いい演奏探し

2026年2月1日

今回の日本では何回かライアーのコンサートをすることになっています。そのためにプログラムを作ってみました。初めはその時に流れがあるのでそこで即興的に決めればいいと思っていたのですが、それよりも前もって少しは道筋をつけておいた方がいいものになりそうな気がしたので悩みながら組み立ててみました。

そしてその流れで練習をしていたのですが、やっぱり途中で「演奏ってなんなのだ」という思いが頭を持ち上げてきて、私を睨みつけるのです。

そこでYouTubeで好きな演奏家のものを見ていました。もちろん他の人の演奏にも興味があるので見たのですが、正直がっかりするものがほとんどでした。何が気に入らないのかというと、自己表現的な傾向の強さです。力づくで作り物を作ろうとしているのです。とても人工的な感じでした。人工知能が持て囃やされているので、演奏も人工的なものが好まれるのかもしれないなどと思ってしまいました。

主張ではなく存在が感じられる演奏が聴きたいのですが、驚くほど少ないのにもう一つびっくりでした。今回色々と聞いていて立ち止まったのは、ハンツ・ホッターというドイツのバリトン歌手がジェラルド・ムーアというイギリスの名伴奏者と歌っているシューベルトの冬の旅でした。この歌からは相当インスピレーションをもらいました。

私が勧めるライアー演奏は「弾かないで弾く」と言うものなので、ホッターの歌を聴いていると、手本にしたい要素が満載です。バス・バリトンという低い音域がゆったりとした響きとなり伝わってくるので、聴いていて疲れないのです。逆にもっと聞こうと音源の方に耳が傾いてしまいます。

人の話なども同じで、例えばどこかに旅行をしてきた人が土産話をもって遊びにきてくれるのですが、写真を見ながらの説明が押しつけの様な感じがしてしまうことがよくあります。そういうのは五分聞いたらもうご馳走様という感じになるのです。

きっと演奏というのも同じ様なもので、演奏者が猛練習して上達したものをそのまま会場で聴衆に送り届けてしまうと、聞いてる方は食当たりでも起こしてしまうでしょう。ただ上手なだけだからです。

演奏というのはどこかで修行の様なものだと感じてライアーを弾いています。クラシック音楽は基本的には精神修行で、そのため多くの人にとってハードルが高くなってしまうのでしょう。多くの人が喜ぶというより、精神修行なのです。苦行です。音楽はますます難しくなって、それを演奏するには大変な労力を費やしてようやくものにするのですから、クラシックオタクもいいところです。

以前のブログで、クラシック音楽以外の音楽を「軽音楽」というのなら、クラシック音楽は「重音楽」だといって比べたのですが、クラシック音楽は重いだけでなく深いのです。こんな重くて深いものはいつの日か消えてしまうのではないかと懸念する声をよく耳にします。前途は楽観出来ないのですが、人間は必ずどこかで精神的な存在なので、これからも何らかの形で存続するものと信じています。

話がずれてしまいましたが、自己主張の様なものがパフォーマンスに顔を覗かせるのはクラシックだけでなく、大衆が楽しんで聴く音楽でも起こることなのです。友人がフランク・シナトラの大ファンで、アメリカにまで聞きにゆくほどで、しかもレコード好きで、彼の持ち歌のマイ・ウェイを一緒に聞いたことがあります。シナトラは実にシンブルに歌っているのです。この歌はたくさんカバーされているので他の人のも聞いたのですが、こちらの方が良くも悪くも朗々と歌い上げるのです。一見するとこちらの方が上手に聞こえるのですが、その後御本家の歌声で聞くと至ってシンプルなのに味があるという歌いっぷりに驚かされます。上手に聞かせたいなどという欲が出ると、歌のいいところが影に隠れてしまうのです。上手に歌おうも一種の自己主張と言っていいのだと思います。

クラシック音楽にもポピュラー音楽にも自己主張はつきまとっている様です。もちろんライアーの演奏にもよく見られます。ライフーだから神聖だなんて屁理屈は通らないのです。

いい演奏は聞き手がとろけてしまい、音楽と一つになって夢の世界を彷徨うものなのです。そうして初めていい演奏だったといえるのです。いい演奏は上手な演奏とは違うもので、その間には越えられない溝が横たわっている様です。

先ほどのホッターの歌を聴いていると、ちっとも上手に聞こえないので、これくらいなら私にだって歌えそうだと思わせるのですが、そこが名人の名人たる所以なのです。難しく聞こえないだけなので、本当は雲の上の存在なのです。素人はすぐに罠にかかってしまうのです。

 

散髪体験

2026年1月29日

散髪という言い方はノスタルジックな言い方です。そして散髪をしてもらう床屋さんももうほとんど死語に近いです。ヘアースタイル、ヘアーアトリエ、とかいう横文字の言い方が昨今では普通の様です。

髪の毛が伸びたと感じたら散髪しに床屋さんにゆくと、子どもの頃から決まっていました。しかし小学校に上がる前までは父が安物のバリカンで散髪をしてくれていました。虎刈りもよくありました。今はそんな言葉を知らない人の方が多いのでしょうが。

子どもの頃は床屋さんが苦手でした。これといった理由は思いつかないのですが、床屋さんで順番を待っているあのどうしようもない退屈な雰囲気が苦手だった様です。今は飲み物のサービスなどがありますが、昔は黙って漫画を読んで時間潰しをしているのでした。

床屋さんで髪を切ってもらって、「はい」と言われて鏡を見るのですが、大抵は納得がいっていないのです。ただ短くしただけじゃないかと家に帰って母親に文句をいったこともありました。大人になってからもいろいろな床屋さんを渡り歩いたのですが、大抵終わった後の不思議な不満足感は、どこの床屋さんに行っても大体同じ様なものでした。その経験がある種のトラウマの様なものになっていて、床屋には足繁く通うことはありませんでした。

ところが、今通っている床屋さんの散髪は気に入っているのです。まず初めっから終わりまでずっとハサミを使って私の頭を苅ってくれるのです。バリカンは使わずハサミだけです。切っている間中「チョキ、チョキ」という心地よい音が耳元で鳴っているのです。この音を聴いているだけで気持ちが軽くなってゆきます。

この床屋さんは偶然に見つけた床屋さんだったのです。よくあるのは友達が通っている床屋さんに行くというものですが、人に紹介されたわけでもなく、ましてや何かの宣伝で知ったというのでもないのです。その床屋さんはトルコの方です。しかも日本でも色々と問題を起こしているクルドなのです。ある時人と待ち合わせをした後家路に着こうとした時に、「明日会議があるから頭でもさっぱりさせたい」と思った矢先に目の前に床屋があったのです。これは天の思し召しと思い、入ったら、待っている人が一人いるだけで、「どのくらいかかりますか」と聞くと小一時間ということで、近くのスーパーで買い物をして床屋さんに戻ってきて、散髪が始まったのです。頭を洗ってもらい、散髪の開始です。その時にすでに終始ハサミだけで頭を刈っているのが嬉しかったのを思い出します。

ただ座っている姿勢を少しでも崩すと「深く座って、しっかり前を向いて」と指導が入るのです。深く座らないと、床屋さんが姿勢を崩さないといけなくなるので、お客さんは姿勢を正して、微動だにしない状態でカモの毛を切ってもらうのです。初めての時にすでに、終わった後のの自分の頭を見て満足していました。

床屋さんで髪の毛を切ってもらった後の自分の頭に満足するというのは、私の場合実に稀なことだったのです。ほとんどなかったのではないかと思います。「短くすればいいってもんじゃないんだ」と胸糞を悪くしていたこともあります。そのトルコの床屋さんが刈った後の頭は、本当に素敵なんです。誤解しないでください。私が素敵なんではないのです。散髪が素敵なんです。自分でも惚れ惚れするほどのできないのです。毎回ですから、彼の腕は相当のものだと確信しています。

今日は散髪をしてもらった後に、そのことを床屋さんに言ったのですが、床屋さんはもちろんプロですからそういうお客さんの反応は熟知しているのですが、私が本当に気に入っているというと、照れながら喜んでいました。

雪の不思議

2026年1月27日

一昨日は積もるほど沢山の雪が降りました。結構ボタゆきでしたがやはり積もると雪の存在感があります。夜になって本格的に降り始め、三時間ほどで五センチ以上になり真夜中の十二時頃には十センチを超えるほどになっていて、しかも月も出ていないのに明るいのが不思議で、写真を撮ってもようとスマホで撮ってみたのですが、昼間の撮影ほどではないですが、しっかりと写っているのに驚きました。

昔花巻に住む檜山夫妻を尋ねたときにやはり大雪で、夜の散歩をしたのですが、真っ暗なのに白い雪がちゃんと見えるのは新鮮でした。スイスでも真夜中に雪道を歩いたことがありますが、その時にも雪から光が出ているのではないかと思うくらい周りの景色がはっきり見えたのです。

太陽がでいるときに積もった雪をみていると、白だけではなく青っぽかったり、薄紫のような色が混ざっているのを初めてみた時には感動したものです。昼の太陽に照らされた輝く様な雪と、夜中の静かな不思議な雪が同じ雪だとは信じ難いものです。

以前に札幌の友人から「雪は天から送られた手紙である」という言葉を残された、雪の結晶の研究で世界的に有名な中谷宇吉郎博士の随筆を教えていただいて読んだ時に、大変感動したのを思い出していました。雪をほとんど知らない東京生まれの私はどこを読んでも目から鱗の体験で、雪が天からの手紙という発想は最初は想像を超えたもので実感が湧かなかったのですが、雪との楽しい出会いを重ねるごとにその言葉の意味している深みを共感できる様になりました。

雪に覆われた世界は風景を別物に豹変させます。みたくないものが隠されるようなところもありますし、ブルガリア生まれのクリストの、なんでもかんでも包帯の様なものでぐるぐる巻きして包み込んでしまったアーティストの仕事を思い出します。バリの凱旋門を包帯の様なものでぐるぐる巻きにして、いつもみているものがある日突然大掛かりな包帯に隠されてしまって、しばらくして再び本来の姿を表したときの新鮮さ。包帯で覆われたことでいつもみているものを忘れるというのに似た状態に置かれるのでしょう。

お正月のお節料理を入れる重箱や、お屠蘇の一式、桃の節句の時の雛人形たち、端午の節句の兜、鬼灯(ほおづき)祭りの時の七夕、重陽の節句の時の菊人形などは、一年に一回姿を表し、私のたちの目の前に置かれるのです。一年ぶりに目にするそうしたものたちとの新鮮な出会いは、子どもの時は強烈なもので、お祭りの時の準備の時の楽しみでした。かつては虫除けに使っていたナフタリンの匂いが新聞に包まれたお人形と対になっていました。もしそうしたものが床の間の様な場所に一年中置かれていたら、色褪せ血ものになってしまい、一年に一度のあの審美的な出会いはないことになってしまうだけでなく、そうした人形からの印象も薄れてしまいます。

一昨日の突然の大雪は今回いろいろなことを考えさせてくれるきっかけになりました。

いつも不思議に思うのは、あれだけ積もった雪は必ず消えて行ってしまうのです。本当に一時だけの短い命です。それを手紙と喩えた中谷博士の感性に敬意を表したくなります。