沁みとおる音

2025年12月29日

最近またライアーを手にする時間が増えています。来年の二月から三月にかけて日本にゆくことを予定しているからです。練習するという感じではなく、ライアーにお伺いを立てるという感じでやっています。「ライアー様、どのような音で弾いたらいいのでしょうか」という感じです。

私としては弦をどのように処理するのかのところにライアー演奏の命が宿っていると思っていますので、そこのところをなんとか多くのライアーの仲間達に理解してもらいたいので、今日もそのことに触れてみたいと思います。

同じ弦楽器のヴァイオリン属と比べてみます。弓で弦を擦って音を作ります。ハープ、ギター、リュート、お琴は指ではじくので、ヴァイオリン属の楽器とは違います。擦る方が大きな音が出ます。指でつまびく時の音は遥かに小さな音です。撥弦楽器の魅力はこの音の小ささだと思っています。琴線に触れるという時、聞き耳を立てるような音をイメージするのですが、それは琴線がつまびかれているのだと思います。

ライアーを弾いていると、この楽器は既存の撥弦楽器とも少し違うことも感じます。何か違うものを求めているように思えてきます。そもそも早く弾けない楽器というのはこの楽器を特徴づけています(致命的と考えている人もいるようです)。早く弾こうとすると指が弦に触れている時間が少なくなってしまいます。そのため弦から生まれる音は必然的に貧弱なものになってしまいます。ゆっくり弾くことでこの楽器の持ち味が出てくるのですから、ゆっくりをお薦めするのですが、ゆっくり弾くというのは早く弾くよりも音楽的に難しいものだというところが理解しにくいところのようです。ゆっくり弾くと音と音との間の「間」が伸びて、隙間だらけのスカスカな、退屈な音になってしまうものなのです。この「間」を埋められるような豊かな音で弾くことがライアー的な弾く上で大事な点ではないかと思っています。

私の場合は弦を引っ掻いて音を出すのではなく、押し込んだ弦を離すということで音を作ります。弓道で弦(つる)を離す時のイメージです。弾力のある木や竹に張られた弦(つる)に弓矢をつがわせて弾力をつけて飛ばすあの瞬間です。ライアーの弦(げん)を押し込んで弾力つけて弦を離すことで音にするのです。指で引っ掻いて音を作っているのを見かけますが、これを習い初めからやってしまうと癖になってしまいます。しかし引っ掻いて音を出す方が簡単なのでついそうなってしまうのでしょうが、しかしライアーが求めているのは弾力を持たされた弦を離すことで生まれる音だと思っています。そのようにすると音を作るのに時間がかかりますから、当然のこととして早く演奏するのは難しくなります。

この弾き方に伴う課題の一つは指の力が相当必要だということです。できるだけ指を伸ばして指の腹で弦に弾力をつけなければならないからです。指は出来るだけ伸ばしてください。当然ですが指を伸ばすと動きが鈍くなります。彫刻をされる方から聞いた話なのですが、彫刻家の人たちが彫刻しようとしているものをデッサンするときに、よく腕を木の棒で手の甲までくくりつけて、指先の動きが取りにくくなるようにしてデッサンするのだそうです。小手先でデッサンするのではなく、体全体で肩を感じるためのようです。習字でも筆の下の方を鉛筆を持つように書くのではなく、筆の上の方を持って書けるようにする練習があると聞きます。不便を敢えて取り入れるということから体全体での上達を考えているのです。ライアーの時には、伸ばした指の動きが離す瞬間を見極めるのです。弦に弾力を持たせるのには指の力が必要です。そしてその後離す時ですが、その時には弾力を持たせるのときとは別の力が必要になってきます。それは力というよりも集中力という力です。肉体的というよりも精神力です。弓道の時も弓を離す時が一番難しいと言われるのですが、ライアーの弦を離すときというのも、そこが音が生まれる決定的な瞬間なので極めて重要なところです。そこで生まれた音が連なって音楽が作られるのです。

ライアーを弾くとは弦を離すところに命が宿っているのです。

このように弾くというのは不自然と感じられるかもしれません。でもこの不自然、不便というところを乗り越えることで豊かな音が生まれるのではないかと思っています。

年の瀬に思う

2025年12月26日

今年も一週間を残すだけになりました。皆様いかがお過ごしですか。

一年を振り返ると独り言をこのブログで呟やきながら過ごさせていただけたことに感謝の気持ちが湧いてきます。いただくコメントにはいつも励まされて、また書こうと言う勇気をいただいておりました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。

この時期は、今年も色々あったと、一年の重みを感じるだけでなく、一年という時間の流れは振り返ると一つの単位のように思えてきます。一年を一つのリズムとして捉えると、一年と言うリズムが直に来る新しい一年のリズムを刻む準備をしてるかのようです。一週間を過ごした後の週末や、一日の終わる深夜の時にも色々と思いを馳せるものですが、やはり一年の終わりの時とは重みが違います。昔は月末に給料をもらうという習慣がありました。その頃には月末も色々と緊張があったものですが、やはり一年という単位は巨大で、最後の日が大晦日と言われる所以があるようです。

このような周期となったリズムがあることで生きてゆく上で単調になることが避けられているようです。四季があり、四季折々の風物詩があることもリズム感覚と共に喜びです。四季の移ろいは心から目を楽しませてくれます。そして心のリズムとしても見えない力を発揮してるのです。

 

このリズムという感覚は、旅行の時代とも言われている現代ではどのように変わったのでしょうか。旅行の時代には他の土地を訪れ新しいものに触れるというのが大きな意味を持っているようです。一年で旅行をした人は世界で述べで十億くらいになると何かで読んだことがあります。膨大な数です。新しい土地の見たことのないような景色に出会うことを楽しみにしている人もいます、何度も同じ所にゆく人もいます。いずれにしろ旅行というのは日常から解放してくれるという大切な役をになっているようなのです。

日常の空間をドイツでは空間を仕切る壁に例えています。そして旅行に出ることを「四つに取り囲まれた空間から抜け出しす」という言い方をします。日常を四面楚歌に例えているのかも知れません。新しい景色に出会ったりすると景色の美しさに一時日常を忘れ気分が軽くなります。空間を変えるには旅行をすればいいのですが、私たちは時間というものにも縛り付けられて生きています。時間のことは普段は気がつかないですが、「時間に追われている生活」は私たちのストレスの大きな要因となっているものです。時間は規則正しくばかり流れてはくれませんから、その混乱した時間から解放してあげないと、私たちの心は疲弊してしまいます。時間の流れを変えるというのは、場所を変える、空間を変えるほど簡単ではないです。

時間と空間とは同じ平面では語れないものです。さらに心の中では時間のほうが深く根っこを張っているようで、ここに届かせようとしてもなかなか見つからないものです。空間は旅行で少しは解放されますが、時間は場所を変えただけでは変わらないものです。

私たちが時間に支えられていることは意外と忘れがちです。時間なんてあって当然のものですから、空気と同じように気がつかないのが当たり前なのです。しかし一度時間に気づいてみると、時間のありがたみが感じられます。死を宣告されたりした時には、残りの時間が愛おしく思われてくるに違いありません。

色々な時間の流れをめぐるリズムは知らないだけで私たちを鼓舞してくれているのです。時間に励まされているなんて思うことはないですが、時間度はそうものなのです。今年もあと何日かの命です。残された時間をきっと愛おしく思っている方もいらっしゃるのではないかと思います。

来年が良い年になるように皆さんと一緒に祈りたいと思います。

良いお年を!!

 

 

ユーモアは言葉に出来ない

2025年12月23日

ユーモアは大切ですよ。

それはよく分かってます。

でもユーモアってなんなのかよくわからないのです。

ユーモアは言葉に出来ないですからね。

ではどうしたらユーモアを知ることができるのですか。

いい質問ですね。

例えばユーモアってどこにあるのですか。

ここ、あそこと言えるものではないですよ。

定義できないのですか。

できないです。

でもこの言葉はどこからきたのですか。

色々と辿れると思いますが、生きていることという意味だと理解しています。

生命に関わることなのですか。

生きる力そのものと言っていいかも知れません。

ユーモアって生物学の対象だったのですか。

ただし生物学を精神的レベルで理解した時にそう言えるのですが。

今の生物学とは違うということですか。

生命、つまり生きるというのは肉体を説明するだけでは足りないのです。

つまり解剖学では生命は語れないということですか。

病は気からという諺の通りです。

健康も元気も気からということなのでしょうか。

みんな気からです。

気というのは色々なところに見られますよね。

昔はよく分からないけど実態があるものを構わず気と名づけています。

電気、天気、元気などはあるものなのに分からないものですね。

ユーモアは気に近いもので、あることは分かっているのに説明するとずれてしまいます。

分からない理由が少しわかりました。

ユーモアがとにかくも分かってくる人を見る目が変わります。

ユーモアは人格にまで関わっているのですか。

いや人格を作っているものです。

人格そのものということですか。

人格というものもあるようでないものです。

分からない人にはいつまでも人格が何なのか分からないということですか。

まるで霞のようなもので、確かにあるのに触った瞬間に消えてしまいますね。

人格やユーモアが分かるためには一つの能力必要です。

ユーモアはここあそこに転がっているものではないのでしたね。

そうです見ようと思う人にしか現れないものなのです。

ユーモアは探せないのですか。

今のはユーモアだったという具合に、ある意味結果的にわかるものです。

いま目の前にユーモアがあるという風にはならないのですか。

訓練次第ではなれます。

どのような訓練でそうなれるのですか。

自分でガツガツ探すのを捨てて、向こうからくるものに身を預けられるようになる訓練です。

とてつもなく遠いいものに感じますが。

そうでもないです。

普段の生活ではなかなか出会えないようですね。

レッツゴー、って言いますよね。

よく使います。

これはただ「行くぞー」ということではないのです。

大抵は「さあ行こう」ということで理解されていますよね。

前進する機が熟したということなのです。

この時間的な機と先ほどからの気とはよく似ていますね。

どちらも時間と関係していますから、ほとんど同じものです。

時間ですか。

私たちの生きる姿は時間の中で表されているのです。

もし空間の中だけのことでしたら解剖学の対象になる死んだ体ということになります。

生きているということは時間の中のことだったのですね。

時間も計られる時には空間化されていますから死んだ時間です。

時間空間という言葉もありますね。

それは時間の本質ではないのです。

では時間とは何なのですか。

一番充実した時間というのは時間を感じていない、意識していない時なのです。

夢中になると時間を忘れることはよくありますがそういうことですか。

時間もあるといえばあるものですが、夢中になるというのは時間の中に入ってしまうことです。

私たちは時間を外から見ているのですか。

そういうことになります。

私たちはユーモアもやはり外から見ているのでしょうか。

言葉にしようとするのはそういうことですね。

ほんの少しユーモアのことが分かったような気がします。

今日はここまでです。

ありがとうございました。