2025年12月7日
先日のブログの最後の一行に何人かの方がすぐにコメントを書き込んでくださいました。響きは聞こえるものだが音というのは今はまだ聞こえていない、ということを書いたのですが、やはりそのように感じている方がいたことが嬉しく、それらのコメントを何度も読み返してしまいました。ありがとうございました。
音楽会には時々足を運びます。確かに生の音楽を聞くのは新鮮ですし、インスピレーションをもらえることもあります。だからといって生の演奏だというだけでは満足できないことも事実です。中学の時に買ってもらった小さなトランジスターラジオで聞いた音楽は今でも忘れられない思い出がたくさんあります。感動したのです。本物の感動でした。小さな安物のトランジスターのラジオの音なんて、生の演奏とは比べ物にならない幼稚なものです。しかしそんな音なのに今思うと深い満足を得ていたようです。聞いていたのは響きの向こうの音だったのかも知れません。
音楽会で実際に演奏している人が目の前にいるの目を閉じて聞くことがあります。舞台の上の演奏者が実際に楽器を演奏しているのですから、こんな贅沢なことはないのですが、生の音だからといって満足が得られるのかというと決してそんなことはなく、終わって家路に着くときに、「今日の演奏会はなんだったんだろう」と自分に問いかけたりします。今聞いてきた響きは耳に残っているのですが、心は満たされていなくて、大切なもののやり取りが演奏した人と私の間に交わされていなかったのが無性に虚しく足取りが重たいのです。
人前で演奏を聴かせられるようになるには何百回と繰り返して練習してきているはずです。確かに楽譜は間違えなく弾けていました。だからといってそれで終わりではないのです。演奏技術は申し分なく、しかも使われた楽器も名器であれば、それなりの演奏にはなります。しかし音楽はそれで完了するものではないのです。私が感動する演奏は一言で言うと豊かな演奏です。深く、静けさを湛えた演奏です。速い演奏でも落ち着きがあり、激しいフレーズでも静けさがあるものです。私は豊かさと言う言葉が一番ふさわしいと思っています。この豊かさは、何年か演奏すればものにできるのかと言うそんなことはないものです。何年も演奏しているのに、未だに豊かさとは縁のない演奏と言うのもあります。どうしたらこの豊かさをものにできるのかは、言葉にしてもあまり意味がないように思います。ハウツーではないからです。
小学生の子どもたちに倫理を教える小学校の先生たちを、国内留学という形で養成している教授の方とお話をした時に伺った話です。多くの先生たちはすぐに「どうしたら子どもたちに倫理という世界があることを教えられるのか、できればそのためのメソードを教えていただきたい」と言ってくると困ったような表情でお話ししていらっしゃいました。小学生への倫理の授業を志している学生を指導している多くの教授たちがメソードを立ち上げていることを指摘され、「メソードでは倫理の心を伝えられない」と断言され、批判されておられました。「倫理の世界は形にしたらその時点で価値のないものになってしまう」ともおっしゃっていました。その教授は「子どもたちには倫理という言葉を一切使わずに、倫理を感じてもらいたのでね」と言いながら「それが子どもたちに伝えられたかどうかはテストをしてもわからないのです。ところが子どもの表情を見ていると子どもが何かを感じ取ってくれたことが読み取れます。ほんの一瞬のことだったりですが」と続けられました。その一瞬はもしかすると生涯消えることのないものになっているのかも知れないのです。
倫理を感じ取る心と音楽の豊かさ、なんだかとても近いところにあるもののように思います。演奏者が、一瞬のひらめきで音を弾いたかどうかは聞いていればすぐにわかるものです。ただ練習してきた成果を舞台で披露しているだけの演奏は、聞いていて新鮮さがないのですぐに疲れてしまいます。そこからは豊かさの「ゆ」の字も感じられないのです。子どもにとっての倫理の体験も、授業の後のテストでいい点を取るとか、あるいは先生に向かって言葉で上手に説明できても、子どもの心の血や肉にならなければ意味がなく、テストなどは全く意味のない形骸化したものに過ぎないのです。
これらのことは、出会いといっているものの本質と重なり合うような気がします。人や物と出会うことができるかどうかの問題です。出会った時に「知っている」というスタンスが生まれてしまうと、もうそこでは何事も発生しないのです。出会いの本質は、出会った瞬間のひらめきです。演奏会では練習してきたことを全て忘れて、今ここで新しい出会いを喜べることが大事なのです。そのように演奏できたら、その日の演奏は演奏者にとっても生涯忘れることのないものになるはずです。子どもが倫理という世界を垣間見た一瞬、その子どもにとってその一瞬のひらめきのようなものは忘れようにも忘れられないものになっているのです。
2025年12月5日
宇宙は意識から成り立っている。こんな言葉をシュタイナーは第五福音書のなかで言います。
ただここで言われている意識をどのように捉えたらいいのかは千差万別で、解釈は人の数だけあるのかも知れません。ですから意識という言葉を聞いたからと言って安心できるものは何もないということです。意識は謎に満ちているので、今日学問的な分野でいろいろなアプローチがされていますが、その正体は未だ解明されていません。
意識の持ちようで、目の前の風景が変わってしまいます。健康か病気かが逆転してしまいます。病気というのは意識の手のうちにあるものなのでしょうか。こう考えると意識というのは状況を変えてしまう魔法の力のような大変な力を持ったもののようです。
日本では昔から、病は気からと言うわけですから、意識と気とは同じとも言えます。日本人には意識というより気と言ったほうが親しみがあります。ところがこの気というのもよく分からないものですから、意識と気で面食らっていると二重の迷路に迷い込んでしまったようなものです。
急に意識がなくなるということは珍しいことではありません。貧血で意識がなくなることもありますし、手術のために射った麻酔の注射が原因で意識が戻らなくそのまま亡くなった母の友人のような例もあります。交通事故で頭を打って意識不明のまま何年も生きていた方も知っています。植物人間というような言い方もされていました。外に反応することも意識があるからなのです。ただ条件反射は意識とは少し違うもののようです。また意識について語る時には無意識という双子の片割れのことも考慮に入れないとまずいようです。
気がついているということが意識があるということでもあります。意識的にそこを通らずに来た、と言えば意図的にという意味です。何か重要な選択を迫られている時、考えても結論が出ないので無意識からの力に任せたという時は頭で決めないで腹で決めたなんて言います。意識は頭にあって無意識は腹にあるのでしょうか。無意識の方が自分のことをよく知っているとまでいう人がいます。意識というのは実に目まぐるしく私たちの日常生活の中を変化しながら出没しているもののようです。
私は音楽を聞くときぼんやりと聞くことにしています。一生懸命聞くこともたまにはありますが、遠くでまるで自分と関係がないかのように鳴っている音楽を聞くのが好きです。その時に一番その音楽のことがわかって聞いているような気がします。ガツガツになって聞いたからと言って、音楽は理解できるものではないのです。音楽が無意識、意識下と深い結びつきがあるためだと思うのですが、芸術というのは往々にして意識して接している時より無意識的にぼんやりと感じている時一番本質に近づいているのかも知れません。建築などもぼんやりと空間の中に身を置いたときにその空間が語りかけているものを聞いているものです。芸術の鑑賞に一番相応しいのはぼんやりだと自負しています。芸術史などをしっかり勉強して膨大な知識を詰め込んだからといって一枚の絵や今いる空間がわかるものではないのです。そのようにして知識や情報で分かるものというのは、他の絵と比べるときだけ有効で、一枚の絵の前でその絵からのエネルギーを感じている時には、芸術史の知識はほとんど役に立っていないものです。
私たちの生きている時代はうまく整理がつかない、なんだか混沌としているような収まりの悪さ感じます。かつて二元論という考え方が支配していた時代とは、少し違うものがあるように思っています。二元論は物事を二つに分けて整理します。白黒をはっきりさせるのです。イエスかノウかです。善か悪かと言った具合です。今は二つではなく三つに分かれているのではないかという気がするのです。三つ目がどのように働くかは一様には言えないですが、例えば子は鎹(かすがい)というとき子どもが夫婦という二極をうまく繋いでくれているということです。善と悪の間にもう鎹があるような気がするのです。グレーゾーンと捉える人もいるかも知れません。曖昧なものとも言えます。二元論ではなく三元論になったことで、整理が付きにくくなってしまったことは事実なのですが、三つ目が登場したことで無意識は活性化されたようです。二元論の時には極論しますが、考えれば結論が出たものです。はっきり結論が意識できたのです。しかし三元論では考えただけでは結論が出ないことが多く、混沌とした状況が多いようです。そんな時ぼんやりが有効になってくるようです。芸術が活躍する時です。学問も芸術的になり、科学も芸術的になり、哲学も教育も芸術的になるのです。
そしてこのぼんやりの中に直感が舞い降りてくるのです。
2025年12月4日
古事記は「天地初めてひらけし時高天原に成れる神の名は・・・」、と始まります。ここに見られる「成る」を取り上げてみることにします。
一般的な解釈としては宇宙が成り立つということですが、ちがう意味を添えて「鳴る」と解釈する方がいました。十五年ほど前に、名古屋のやまさと保育園から依頼され「古事記、人形劇版」を制作監督した時、台本を作るにあたり手当たり次第古事記について書かれたものに目を通そうと思い立ち、友人たちに協力してもらい豊富な資料を集めることができました。その中に宗教団体、生長の家の創始者、谷口雅春氏の古事記の解釈本があったのです。それを読んでいるときに「成る」は「鳴る」だという解釈に出会ったのです。谷口氏は「アメノミナカヌシの神」が宇宙に響き渡ったと理解されておられたのでした。初めて知る解釈で戸惑いましたが、なるほど「成る」という解釈では抽象的と言えるものなのに、鳴ると言うことだと宇宙に響き渡るイメージが生まれ、本当にそこから何かが始まったと言う臨場感がある時ふと感じられ納得した次第です。
旧約聖書の創世記でも言葉の響きから世界が作り出されてゆきます。言葉は言の葉ということなのですが、言の波とも解釈できます。神様が「光あれ」というと言の波から光が生まれたという解釈も成り立つわけです。しかし古事記は創世記よりさらに遡った段階の描写で、世界を創る神様が、まさに無から生まれるところですから、創世記の神様のお仕事より前の話しになります。響きと共に宇宙が生まれたと言うイメージは宇宙に命を吹き込みます。ここで言われている音の響きは、物理が説明する、物質的現象として測られる振動のことではなく、むしろ測定不可能な次元を異にした響きの根源のことです。そこから「アメノミナカヌシの神」が誕生したと言っているのです。響きと音とは混同されがちなものですが、音は芯の部分て響きは音のオーラのようなものと理解できます。厳密に言うと音というの物質的には聞こえていないものなのかも知れません。今日、音というと音楽のためのものと捉えられていますが、ここでの音は耳に聞こえているので響きのことです。古事記の中で描写されている「鳴る」は音楽以前の話しですから厳密に言えば一音の響きだったと解釈していいと思います。音楽はそうした一音の響きが素材となり作り上げた建築です。聞こえる建築です。建築がよく音楽に例えられますがこうした観点から見ると、偶然というより必然的な発想です。例えば薬師寺の五重塔を見た西洋の建築家ブルーノ・タウトは凍れる音楽と形容しています。
私たちの時代はまだまだ物質中心の世界観です。音が響くことで神様が生まれるなんて今日の物質中心の考えからは非常識な発想ですが、再びキリスト教のヨハネ福音書を引き合いに出すと「初めに言葉があった。言葉は神のもとにあった」とやはり言葉が始まりに位置しています。言葉はそもそも響いているものです。言葉はそもそもは話し言葉だったのです。さまざまな理由で文字を読めない人はいますが、その人たちも話すには不自由しないのです。言葉が文字として表されるようになった事自体は歴史的必然があったのでしょう。記録することへの要請と言ってもいいのかも知れません。私たちの生きている記録文化です。当初はごく限られた人しか文字を使いこなせませんでした。教育のお陰と言っていいのでしょうが、今日、識字率は相当高くなっています。話し言葉と表記する言葉はどこか違うものです。
日本語というのは三種類の表記システムがある特殊な言語です。習得のために大変な労力が費やされているわけですが、それが無駄な事だと外国から言われたりもしています。何度もカタカナ表記やローマ字表記が提唱されましたが、未だに漢字、ひらがな、カタカナは生き延びています。生き延びていることで歴史を確認できることは大切なことです。もしカタカナ表記に変わっていたとすると、漢字で表された歴史の中の書物等は極く限られた人にしか読めないものになっていたはずで、歴史とコンタクトが取れない哀れな国に成り下がっていたと思います。国の文化の根底が瞬く間に失われてしまうったことでしょう。何がいいのか時代が選択して行くことになるのでしょうが、書き言葉が、時代の流れの中で簡略化され、ますます記号化している姿を見ると、言葉の異変がもうすぐ起こりそうな気がしないでもありません。もしかすると言葉は音声としての言葉、表記される言葉を乗り越えて、波としてテレパシーにとって代わってしまうものなのかも知れません。昔天使という存在は言葉を持たないと聞いた時びっくりしたものですが、今日の様子を見ると、人間ももしかするともうじき波を感じるだけでわかってしまう、言葉を喋らない存在になってしまうのかも知れないと思ったりします。
そうなると響きの向こうの今はまだ聞こえない音が感じられるようになるのかも知れません。