向こうからやってくる感覚

2025年4月29日

ドイツの詩人、クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩の中に、目標を持たないようでは人間ではないと言った内容の詩があります。目標に向かって生きるのが最も人間的という解釈に基づいているのでしよう。ドイツの人たちは概ねこの考え方が好きなようで、この詩をいろいろな機会で引用していますが、私は違和感があって好きになれない詩です。クラーク博士が言ったBoys be ambitous、少年よ大志をいだけのようなものでしようか。ああなりたい、あれが欲しいというような目的意識で人生を生き抜くことを多くのドイツの人は良しとしているようです。考え過ぎかもしれませんが、目的のためなら手段を選ばずということが正当化されてしまいそうなところが少し怖い世界です。

私は目標や目的に向かってとは別の生き方をしてきたようです。向こうからやって来るものに身を任せるというスタイルです。週末の野菜市に買い物にゆくと気に入ったものを自分で選んで買う人がいますが、私は、これくださいと言ってお店の人任せで買ってきます。騙されて元々と思っているのかもしれません。かえって一番いいものを選んでくれていたのかもしれません。

若い時のことを思い出すと周りには一生懸命自分がやりたいことを見つけ、それに向かってガムシャラにやっている人もいました。もちろん受験勉強などもその一つです。それはそれて見ていてスカッとしていた記憶もありますが、私には無理でした。好きなことをやってのんびりしいるか退屈していたのですが、それでも自分に必要なものは向こうのほうからやって来るようなきがしていました。真剣に探したりするとかえって何も見つからないような気がしていたようです。

 

何もしないで棚からぼた餅風に口をポーンと開けて待っていれはいいのかというとそうでもないのです。それでは向こうから来ても素通りしてしまうのです。これではもったいないのです。自分が好きなことは夢中にならないとダメなようです。ただ好きと言っても本当に好きなのかどうかはあまり考えていませんでした。気まぐれなわがままな選択のことが多かったようです。

ただガツガツというのは苦手で、バーゲンの時などに人だかりの中を我こそはと品物をかき回している人の中には入れませんでした。でも残り物には福があるもので、人の波が引いた時に行くと気に入ったものが安価に手に入ったりしたものです。。

現代社会は安定した人生設計をするよう考える傾向が強いです。その人のため手段としていろいろな保険に入るというのがありますが、ドイツ人は統計的に見て保険のかけすぎが指摘されています。何にでもたくさん保険をかけます。それも目標達成の一つなのかもしれません。私の目からするとどこかに大きな不安があることの裏返しのように見えるのですが、何にでも保険をかけて、押し寄せてくるかもしれない災害から身を守ることで安心を買っているのです。保険は唯一の安心材料なのかもしれません。宵越しの金はモタねぇ、なんて江戸の人のような考えは想像を超えたものに違いありません。自分で自分のこれからの人生を決めておかないと安心できないのです。向こうからやって来るなんて考えるのは、そういう人たちからしたら全くもって無責任な生き方にしか写らないのです。

そこには当然生死感も関わってきています。死ぬことをどのように捉えるかで人生は変わって来るからです。もちろん若い時には死ぬなんてまだまだ先のことと考えていますから、死が人生を左右するなどとは考えにくいのでしょうが、人はいつかは死にます。必ずです。死ぬまでに一旗あげて後世に名を残そうなどと考えている人もいるはずです。そこにはっきりした目標が必要なのでしょうが、どこからその目標を持ってきたのか知りたくなります。

思春期前に子どもの中に突然「自分はこうなりたい」と衝動的にビジョンが心の中に湧いて来ることがあるようです。これなどはどちらかというと、やはり向こうからやって来るようなものを感じます。周囲の大人たちには「将来こうなりたい」と言ったりしているだけですから、その子どもの心の中には気がつかないでしょうが、それは親とか環境から言わされたこととは違うものです。

いま私は、トロイの遺跡を発掘したシュリーマンという人のことを思い出しています。彼が毎晩寝ときに聞かされギリシャの神話の世界がどうしても単なるお話に過ぎないと直感したことで、偉大な発掘につながったのですが、向こうから来たお告げのようなビジョンに導かれた一少年の話をワクワクして読んだことがあります。もしかすると、今の子どもたちにも潜在的に眠っているものではないかと思っています。それを壊さないような教育が将来に望まれる教育かもしれません。

意識と潜在意識

2025年4月27日

意識と無意識、潜在意識と分けて心を見るのはあながち悪くないと考えているのですが、そもそも何がそのようにさせるのかと考えることがあります。どこから意識というものを持ってきたのかがわからなくなってしまうのです。意識なんてものは便宜上作られているものではないかと思ったりもしてしまいます。あるいは西洋的な癖で二つのものを並べたがるので心のあり方を意識と無意識、あるいは潜在意識と名づけているのかもしれません。心理学というのはそうすることでスッキリするのかもしれません。

意識というものは科学が今日のように進んでも、未だ解決の糸口すら見つからないもののようです。本当にあるものならとっくに見つかっていいはずだから、もしかしたら考えて作り出した架空のもので現実にはないから見つからないのではないかと思ってしまうのです。ただ私の世代はこの意識と無意識、あるいは潜在意識と言う構図を頭っから信じるように教育されているので、ほとんど無条件に、前提条件のような扱いを受けています。そしていつしか意識というのがあるかのように洗脳されてしまっています。しかしいつまて立っても説明が見つからないのは不思議です。そもそもそんなものはないから見つからないのではないか、といつの頃からか考えるようになっていて、そうなると案外楽なもので、意識というものに固執せず意識から離れてゆけます。

意識と無意識、潜在意識の比率はどのくらいかというのは人によってずいぶん違うようです。意識は氷山の一角という人もいれば、三分の一が意識で残りが無意識という人もいるようですが、私は0.1パーセントがとりあえずは意識と呼べるもので、残りは潜在意識だと思っています。つまり心というのは潜在意識の塊だと考えています。

ドイツ語では意識のことをBewußtseinと言います。実はこの意識は知っていること、認識していることと言う意味合いの強いものなのです。自覚していると言うふうにも言えそうで、そうなると自意識のようなものとつながってしまいます。自意識というのは極論すると意識過剰な状態ですから、意識というのは、自分で自分はこうだというふうに思い込んでいるだけのものと言うことになりそうです。つまり思い込みです。自分で自分を決めてそれを意識としてしまうのは主観に偏りすぎていて驕った感じがします。意識というのは自分で意識とすればそれが意識になってしまうそういう世界なのかもしれません。それでは科学が見つけられないのも当然です。

私は意識は直感と同質のものではないかと考えるのです。直感というのは、思考とは違って、根拠や前提や証明という手続きをとることなく存在しているものです。直感はほんの一瞬でわかってしまうという不思議な出来事ですから、本人にしてもいつどのようにしてそうなったのかは説明がつかないものです。説明できないからと言ってそんなものはなかったのだということにはならなくて、芸術家が直感に導かれて描いてもその作品はは残っていますし、科学者が直感で見つけた法則なども後世に役立っていたりしています。ただその瞬間のことが説明できないだけなのです。一瞬にして消えてしまうからです。でもそれは実際に起こったことなのです。意識のようによくわからないというよりは直感はずっと現実的で具体的です。

意識がどこにどのようにあるのかがわからないように、直感もどのようにして生まれるのかはわかっていません。しかし直感は何もないところからは生まれないものです。数学の素養のない人に数学の方程式が直感で現れることなどないのです。ただ宗教的な世界では突如として素養など全くないところに天からとんでもないことが降りて来るようです。例えば大本教の始まりは出口なおという文盲の女性のところに霊的な世界から伝言が降りてきて、字も書けない出口なおという体を使って書かせ、それが聖典となったのです。直感以上の霊感、霊覚というものです。

意識の究明は、直感の究明とは違うものなのかもしれませんが、どちらも潜在意識の中から湧いてくるものであることだけは共通しているようです。ということは潜在意識の世界も直感の実態も想像を絶するもので、ある意味では人間業を超えた壮大な世界ですから、そこに足を踏み入れた途端に訳のわからない世界を目の前にすることになりそうです。

いずれにしろ意識は、今の学問の形が続く限りずっと謎であり続けるに違いありません。あるいは直感がある日突然意識を解明するかもしれません。

翳のこと。AIナレーションの音声。

2025年4月17日

Toutubeは最近どんどんとAIの作った声に変わりつつあります。古い人間からすると人工的な声という括りになります。ずいぶん改良されているのでしょうが、いまだに聞いていてイライラしてしまいます。表情付けを試みているところなどは進化の証なのでしょうが、それがかえって不自然極まりないものになる原因でもあります。歌に例えれば音を外し歌う音痴と言ったところです。AIナレーションは声の質的な問題ばかりでなく、漢字の間違った読み方が多いのも気になるところですが、この問題はいつかまた扱いたいと思います。

 

本当のことを言っているかかどうか、私は声を聞けばわかります。声は単なる音ではなくそこには心や魂が生きていているからで、音声は心、魂そのものの映し絵とも言えるものです。話芸を楽しむとき、語り手の喋り方以前に声の質を楽しみます。そこが一番心に響くものだからで、そこに焦点が合わせられないと、聞く気にはなりません。落語や講談物は所詮作り話ですが、そこには不思議と臨場感がある話とそうでない話との間に大きな違いがあります。話の内容は嘘かもしれませんが、伝え方によっては真実に聞こえるものになるのです。それを話術と言うのでしょうが、そこに声が大きく加担していることは否めません。声は嘘をつかないので、話が嘘でも声によって本当に変わることができるのです。

友人に誘われて講演会に足を運ぶことがありますが、そこでもどんな声で喋る人なのかによって、講演に入り込めるかどうかが決まります。声が気に入らないと、話に身が入らないのです。ある時は「こんな声じゃ所詮大したことは言えない」と、はじめっから上の空で聞いてしまいました。もちろん途中でウトウトとしてしまいました。

このような観点からするとAIナレーションはまだまだ声の段階には達ていなくて、冷たい言い方をすればまだまだ幼稚な声と言えます。AIの声をプロクラムしているエンジニアの方達はそれなりの研究を重ねているのでしょうが、声に関してはまだまだ人間の声とは程遠い従兄弟ろにあると言わざるを得ないようです。

ではどうすればいいのかということになりますが、呼吸のことをもっと研究する必要を感じています。声は呼吸そのものです。そして呼吸は心、魂そのものなので、三段論法的に、声には自ずと心、魂が宿ることになるのです。声の響きには深い呼吸が欠かせない要因ですから、音としての声というアプローチからだけでは、いつまでも人工的な声にとどまってしまい聞きやすい人間の声に近づくことはできないと思います。出しゃばって言わせていただくと、AIに深呼吸をさせてみてはいかがでしょうか。その時の息の流れの中から声が生まれるのであれば、人間の声にちかくなります。声帯というのは随意筋の中で一番繊細な動きをするところです。その繊細なところを空気が通ります。声帯が震えるのです。その過程で声に欠かせない翳が生まれます。この翳は魅力のある声の持ち主には必ず聞かれるもので、逆につまらない声の人からは聞き取ることができない物です。影がないと薄っぺらな声になります。

AIの世界というのは、絵画の世界にあっても、私の素人判断でいうと、必要なものだけが描かれているようです。テーマ、あるいはモチーフとなっているものに焦点があわせられるのでしょう、それはよく描けているのですが、それだけで絵は出来上がっているのではなく、それ以外のものとの調和のようなものが必要になってきます。つまらないものと言いましたが、直接モチーフとは関係のないものという意味です。

例えば講演でもテーマを話すだけだと全くつまらないものになってしまいます。15分もあれば済んでしまうところを、雑学というのか、先ほどのつまらないことを織り交ぜながら引き伸ばすことで、言いたいことに膨らみが生まれるのですから、声にもそういう要素が加味されてくると聞きやすい心地のいい声になるのではないかと思います。