ドイツのクリスマスバザー

2025年12月21日

やはりこの時期になるとクリスマスバザーに行きたくなります。人で賑わう中を歩いて買い物をしてきました。

クリスマスの日まで続くクリスマスバザーの起源は古く、13世紀まで遡れるそうです。ただ当時は民衆が冬の食べ物を蓄えておくためというのが主な目的の市だったそうです。15世紀になって子どものおもちゃや家庭用品、そしてクリスマスツリーの飾り物などが屋台のような簡単な構えの店頭に並ぶようになったということです。バザーという名前もペルシャ語の市場という言葉ですから、イスラム系の文化の中で育った伝統なのですから、十字軍が持って帰ってきたものに違いありません。

今はどうなっているのかというと、バザーとは言うものの半分以上が飲食関係のお店となっています。そこで冬の名物飲料であるグリューワイン、赤ワインにシナモン、クローブといった香辛料を混ぜて温めたものを片手に軽食をしながら、親しい人たちが一年を語り合う出会いの場所となっています。キリスト教の待降節に並行して開かれるため四週間続きます。初日は一年振りということで賑わいますが、最初の頃は人影はまばらです。流石に最後の週は盛り上がりを見せ大変な人混みになって賑わっています。

私がドイツに来てからかれこれ五十年になるのですが、その間にも若干の変化が見られます。出店の作りなどはほぼ同じ様相を呈しています。そこで売られているものもほぼ同じです。クリスマスツリーに飾る、エールツ地方の特産である人形、特に天使をイメージした人形が楽器を持って演奏しているものが人気です。かつてはクリスマスの時期にしか手にはいらなかったものだったのですが、商業の波にまつわる営業感覚の変化で一年中売っている店ができたりしてしまって、かつてのようなクリスマスバザーでなければという魅力は薄らいでしまいました。

この人形作りは今はドイツとなっているエールツ地方で作られています。ここはかつての東ドイツのザクセン地方と当時のチェコのボヘミア地方の間に位置するところにあり、西と東に分かれていたドイツの四十年の間は、当時の西ドイツでは異国品でした。ベルリンの壁の崩壊を機に解放されたことで今までの生産力では販売に間に合わなくなり、人件費の安いアジアで作るようになります。ところが出来上がった人形の顔が、今までのドイツで作られていたものとどこか違うのです。絵付、特に顔に違いが如実で、売上が思ったほど伸びなかったという話を聞いたことがあります。人形の顔にはそれを書いた人がそのまま現れると言います。人形がアジア的な顔つきになってしまって、伝統のもつ雰囲気が感じられなくなったのでしよう、今はまた地元でドイツの職人によって絵付けがされているということです。

それでもくるみ割り人形の色々な種類はこの時期の風物詩であることには変わりがありません。口に咥えたパイプから煙を吐く羊飼いたちの姿は百年一日同じ雰囲気を醸し出してい、流行になったキャラクターが登場することがないのはドイツの頑固な気質を反映しているのでしょう。お店に入り、並んでいる人形たちの姿を見るとホッとするというのが老若男女を問わずドイツ人たちなのです。

最近では札幌が姉妹都市のミュンヘンからクリスマスバザーを招聘して、ドイツので売られているものが買えるそうです。

芸術の熟成とは

2025年12月20日

人生は短し芸術は長し。人の人生は芸術の深みを極めるには短すぎるということです。ここでは人の命を軽んじているのではなく、芸術の深みに達するのに要する長い道のりのことを言っていて、そのためには人の一生というのは本当に短いものだというのです。芸術というのはそれほどに極めるのが大変だということです。

私の歌の先生は「人生が終わりに近づいてようやく歌が何なのか分かり始めた」とおっしゃっていました。技巧的な歌唱力ではなく、歌に対してどう臨むかということのようでした。そして「もう一度初めからやり直したい」とも。

もう一つ芸術を語る上で大切だと思っていることがあります。それは熟成ということです。音楽で言うと、演奏が味わい深くなるのは演奏が熟しているからだと思うのです。成熟すると言うのはただ歳を取ればいいというのとも違います。肉体年齢はさほど問題になりません。早熟の子どもというのはいつの時代にも現れるものです。その子たちは若く幼いにも関わらず、大人顔負けの、あるいはそれ以上の演奏を聞かせてくれます。若く幼くして成熟しているのです。と言うことはその子たちの演奏はすでに完成していると言うことです。歳をとったから演奏が熟す、つまり深くなるのではないと言うのは皮肉です。この問題は興味深いものですが、今日はなぜ若くても熟しているのか、あるいは年齢を重ねても熟さないのかについてではなく、演奏が熟す、芸術が熟すとは何なのかに焦点を絞りたいと思います。

芸術には落とし穴があると思っています。それはある種の自惚であり奢りです。もちろん自分に自信がないと人前て演奏などできません。だからと言って自惚のある奢った演奏ではその人の音は聞き手に届かないものです。この解決には謙虚であることが大事な要因です。謙虚であり、同時に自惚れていると言う矛盾する両面を克服しないと芸術は深みを持たないのです。このバランスのことを別の言葉で熟すと言うのではないかと思っています。謙遜な姿勢が強すぎると控えめなものになってしまいます。引きこもって練習しているような演奏は人前では輝かないのです。自信を持って、聞き手に何かを伝えたいという情熱を持って演奏することが大事なのです。ところがこの自信はすぐに奢りに変化し、自惚に変わってしまいます。そうなってしまっては聞き手は押し付けられているように感じ、引いてしまいます。その演奏も輝いていないのです。

矛盾した両方をバランスよく保つことは容易なことではないのです。成熟を扱う時、やはり歳をとって色々な経験を通してわかってくるものというのが一番わかりやすいかも知れません。そうして両方をコントロールできるようになるのです。それ芸術における自由というものではないのでしょうか。成熟は自由でもあるのです。

自己主張に満ちた自惚れがコントロールされていて、しかも音楽に対しての自信と情熱を経験から学び取って作られたバランスの取れた姿は清々しいものです。新鮮です。いつまでも聞いていたい演奏です。口で言うのは簡単です。しかしその難しさを乗り越えた演奏に触れたときの至福感はこの上ないものです。そう言う演奏は残念ながら滅多にないものですから、それに触れられた時は心の底から感動と同時に感謝が生まれます。一番嬉しい音楽体験は、この至福感からの感動と感謝です。

芸術には宿命的に奢りと自惚がついて回ります。それを意識的に克服しないとなりません。経済の世界にも似たような落とし穴があります。経済は本来は純粋に物の流れであります。もちろんそれに伴うお金の流れが生まれると経済が健全なものとして成立するのですが、どうしても金儲けというものに目が眩んでしまいます。お金儲けは報酬ですから悪いことではないのですが、度を越すと経済という流れに停滞が起こります。お金が一部の人のところに溜まってしまうのです。それは経済における宿命なのかも知れません。優れた経営者や経済学者はここのところを口を酸っぱくして諌めています。

芸術にも経済の世界にも宿命的な落とし穴が潜んでいるようです。奢りと金儲け、よく見ていると両方の根っこは同じところから出ているような気がしてきます。

黒子という役割

2025年12月18日

歌舞伎の舞台の上で役者さんの衣装替えが行われることがあります。その時に着替えをスムースにするために黒子という人が登場するのですが、手際よく作業をされるその姿には見る度に感心していました。この黒子のような存在は世界の演劇舞台では例がないもので、日本独特のものとして特筆できると思います。

ミヒャエル。エンデさんはこの黒子に目をつけた劇作家でした。イタリアでエンデさんの劇が上演されると決まった時、演出家としてイタリアで舞台づくりをした時に、黒子をそこで使おうというアイデアが生まれイタリアのスタッフと話し合った結果、やってみようということになったのです。ところがいざやってみるとうまくゆかないのです。エンデさんが日本の歌舞伎の舞台で見た黒子は、そこにいるのに目立たないというのかその存在が全く感じられないくらいだったのです。ところがイタリアの舞台人が黒子に挑戦してみるのですが、エンデさんには納得がゆかないのです。何が問題だったのかというと、日本の黒子はそこにいるのに存在が見えなかったのに、イタリア人が黒子をやると丸見で邪魔になってしまうのです。まるで黒子が主役のような具合になってしまって、困った挙句、日本から黒子を呼んで実際にどういう風にやっているのかみることにしたのだそうです。

いよいよ黒子がに日本からやって来て、舞台の上で衣装の着替えを手伝ったのですが、イタリアの舞台の上でもやはり見えないのです。これにはイタリア人がびっくりしていたそうです。エンデさんが言っただけでは信じなかったイタリア人が口を揃えて「本当に見えない。なぜ見えないのだ」と不思議がったのだそうです。

イタリア人は会話をしている時によく身振り手振りで話します。路上で知り合いのイタリア人に会うと、手にした荷物を路上に置いてしっかりと身振り手振りで話し始めます。この調子で黒子をやったのでは全く場違いです。目立ちすぎます。見えてはいけないのですから、目立たないように最小限の動きに収めなければならないわけです。どんなに練習してもイタリア人に黒子は無理ということで、日本の黒子に舞台に立ってもらったということでした。

黒子に興味があると言うだけでなく、自分自身黒子でありたいと思っています。そんなところがまだたっぷり日本人です。

日本の技術の世界では、黒子的に世界の表舞台には立たず、湯あめいなブランド製品を見えないところでしっかりと支えていることが知られています。ほんの一例ですがNASAのロケットに使われるネジは、日本の町工場で手作りされているネジでなければならないと話に聞いたことがあります。ネジがしっかりと固定するのだそうです。想像を絶するような話です。またまだ数えきれないほど、なくてはならないものを日本の技術が創っているというのは、やはり黒子文化なのだと感じてしまいます。最新のテクノロジーの世界ですら黒子の素質は生きているようなのです。