2025年12月31日
知識量、情報量ではAIには敵わない時代になっています。今まで人類が考えたことは大方記憶されいるわけですから、誰に聞くよりもAIをそばに置いておくのが鬼に金棒です。今や時代はAIにお伺いを立てるのが当たり前になっているのです。AIは見事に人類の絶大なる信頼を勝ち得たといっていいと思います。
AIがそのようにみられるのは知識至上主義、情報至上主義というのが根底にあるわけです。かつて経験をたくさん積んだ長老が崇められていた時代を思い起こすと、いくつかの点で重なります。年を取ることの意味は豊かな経験を持つことから重宝がられ、それが尊敬につながっていたのです。
AIの前では知識とはなんなのか、記憶とはなんなのかという根本の所を整理しなければならなくなります。これは想像以上に難しい仕事です。知識にしろ情報というのは過去のもを集めたものなのですが、だからと言って蔑ろにはできません。私たちが記憶喪失により自分の記憶を失えば、私たち自身のアイデンティティーを失ってしまうからです。自分が誰なのかがわかるのは記憶のお陰なのです。自分が誰なのか分からずに生きることになってしまったら、本人はそれでもいいのでしょうが、人間関係の上に成り立っている社会の中では不都合が生じ大変なこことです。
AIは地球のアイデンディティーの鍵を握っているとも言えます。今現在知りうる限りの地球の過去が集積されているからです。人間のアイデンティティーと地球のアイデンティティーとは違います。人間の記憶の中の思い出は時には私たちを慰めてくれたり励ましてくれたりするものです。思い出の中を彷徨っても、それを懐かしがっている主体は今ここにいるのです。この二重構造が人間です。勿論私たちは過去の思い出に縛られているだけではありません。今現在も色々なことをライブで体験していますし、日々心をしているとも言えます。未来に向かっての憧れも希望も持って生きています。未来はAIも統計から予測したりしていますが、私たちの生きた未来は未来の方からやって来る驚きを含んだワクワクしたものです。期待はずれのサプライズの連続です。心の中にはこうした過去と今と未来が交錯していてそれを感情と読んでいます。AIの感情というのがよくテーマになっていますが、とても興味深いところです。
今から百年ほど前のウィーンでのことです。心の中のそうした感情を整理して心理学というものが何人かの天才的な人の手によって作られました。それは少しずつ変化しながら今日に及んでいます。私は現代に心理学の分野に天才が現れるとしたらと考えるのですが、その一人は紛れもなくAIだろうと思うのです。百年の間のさまざまな流派の心理学体験を集大成しています。感情に関するもののほぼ全てが整理され保存されています。しかし他にも天才な仕事をする人がいると思っています。どのような天才がと言うと心理学を壊す人です。感情を整理するのではなく、感情を感情としてリアルに体験できるように導いてくれる天才です。感情を整理できることは素晴らしいことなのですが、整理されただけでは頭でまとめられているだけで、生きたものとは言えないのです。現実としy見えていないものがそこにはあります。その天才は一人の人間として登場することはないと思います。ではどのような天才なのかと言うと、私たちの心の中に直感として生まれるのです。私たちみんなが直感という能力に目覚めた天才だということです。
最近のYouTubeにやたらと登場しているAI小説の話は、昔風にいうと三文小説です。筋書きだけを綴れる文士と呼ばれていた人達が書いた下手くそな小説です。小説らしいものですが、小説と呼ぶには値しないものです。その作品に何が足りないのかというと文章の才です。私たちは小説を筋書きで読んでいるだけではなく、文章に運ばれて読んでいるのです。AI小説や、三文小説には文章力が決定的に欠けています。話の筋書きは辻褄が合っているのですが、意味だけの辻褄で、まるで箇条書きのような味気のない、インスタント食品のようなもので、命が通ってないものです。命を通わせているのは他でもない文章という魔力です。私たちは文章で読まされているのです。私たちも直感に目覚めると直感という天才によって小説が文章が書けるようになるかもしれません。
コンピューターのアップルの創始者ジョブスは若い頃から禅に大変興味を持っていました。禅によってそれまでも知っていた直感への評価が全く変わったのです。今までは単なる思いつき程度にしか評価していなかったのですが、禅によって直感が科学、つまりサイエンスだと認識できたのです。AIというの皮肉なことですが、コンピューターの分野のさまざまな天才的な人たち、例えばテューリングの科学的な直感から生まれたものなのです。そうしてみるとAIには天才になる素質だけは備わっていると言えるのでしょうか。
今はAIはまだ発展途上です。これからどんなことが起こるのか怖いような楽しみなようなです。「感情は整理などしないで直感で感じてください」なんて返事が返ってくるようになるのかもしれません。
2025年12月29日
最近またライアーを手にする時間が増えています。来年の二月から三月にかけて日本にゆくことを予定しているからです。練習するという感じではなく、ライアーにお伺いを立てるという感じでやっています。「ライアー様、どのような音で弾いたらいいのでしょうか」という感じです。
私としては弦をどのように処理するのかのところにライアー演奏の命が宿っていると思っていますので、そこのところをなんとか多くのライアーの仲間達に理解してもらいたいので、今日もそのことに触れてみたいと思います。
同じ弦楽器のヴァイオリン属と比べてみます。弓で弦を擦って音を作ります。ハープ、ギター、リュート、お琴は指ではじくので、ヴァイオリン属の楽器とは違います。擦る方が大きな音が出ます。指でつまびく時の音は遥かに小さな音です。撥弦楽器の魅力はこの音の小ささだと思っています。琴線に触れるという時、聞き耳を立てるような音をイメージするのですが、それは琴線がつまびかれているのだと思います。
ライアーを弾いていると、この楽器は既存の撥弦楽器とも少し違うことも感じます。何か違うものを求めているように思えてきます。そもそも早く弾けない楽器というのはこの楽器を特徴づけています(致命的と考えている人もいるようです)。早く弾こうとすると指が弦に触れている時間が少なくなってしまいます。そのため弦から生まれる音は必然的に貧弱なものになってしまいます。ゆっくり弾くことでこの楽器の持ち味が出てくるのですから、ゆっくりをお薦めするのですが、ゆっくり弾くというのは早く弾くよりも音楽的に難しいものだというところが理解しにくいところのようです。ゆっくり弾くと音と音との間の「間」が伸びて、隙間だらけのスカスカな、退屈な音になってしまうものなのです。この「間」を埋められるような豊かな音で弾くことがライアー的な弾く上で大事な点ではないかと思っています。
私の場合は弦を引っ掻いて音を出すのではなく、押し込んだ弦を離すということで音を作ります。弓道で弦(つる)を離す時のイメージです。弾力のある木や竹に張られた弦(つる)に弓矢をつがわせて弾力をつけて飛ばすあの瞬間です。ライアーの弦(げん)を押し込んで弾力つけて弦を離すことで音にするのです。指で引っ掻いて音を作っているのを見かけますが、これを習い初めからやってしまうと癖になってしまいます。しかし引っ掻いて音を出す方が簡単なのでついそうなってしまうのでしょうが、しかしライアーが求めているのは弾力を持たされた弦を離すことで生まれる音だと思っています。そのようにすると音を作るのに時間がかかりますから、当然のこととして早く演奏するのは難しくなります。
この弾き方に伴う課題の一つは指の力が相当必要だということです。できるだけ指を伸ばして指の腹で弦に弾力をつけなければならないからです。指は出来るだけ伸ばしてください。当然ですが指を伸ばすと動きが鈍くなります。彫刻をされる方から聞いた話なのですが、彫刻家の人たちが彫刻しようとしているものをデッサンするときに、よく腕を木の棒で手の甲までくくりつけて、指先の動きが取りにくくなるようにしてデッサンするのだそうです。小手先でデッサンするのではなく、体全体で肩を感じるためのようです。習字でも筆の下の方を鉛筆を持つように書くのではなく、筆の上の方を持って書けるようにする練習があると聞きます。不便を敢えて取り入れるということから体全体での上達を考えているのです。ライアーの時には、伸ばした指の動きが離す瞬間を見極めるのです。弦に弾力を持たせるのには指の力が必要です。そしてその後離す時ですが、その時には弾力を持たせるのときとは別の力が必要になってきます。それは力というよりも集中力という力です。肉体的というよりも精神力です。弓道の時も弓を離す時が一番難しいと言われるのですが、ライアーの弦を離すときというのも、そこが音が生まれる決定的な瞬間なので極めて重要なところです。そこで生まれた音が連なって音楽が作られるのです。
ライアーを弾くとは弦を離すところに命が宿っているのです。
このように弾くというのは不自然と感じられるかもしれません。でもこの不自然、不便というところを乗り越えることで豊かな音が生まれるのではないかと思っています。
2025年12月26日
今年も一週間を残すだけになりました。皆様いかがお過ごしですか。
一年を振り返ると独り言をこのブログで呟やきながら過ごさせていただけたことに感謝の気持ちが湧いてきます。いただくコメントにはいつも励まされて、また書こうと言う勇気をいただいておりました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
この時期は、今年も色々あったと、一年の重みを感じるだけでなく、一年という時間の流れは振り返ると一つの単位のように思えてきます。一年を一つのリズムとして捉えると、一年と言うリズムが直に来る新しい一年のリズムを刻む準備をしてるかのようです。一週間を過ごした後の週末や、一日の終わる深夜の時にも色々と思いを馳せるものですが、やはり一年の終わりの時とは重みが違います。昔は月末に給料をもらうという習慣がありました。その頃には月末も色々と緊張があったものですが、やはり一年という単位は巨大で、最後の日が大晦日と言われる所以があるようです。
このような周期となったリズムがあることで生きてゆく上で単調になることが避けられているようです。四季があり、四季折々の風物詩があることもリズム感覚と共に喜びです。四季の移ろいは心から目を楽しませてくれます。そして心のリズムとしても見えない力を発揮してるのです。
このリズムという感覚は、旅行の時代とも言われている現代ではどのように変わったのでしょうか。旅行の時代には他の土地を訪れ新しいものに触れるというのが大きな意味を持っているようです。一年で旅行をした人は世界で述べで十億くらいになると何かで読んだことがあります。膨大な数です。新しい土地の見たことのないような景色に出会うことを楽しみにしている人もいます、何度も同じ所にゆく人もいます。いずれにしろ旅行というのは日常から解放してくれるという大切な役をになっているようなのです。
日常の空間をドイツでは空間を仕切る壁に例えています。そして旅行に出ることを「四つに取り囲まれた空間から抜け出しす」という言い方をします。日常を四面楚歌に例えているのかも知れません。新しい景色に出会ったりすると景色の美しさに一時日常を忘れ気分が軽くなります。空間を変えるには旅行をすればいいのですが、私たちは時間というものにも縛り付けられて生きています。時間のことは普段は気がつかないですが、「時間に追われている生活」は私たちのストレスの大きな要因となっているものです。時間は規則正しくばかり流れてはくれませんから、その混乱した時間から解放してあげないと、私たちの心は疲弊してしまいます。時間の流れを変えるというのは、場所を変える、空間を変えるほど簡単ではないです。
時間と空間とは同じ平面では語れないものです。さらに心の中では時間のほうが深く根っこを張っているようで、ここに届かせようとしてもなかなか見つからないものです。空間は旅行で少しは解放されますが、時間は場所を変えただけでは変わらないものです。
私たちが時間に支えられていることは意外と忘れがちです。時間なんてあって当然のものですから、空気と同じように気がつかないのが当たり前なのです。しかし一度時間に気づいてみると、時間のありがたみが感じられます。死を宣告されたりした時には、残りの時間が愛おしく思われてくるに違いありません。
色々な時間の流れをめぐるリズムは知らないだけで私たちを鼓舞してくれているのです。時間に励まされているなんて思うことはないですが、時間度はそうものなのです。今年もあと何日かの命です。残された時間をきっと愛おしく思っている方もいらっしゃるのではないかと思います。
来年が良い年になるように皆さんと一緒に祈りたいと思います。
良いお年を!!