどの評価は得ていません。人々の評価は西洋音楽史の習慣の中に居座っているのかもしれません。優しいというのは高尚さと比べると色褪せているものなのでしょうか。優しというのは大したことではないのでしょうか。私にはそうは思えないのです。今の様な時代に一番求められているのは、もしかするとこの優しさなのかもしれないのです。一人ひとりの人生にそっと寄り添っている音楽、一人ひとりの人生をそのまま肯定してくれる音楽、無欲な音楽、無垢な音楽、そんなものは甘えでしかないと言われそうですが、本当にそうなのでしょうか。名声、名誉、社会的評価、ステータスなどが求められている競争社会ですから、仕方ないのでしょう。

シューベルトがプライベートで催していた音楽会、シューベルティアーデに、当時の国立ウィーンオペラで歌っていた有名な歌い手、フォーグルが遊びにきたことがありました。シューベルトの歌の楽譜を見て、シューベルトの伴奏で数曲初見で歌ったのちに、「君の歌にはハッタリが全然ないね」、と言ったと言われています。良くも悪くもなのでしょうが、結構シューベルトの本質をついていると思います。

優しい人に接すると心の深さを感じます。それはとても嬉しい出会いです。偉い人や、有名な人に出会うと心が高鳴る人もいるのでしょうが、私の心は全く動かないのです。私は優しさに一番反応するようで、音楽を聞いてもやはり優しさのあるものに心が惹かれてしまうのです。シューベルトがいてくれて本当に良かったと思うのです。

ゼロと無

2025年10月19日

今所有するものを失うなどというのは誰もが避けたいことのはずです。しかも全てを失うことすらあるとなると、それは悲劇的ですらあるのですが、そこを通ることになった人の人生は、予想に反しで逆転して良いほいに向かうことすらあるのです。

そこはゼロの領域と呼ばれています。殺風景な殺伐としたところかもしれません。ところがそこを通った人は生まれ変わるチャンスがもらえるのです。失うということは費用面的にはマイナスですが、深く考察してみると必ずしもマイナスだとは限らないのです。資産を失って奈落の底に突き落とされた人より、貧困から富を得たはずなのに、それにも拘らず虚無感に苛まされて多くの自殺者が出ているのです。プラスのはずがプラスでないということもあるのです。

このゼロの領域で何が起こっているのかとても興味があります。物質的な意味でゼロになるばかりではなく精神的にもゼロ体験というものがあります。生きながらにして死ぬのですからゼロの体験は死とは違います。学研的な人などは研究が行き詰まってにっちもさっちも行かなくなることがよくあります。研究というのは順風に進んでいるだけではないもので、知れば知るほどわからないことが増えるものだからです。今までの研究が何の意味もないものに見えてくるのです。精神修行もよく似ていて、修行というのはいつも前に向かって進んでゆくものではなく、空地遊分解のような人格破壊が起こるもので、挫折がつきものなのです。ゼロとの対面です。今までの全ての努力が一変に灰埃となって消え去ってしまうのです。今まで住んでいた家が跡形ものなく焼け野原になってしまった様なものです。

ゼロというのは英語のNothingですから、何もないということなのですが、このゼロの領域、ゼロの体験は、それに耐えることができる人にとっては、虚しさのあるところというものではないのです。むしろ富を得る方が、信じられないかもしれませんが虚しいものなのです。突然宝くじに当たって溺れるような何億というお金が舞い込んできた人たちの悲劇的な人生弾は有名です。何億の宝くじから、果ては何十億の借金を抱えた人は一人だけではないのです。ゼロは確かに何もないということなのですが、何もかも失ってしまうとしてもそこには何か不思議な魔法のような力が働いているのです。

全てを失うことから新しいことが始まるのです。これは抽象的というよりも、現実に色々な状況で聞く話です。財産を失ってそこから新しい人生が始まるといった様なことです。健康もそうで。大病をした人間がそれを克服した後新しい人生観を得て再生するのも同じです。地位や名誉を失ってどん底を体験するというのも、ゼロ体験と言っていいものです。

ここでいうゼロというのは、砂時計に例えると一番くびれた所です。そこを通過するときに変化が生まれるのです。つまり砂時計の砂が上にあるときは計るための量で満たされているのですが、その砂がくびれを通って下に流れると、下に溜まってゆく砂は計られた時間を表します。同じ砂ですが、意味が全く違います。砂はくびれを通ったことで変容するのです。三分計の砂時計であれば三分で上の砂は全部下に落ちてしまい、逆に下の器には上から流れてきた砂が溜まって行きます。三分をどちらで計るかは人によって違うかもしれませんが、失われた三分か、つまりマイナスされてゆく三分か、それとも足し算で蓄積されてゆく三分かという違いですが、この違いは同じ様に見えて真反対だという興味深いものです。