翻訳される日本の女流文学

2026年1月21日

最近聞いた話で興味深かったのは、日本の小説が英語にたくさん翻訳されていて、イギリスの本屋さんに、日本文学という枠組みでなく、普通の小説として並べられているということでした。そして売れ筋ベスト50の中の23が日本の小説だそうです。興味を持ったどころか驚きでした。

毎年ノーベル賞の発表の時期になると「今年こそは村上春樹がノーペル文学賞か」と話題になる村上春樹をはじめ、三島由紀夫、太宰治、川端康成、谷崎潤一郎、芥川龍之介の作品が英訳されて、ずいぶん読まれているという話は聞いていたものの、日本の小説が英語圏に深く浸透していたのです。

最近の特筆すべき傾向は女性の小説家の作品が主流になっていということです。七対三くらいだそうです。ジェンダーフリーを主張する人には、男の小説、女の小説などと区別するのはおかしいということなのでしょうが、女性の小説には常にしか書けないものがあることを無視する必要はないのです。男の筆と女の筆は全く違う持ち味を持っています。ごちゃ混ぜにするのは文化への冒涜です。女性の感性が今の時代には求められているという証でもあるようです。

最近日本の小説がよく読まれるようになったのは、ひとえに翻訳への関心が高まってきていて、優れた人材が翻訳に携わっているからです。川端康成がノーベル賞を取った時に「半分は翻訳をした人にあげなければならないですよね」と三島由紀夫、伊藤整との対談で言っていたのを思い出します。日本の文学は源氏物語からの底力を持ったものなのですが、世界で読まれるためにはそれが翻訳されなければならないわけです。最近は翻訳する人への位置付けが変わってきているようで、正当に評価されていることは嬉しいことです

翻訳に関して、数年前にノーベル文学賞を取ったカズオ・イシグロ氏は興味深いことを言っています。「最近の若い文学者たちは、翻訳を意識し過ぎてしっかりした母国語で書くことを恐れていて、英語特有の言い方は他の言葉には翻訳されにくいと感じると易しい翻訳しやすい言葉を選んで使う傾向があると」と指摘していました。本来文章というものは分かり易いと言うことだけがいいのではなく、山あり谷ありの複雑な景色が美しいのに、平坦に慣らしてしまってはせっかくの景観が台無しになってしまいます。コーランというイスラムの聖典は「翻訳されたらもうコーランではない」とも言われていほどですから、翻訳によって失われるものがあることも知っておく必要があると思います。

しかし日本に自然科学の分野でノーベル受賞者が多いのは、日本語に世界のその分野の最新情報が翻訳されていて、日本人は母国語でそうした資料を読み、日本語でさらに深めることができるからだと言われています。こうすると翻訳が大きな仕事をしていることになります。ただ自然科学の翻訳と文学の翻訳とは一括りに語ってはいけなものだとは思いますが。百五十年ほど前、開国当時の日本はまさに翻訳が花盛りの時期でもありました。その末裔が今の日本です。グローバルと言う考えが蔓延している中で翻訳という恩恵と危険性とを色々と考えさせられてしまいます。

時間と空間で作る物語

2026年1月20日

縦横高さ、ここそこあそこ、昨日今日明日、そして彼と彼女、貴方と私、それらがなかったらなんてまるでSFの世界です。

物語りは人間の思考の証です。思考という聖域を無くしてしまったら、物語りが作れなくなってしまいます。人間は物語ることで生きていることの手応えを感じているのです。物語ることで充実するのです。物語ることなくしては生きてゆけない存在のようです。

二つ上の私の姉はアルツハイマーで数年前から思考が停止してしまっています。その姉がある日夢に現れたのです。

夢の中では実際より遥かにアルツハイマーが進んでいて、自分が誰で、今どこにいるのかもわからないようになっていました。体はすこぶる元気で問題がなく元気に生きていますが、姉には語る物語がなくなっていました。半分しか生きていないということなのでしょうか。物語ることからすっかり離れてしまった姉はどこを誰と生きているのでしょうか。

そうした姉のすがたを見ていると瞑想している人の様でした。瞑想している時、時空から遠ざかり物語はだんだんと影を潜めて行きます。瞑想の質が高まれば高まるほど物語からは遠ざかり、最後は消えます。物語がまだ消しきれていない間、瞑想は迷路の中の迷走にしか過ぎないのです。

姉は施設のお世話になっていますから生きてゆくのに不自由はないのです。大抵のことは周囲から手が差し伸べられてなんとかなっているのですが、姉には物語るものがなくなってしまったのです。物語るものがないのは寂しいことなのでしょうか。本人は全く気づいていないようでした。瞑想であればそれは悟りへの道です。究極の瞑想は悟りです。悟りの世界では物語りを作る要素は存在していないのです。無の世界と言われる所以です。無の世界を目指して、ついに無の世界に到達したとします。そこでは無も消えてしまいます。無という概念は物語の世界の産物だからです。無の世界に入ってしまうと、スポイトの中の水が水滴となって下に待ち受けている容器の水の中に落ちた様なものです。その瞬間に水滴が容器の水の中に溶けて消えとしまうのです。姉の存在は夷狄の水のように溶けて消えてしまっているのでしょうか。

物語は表面張力だったのです。自我という表面張力です。

姉は私がわかっているようで、私を見てなんとなく微笑みかけます。かつて生きた物語の登場人物くらいにはわかっているのかもしれません。何かを感じているのて滋養。それを感じるときだけ笑顔です。登場人物の一人なので、それ以上の意味はなく、私が誰でもいいのです。さようならと言ってもわからない様でした。「また来るね」と言っても知らん顔をしています。悟った高僧のようにさりげなく、くるりと向きを変えて施設に消えて行きました。

神は細部に宿る

2026年1月17日

高級な急須が作られる過程を動画で見て驚いたのは、相当の部分がコンピューターでコントロールされて機械で作られていることでした。自動車づくりがロボット化というのかコンピューターでコントロールされていることはいろいろな映像で見て知っていましたが、急須の様なものまで機械で、しかもここまで作られているとは想像だにしていませんでした。

粘土を捏ねるところ、急須の型に入れる粘土の量、もちろん粘土の水分などもキチッと測定されています。そのため出来上がる製品は安定した品質を維持できるのです。

もう一つ驚いたのはロボットは全てを完成させることができないということでした。ロボットの限界を超えた仕事をしているのは人間だったということです。急須の注ぎ口を急須の本体に繋ぐ所は人間の手に頼らざるを得ないものなのです。その時に思い出したのが今日のタイトルにした、「神は細部に宿る」でした。人間の手の技は機械で大方を仕上げた後の神の手の様な気がしたのです。精密な所は人間の手がするのです。

今日の社会を見ると、生きるということが型にはめられてしまっている様な気がしてならないのです。教育にも原因がある様に思います。教育は人間を社会が求めるものにするために型に嵌めてしまいます。しかしそれだけでは人間にならないのです。最後はやはり人間が仕上げないと人間にならないのです。その人間はやはり自分です。自分らしさというものです。個性と言ってもいいものです。人間とは一般化できないものなのです。一般化しようとしたところで余りがててしまうのです。だから人間なのです。そこは誰が作るのかというと人間です。人間は結局は人間によってつくられるということなのです。ここでは人間、自分と言っていますが、もしかしたらそれが神なのかもしれません。

ライフーを弾いていると、このモノづくり、人間づくりがそのまま当てはまると感じます。作品を楽譜でさらいます。指遣いなどもマスターしながら楽譜通りに弾けるまで特訓をするわけです。もしそこまででいいのならな、音楽は今日まで引き継がれることはなかったと思います。それはロボットで型に嵌められて作られた急須の様なもので、音楽らしいもので細部が欠けているのです。最後の仕上げがなされていないのです。楽譜をマスターしただけで人前で演奏しても聴衆は満足していないのです。それで演奏家が満足していたらその演奏家はしばらくすると聴衆から干されてしまうはずです。楽譜以上でなければならないのです。楽譜が弾ける様になるまででも大変な努力が必要ですが、一つの作品が音楽となるのはそこからなのです。演奏家の人為(人となり)が加味されることで初めて生きた音楽になるのです。しかしそこにアクの強い個性を盛り込んだり、自己主張が出しゃばったりすると逆効果で、せっかくの音楽が自己主張の手段になるだけで音楽ではなくなってしまうのです。楽譜だけなのか、あるいはそれ以上なのかというところが音楽的評価の境目なのです。

そこまで頑張ったとしてもまだ作品が本来演奏してほしいものとの差はあるものです。その差を取るのが悟りだと言った人がいます。語呂遊びとは思えないほど真に迫っています。そこはもう人の力を超えた神の領域の様な気がします。人知を尽くして天命を待つと言った気分です。