黒子という役割

2025年12月18日

歌舞伎の舞台の上で役者さんの衣装替えが行われることがあります。その時に着替えをスムースにするために黒子という人が登場するのですが、手際よく作業をされるその姿には見る度に感心していました。この黒子のような存在は世界の演劇舞台では例がないもので、日本独特のものとして特筆できると思います。

ミヒャエル。エンデさんはこの黒子に目をつけた劇作家でした。イタリアでエンデさんの劇が上演されると決まった時、演出家としてイタリアで舞台づくりをした時に、黒子をそこで使おうというアイデアが生まれイタリアのスタッフと話し合った結果、やってみようということになったのです。ところがいざやってみるとうまくゆかないのです。エンデさんが日本の歌舞伎の舞台で見た黒子は、そこにいるのに目立たないというのかその存在が全く感じられないくらいだったのです。ところがイタリアの舞台人が黒子に挑戦してみるのですが、エンデさんには納得がゆかないのです。何が問題だったのかというと、日本の黒子はそこにいるのに存在が見えなかったのに、イタリア人が黒子をやると丸見で邪魔になってしまうのです。まるで黒子が主役のような具合になってしまって、困った挙句、日本から黒子を呼んで実際にどういう風にやっているのかみることにしたのだそうです。

いよいよ黒子がに日本からやって来て、舞台の上で衣装の着替えを手伝ったのですが、イタリアの舞台の上でもやはり見えないのです。これにはイタリア人がびっくりしていたそうです。エンデさんが言っただけでは信じなかったイタリア人が口を揃えて「本当に見えない。なぜ見えないのだ」と不思議がったのだそうです。

イタリア人は会話をしている時によく身振り手振りで話します。路上で知り合いのイタリア人に会うと、手にした荷物を路上に置いてしっかりと身振り手振りで話し始めます。この調子で黒子をやったのでは全く場違いです。目立ちすぎます。見えてはいけないのですから、目立たないように最小限の動きに収めなければならないわけです。どんなに練習してもイタリア人に黒子は無理ということで、日本の黒子に舞台に立ってもらったということでした。

黒子に興味があると言うだけでなく、自分自身黒子でありたいと思っています。そんなところがまだたっぷり日本人です。

日本の技術の世界では、黒子的に世界の表舞台には立たず、湯あめいなブランド製品を見えないところでしっかりと支えていることが知られています。ほんの一例ですがNASAのロケットに使われるネジは、日本の町工場で手作りされているネジでなければならないと話に聞いたことがあります。ネジがしっかりと固定するのだそうです。想像を絶するような話です。またまだ数えきれないほど、なくてはならないものを日本の技術が創っているというのは、やはり黒子文化なのだと感じてしまいます。最新のテクノロジーの世界ですら黒子の素質は生きているようなのです。

 

 

 

倫理、モラル、道徳とは

2025年12月15日

今日テーマにしている倫理、モラル、道徳は工夫をすれば言葉にすることもできます。滔々と説明している人を見かけたことがあります。道徳教育としてそれらをシステム化して教育の現場で授業をしている人もいます。確かに道徳を教えているのです。しかし言葉にしたりシステム化してしまうと何かが抜けてしまうと感じるのは私だけでしようか。そこからは倫理、モラル、道徳の一番美味しいところが味わえないのです。

「ああ言う倫理観のない人とは付き合いたくない」と言うとき、その発言者には倫理というものの手ごたがある程度は確信されていたのです。ただ「倫理観って何ですか」と聞き返されたとして、その人が私たちに納得ゆくような言葉で答えられたかどうかは疑問です。

倫理やモラルや道徳というのは哲学が持つ独特の無重力な状態の中でしか生きる場を見つけられないと私は思っています。フワッとしていて風が吹いたら飛んでいってしまいそうです。筋肉隆々の逞しい人とは違って、風で吹き飛ばされてしまうほどのものです。

倫理、モラル、道徳は社会に存在している力と結びつくことがあります。しかし結ついてしまうと危険です。社会と結びついたと言うのは目的と結びついたということです。この純粋な生き物が道具として使われることになるのです。権力や利権に結びつけられてとんでもない威力の原動力に変わってしまうのです。民衆にのしかかって来るのです。逃げ場がないほど苦しい状況が生まれます。倫理、モラル、道徳という本来は純粋で誰の心の中にあっても、その人の内面生活を支える大きな力となっているものです。ですから社会の道具に仕立てられててしまうと、民衆は抗えないのです。そうなったらもう倫理の「り」の字すら消えて無くなってしまっています。倫理、モラル、道徳と言うのは権力に結びつけられた途端に、非倫理、非モラル、非道徳に豹変され、本来の姿は消えて見えなくなってしまうものなので。

倫理、モラル、道徳が純粋だとして、そんなものは本当にこの世にあるのかと言われてしまうそうです。あると思えばあるもので、ではどこにどの様にあるのかというと、無重力なものの中にしかないものですとしか言えない情けないものなのです。とにかく言葉にした瞬間に姿を消してしまうからです。まるで音楽の音のようで、鳴った瞬間には確かにあったはずなのに、次の音が聞こえて来ると前の音は消えてなくなっています。それでも心の中には残っています。音を書き留めておくために楽譜があるではないかと言われる方もいらっしゃいますが、楽譜は実際には音の死骸の様なものです。そして楽譜で音楽を語ると言うのは解剖した死体の考えはどのようなものがと聞くようなものです。死体からではその人のことに関しては何も言えないように、楽譜からだけでは音楽の本質は語りきれないのです。楽譜はそれでも死体以上で、楽譜から読み取る勉強をした人にとっては音楽にたどり着ける確かな手がかりでもあるからです。

行間の様なものだとも言えます。行間は感じることができる人にしか存在していないものなのです。そんなものはないという人の前では「ない」としか言えないかも知れません。しかし行間から何かを読み取った人にしては行間は存在しているものです。しかし文字になっているもの以外には何も感じない人もいるのです。

倫理、モラル、道徳を語るときには善と悪ということが持ち出されて来るものです。倫理、モラル、道徳はもちろん一般的には善の味方ということになります。そして対極に悪があり、それは悪魔に支配されているよくないものなのです。勧善懲悪ということで、日本人が対好きなテレビドラマの水戸黄門やカーボーイ物語なとは善悪を白と黒に分けて扱い、最後は善が勝ってハッピーエンドとなります。しかし倫理、モラル、道徳はそんな簡単な縮図で説明できるものではありません。もし善と悪というものを使って説明しなければならないとしたら、あえて「善と悪の間に横たわっているもの」「善と悪の間を行き来しているもの」と言えるかも知れません。善と悪の間を元気に動き回れるようなフットワークのことを倫理、モラル、道徳というのかもしれません。根に動いているもののようで、捉えどころがないわけです。写真に収めることもできないようです。見ようとすると消えて隠れてしまうし、説明しようとすると、説明する人の目論みの中で都合のいいようなものに変わってしまうし、人に勧めようとすると押し付けがましいことになってしまうし、倫理、モラル、道徳の正体はつかみどころがないものなのです。

そかしそんなものが何千年もの間哲学という学問の中で生き続けてこられたのには何か理由があると考えていいのではないのでしょうか。何なのでしょう。それは人間に是と悪の間を行き来する勇気があったからなのでしないのでしょうか。そんなものは「ない」と言われても「あります」と言い続けられたのは勇気の賜物なのです。その勇気を後押ししていたのが、倫理、モラル、道徳だったのかもしれません。

 

 

 

自分のことを物語る癖

2025年12月10日

私たちの自分という意識はギリシャ時代にはすでに「汝自身をを知れ」としてみられ、それが今日まで哲学として受け継がれているのです。

近年、その聖なる問いは「自分を探す」というテーマに姿を変え、一般化して普及しています。自分探しが哲学かどうかは別として、自分探しは多くの人が興味を持つテーマとして登場したことは確かのようです。

自分探しというのは「自分とは誰なのか」を知ろうとするものなのでしょうが、自分に向き合うという行為、実は難しいもので危険なものだということは案外忘れられています。哲学で自我と向き合って自殺に追い込まれた人は数多く、そのこともこの分野が一筋縄では行かないものであることを物語っています。

ところが今日の自分探しはポピュラーな面があります。幾つかのメソッドも確立されているようで哲学者たちの迷い込んだ迷路には迷い込まずにいられるようです。ただメソッド化して簡単に自分を探せるようになったということは、自分の持つ癖のようなものと自分本来とが混ざっているような印象を与えてしまうのは否めないようです。

ドイツでも自分探しは流行しましたが、最近は少なくなっています。ところが日本では今でも継続しているようです。自分探しをしている人たちの自分というのが何なのかは人よって違うとは思うのですが、手っ取り早くいうと、自らが作る自分物語の中にある、居心地のいい自分なのではないかという気がしないでもありません。ですから自分探しをする人たちは自分物語を作ってみれば、自分が知りたい自分が自分に一番わかりやすい形で見えてくるのではないかと思ってしまうのです。自分探しといいながらそこでは苦し紛れに自分を正当化しているだけなので自己満足の域を超えていない様子も随分みてきました。

特に日本で自分探しが盛んなのは、日本人が自己主張を苦手としているところが仇となっているような気がします。そこの原因究明が進むと、自分探しは減ってゆくのではないのでしょうか。自己主張というのは基本的には自己正当化から生まれるものですから、他人思いの、他人を優先してしまう日本人はここが大の苦手なのです。ですから自分探しを他人探しに置き換えれば面白いことが起こるのではないかと考えます。ただその時の他人は自分という他人です。自分というのは実は他人でもあったという観点から自分を他人として扱ってみるのです。例えば自分の家に帰るときに「ただいま」ではなく「お邪魔します」と言ってみたりするようにです。片付けなどをしている時に、次に使う人のことを思って片付けてみるのです。ところが次に使うのが自分だったりするのを発見すると案外新鮮です。つまり自分の中に潜在している「自分という他人」に気づくことで、自分と少し距離を置いて自分をみることができると自己満足ではない自分に向かい合えるような気がするのです。

自己主張や自己正当化で凝り固まっている人たちには、他人、他者に対して気を配るということはないのです。他人が見えないのです。自分が大好きで、自分だけしか見えていないものです。この人たちの持ち込んだ自分という固い外壁を壊すのは至難の業です。思考を鍛えてゆけば知的に合理的に解決できると考えている人は、思考が記憶や習慣という名の癖の上に成り立っていることを忘れています。知的な人ほどその壁は頑固ですから、頭がいいと言われる人ほど自分の壁の中に頑固に居座っているものなのです。ということはこの壁は知性をもってしても壊せないということで、別の方法が求められることになります。

癖というのは、無くて七癖と言われるほど私たちの日常生活にこびりついたものですから、なかなか離れて行ってはくれません。瞑想などして日常から距離を置く訓練も助けになりますが、不慣れな瞑想は力が無いので、力強い日常生活からの影響は私たちに襲いかかり続けますから、日常生活から離れることはなかなかできないものです。むしろ何かに集中することの方が、日常生活を忘れるためには役に立ちます。好きなことをやっていると時間が経つのを忘れると言いますが、この時間と言われているものが日常生活の癖と絡み合っているので、時間は癖そのものと言っていいほどなのです。

日常生活から離れた、ある種の無重力な意識の状態の中で、内側から湧いてくるもの、その中に影のようなものが現れてきます。それは自分なのです。ところがそれは自分が考えていた自分とは違うもので、始めての出会いの時は戸惑いますが、それが私たちに自分というイメージを与えている存在なのです。それは芸術的感動によく似ています。芸術作品に感動した時というのは今までの自分が吹き飛ばされるような感触です。そもそも感動というものの力が相当力のあるものなのです。芸術の持つ働きは、結論的にいうと日常生活からの解放と言ってもいいもので、芸術作品に接し、感動しながら芸術へのセンスを磨くことで、自分で見えていない自分と出会えるかも知れません。出会えるとは言ってもほんの一瞬です。陶芸家の河合寛次郎は「自分に出会いたい。仕事する」と言う言葉を残しているほどです。一瞬で消えてしまいますから、説明したり解釈したりとコメントをしている内に消えてしまいます。その自分というのは理屈をつけて説明したり、自分というストーリーを作って自己満足しているところには立ち止まってくれないのです。そこに残るのは自分にとって都合のいい自分なのです。見つけてほしい自分というのは、外からの激しい衝突のような体験によって日常から解放された瞬間のわずかな時間の中に生まれる、まるで他人のような存在なのです。その瞬間は言葉では説明できない微妙で微かなものなのです。

知的な人たちはその瞬間を言葉にして語り過ぎて、かえって新しく生まれた大切な自分を壊してしまっているのかも知れません。