2025年12月4日
古事記は「天地初めてひらけし時高天原に成れる神の名は・・・」、と始まります。ここに見られる「成る」を取り上げてみることにします。
一般的な解釈としては宇宙が成り立つということですが、ちがう意味を添えて「鳴る」と解釈する方がいました。十五年ほど前に、名古屋のやまさと保育園から依頼され「古事記、人形劇版」を制作監督した時、台本を作るにあたり手当たり次第古事記について書かれたものに目を通そうと思い立ち、友人たちに協力してもらい豊富な資料を集めることができました。その中に宗教団体、生長の家の創始者、谷口雅春氏の古事記の解釈本があったのです。それを読んでいるときに「成る」は「鳴る」だという解釈に出会ったのです。谷口氏は「アメノミナカヌシの神」が宇宙に響き渡ったと理解されておられたのでした。初めて知る解釈で戸惑いましたが、なるほど「成る」という解釈では抽象的と言えるものなのに、鳴ると言うことだと宇宙に響き渡るイメージが生まれ、本当にそこから何かが始まったと言う臨場感がある時ふと感じられ納得した次第です。
旧約聖書の創世記でも言葉の響きから世界が作り出されてゆきます。言葉は言の葉ということなのですが、言の波とも解釈できます。神様が「光あれ」というと言の波から光が生まれたという解釈も成り立つわけです。しかし古事記は創世記よりさらに遡った段階の描写で、世界を創る神様が、まさに無から生まれるところですから、創世記の神様のお仕事より前の話しになります。響きと共に宇宙が生まれたと言うイメージは宇宙に命を吹き込みます。ここで言われている音の響きは、物理が説明する、物質的現象として測られる振動のことではなく、むしろ測定不可能な次元を異にした響きの根源のことです。そこから「アメノミナカヌシの神」が誕生したと言っているのです。響きと音とは混同されがちなものですが、音は芯の部分て響きは音のオーラのようなものと理解できます。厳密に言うと音というの物質的には聞こえていないものなのかも知れません。今日、音というと音楽のためのものと捉えられていますが、ここでの音は耳に聞こえているので響きのことです。古事記の中で描写されている「鳴る」は音楽以前の話しですから厳密に言えば一音の響きだったと解釈していいと思います。音楽はそうした一音の響きが素材となり作り上げた建築です。聞こえる建築です。建築がよく音楽に例えられますがこうした観点から見ると、偶然というより必然的な発想です。例えば薬師寺の五重塔を見た西洋の建築家ブルーノ・タウトは凍れる音楽と形容しています。
私たちの時代はまだまだ物質中心の世界観です。音が響くことで神様が生まれるなんて今日の物質中心の考えからは非常識な発想ですが、再びキリスト教のヨハネ福音書を引き合いに出すと「初めに言葉があった。言葉は神のもとにあった」とやはり言葉が始まりに位置しています。言葉はそもそも響いているものです。言葉はそもそもは話し言葉だったのです。さまざまな理由で文字を読めない人はいますが、その人たちも話すには不自由しないのです。言葉が文字として表されるようになった事自体は歴史的必然があったのでしょう。記録することへの要請と言ってもいいのかも知れません。私たちの生きている記録文化です。当初はごく限られた人しか文字を使いこなせませんでした。教育のお陰と言っていいのでしょうが、今日、識字率は相当高くなっています。話し言葉と表記する言葉はどこか違うものです。
日本語というのは三種類の表記システムがある特殊な言語です。習得のために大変な労力が費やされているわけですが、それが無駄な事だと外国から言われたりもしています。何度もカタカナ表記やローマ字表記が提唱されましたが、未だに漢字、ひらがな、カタカナは生き延びています。生き延びていることで歴史を確認できることは大切なことです。もしカタカナ表記に変わっていたとすると、漢字で表された歴史の中の書物等は極く限られた人にしか読めないものになっていたはずで、歴史とコンタクトが取れない哀れな国に成り下がっていたと思います。国の文化の根底が瞬く間に失われてしまうったことでしょう。何がいいのか時代が選択して行くことになるのでしょうが、書き言葉が、時代の流れの中で簡略化され、ますます記号化している姿を見ると、言葉の異変がもうすぐ起こりそうな気がしないでもありません。もしかすると言葉は音声としての言葉、表記される言葉を乗り越えて、波としてテレパシーにとって代わってしまうものなのかも知れません。昔天使という存在は言葉を持たないと聞いた時びっくりしたものですが、今日の様子を見ると、人間ももしかするともうじき波を感じるだけでわかってしまう、言葉を喋らない存在になってしまうのかも知れないと思ったりします。
そうなると響きの向こうの今はまだ聞こえない音が感じられるようになるのかも知れません。
2025年11月29日
私たちは日々どんなふうに生きているのでしょうか。もちろん人それぞれです。人によっては何となく流れに乗って生きているという人もいます。常に新しいものに挑戦している人もいます。会社を作って富豪を目指している人もいます。目標を定めてそれに向かって邁進している人もいます。みんなその人にとって日常生活ということですから、日常生活は人の数だけあるのです。人混みの中ですれちがう人みんながそれぞれにそれぞれの人生をやっているというのは目が回るほどですが、そこに多様性が感じられるのも事実です。。
ところでこの日々の生活ですが、私たちの意識の中ではどのようなスタンスをとっているのでしょうか。日々の生活を身近なものと捉えていいのでしょうか。毎日の平凡な生活ほど、案外自分らしいものはないのかもしれませんから、やはり日々の生活というのは身近なものと言っていいのかもしれません。
確かに身近なのですが、豈図らんやそうした日々の生活に潜むものは見えていそうで見えていないものなのです。修行を積まれた僧侶の方が仰るには、「日常生活への気付きが一番近い様で遠いいもの」なのだそうです。日常生活での気付きは平凡な流れの中に埋もれているものを見つけ出すわけですから、滝行や幾多の荒修行に比べるとイヴェント性が全く欠けている退屈なもののように見えるところが落とし穴の様です。かの修行僧に言わせると、「人生には目的などというものを置く必要はない」のだそうで、人生は長い道であって大切なのは今歩いていることに気が付くことの様です。老子がいう道のことを思い出しました。目的の定まった道に従うのではなくいつもの道を歩いていれば良いということの様です。歩きながら道のそばに咲いている花が何なのかに気が付くことが大切なのです。森鴎外が晩年に、散歩の時に道端に咲いている花の名前さえも知らずに生きてきたことが恥ずかしいと呟く時、軍医として名声を得て、作家としても名を成した文人が、ふと日常の偉大さに気付いた時の思いです。
日常生活は人生の根幹なのに多くの人がそこを見過ごしているのがとても残念です。現代社会はイベント社会ですから、常にどこかで催し物が企画されて多くの人が足を運びます。外からの刺激がないと退屈してしまうのです。退屈な人生なんて現代社会では誰も望んではいないのです。退屈というのはドイツ語で、時間を持て余すと言います。何もすることがないということです。自分でやりたいことが見つけられないということです。何でもいいからやりたいことをしなさいと言われても、すぐに見つかるわけではないですが、問題は自分の満足していないということではないかと思います。満足は人によって違います。大抵は何かを与えられていることで満足するのです。しかし外からのもので本当に満足できるのかというと、違います。貰えばもっと欲しくなるので、満足は永遠に得られないのです。足るを知るという姿勢がないと満足は得られないのです。先日のブログの満足するというドイツ語の古い表現が、「お陰様で満足しています」という姿勢だったことと関係しいます。与えられたことで満足できるのは、足るを知る、つまり満たされているからとお陰様という姿勢からだ知る時です。そこに直感が降りてくるものなのです。ガツガツしている人は自分の予定を滞り無く成し遂げることしか興味がないのです。
家庭料理のことは再三にわたって言ってきていますが、日常生活を一番端的に言い表しているものです。お母さんが作る料理ということですが、今日では段々と薄れているものです。その反面、YouTubeの料理の動画ではよく「おばあちゃんのレシピ」というものをよく見かけます。お袋の味よりももっと伝統に根ざしている感じがするのでしょう。毎日食べることができるというのが家庭料理ですが、ここが偉大なる所以なのです。最近はグルメの勢いに負けて、珍しいものを高級に食べることが流行っています。ミシュランの星に惑わされ長い列を作る人たちも増えているそうです。フランス人好みの料理が持て囃されているのかもしれません。しかしフランの人たちがどんな料理を食べているのか調べてみると、結構田舎の家庭料理というものが目に付きます。素朴な家庭料理というものです。しかし今や世界はファースフードの時代です。世界中、どこへ行ってもおんなじものを食べているなんて考えるだけでゾッとしてしまいます。日常生活の大切な一角が崩れ落ちてしまったというのが現実なのです。
突然話が飛びますが、クラシックの音楽好きにはベルリンフィルハーモニー管弦楽団とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団というのがとても気になるところなのです。お相撲でいうと東西の正横綱のような存在です。私が若い頃は、ベルリンの方は才能のある優秀な演奏者を世界中から駆り集めた世界最高の管弦楽団と言われていました。ではウィーンの方はというと、ウィーンは家庭音楽というヨーロッパの伝統の上に築かれた管弦楽団、そこにはヨーロッパに根付いていた家庭音楽が根っこにあると言われていました。ベルリンがどんなに上手に演奏しても、ウィーンの持つ伝統と味わいは生み出すことができないと言われたものでした。ウィーンにはウィーン節の様なものがあって、それはヨーロッパの家庭音楽のという温床があって成り立っていたものだったのです。しかし悲しいかな今のウィーンの楽団員がそのような人たちばかりだと考えられませんから、ウィーンの音もベルリンの音のように世界最高峰に近づいてきているのかもしれません。ということは世界の管弦楽団がみんなおんなじ音を出すようになる日も近いのかもしれません。
日常が失われると世界はこうなってしまうものなのです。
2025年11月28日
先日のブログで正しさについて書いたものへの補足的な文章です。
「正しい」といういうのはまずは感じられるもので、初めから形を持ったものではありません。もし正しいという感触を成文化したりすると正しさ本来の姿が失われてしまうものです。正しいという手応えは閃光的な直感のもとで捉えられた時にだけ存在している脆い(もろい)もので、それがある目的のために使われる段になると、正しさは権力と結びついて、権力を正当化するために盾の様な道具に成り下がってしまいます。権力はいつも自らの考えや手段こそが正しいと信じていて正当化しているのです。
ということは正しいを繰り返す人たちにはこうした下心があると考えていいのではないのでしょうか。つまりそのような形で現れる「正しいこと」はまずは疑ってみる必要があるものということです。必要以上に「正しいこと」として繰り返されたり、成文化された正しさはもう本来の正しさとは違って道具としての方便になっているからです。
賢い人たちが編み出したこの方法は実にうまく機能するもので、権力を取りたい人たちがいち早くそこに飛びついて「正しい」を振り回す姿は歴史の中で繰り返されてきました。今も繰り返されていますし、これからも繰り返されるものでしょう。正しいというのは、裏を返すと便利なものなのです。
善なるものもよく似ています。「こうすることは善であり正しいのです」と言われると返す言葉が見つからないこともあります。下手に返すと倍返しで懲らしめられたりします。それほどこの盾は硬直していて外部からでは壊せないものなのです。唯一この盾を壊すことができるのは、それまで主張してきた善や正しさに、自ら疑問を感じ始める時です。新しい正しさに気付いた時ということかも知れません。それは他人からく言い含められたために起こるものでは無く、内側から、しかも直感的に悟る様に自ら気付く時です。
モラルとか倫理についてディスカッションなどしている時も、もどかしいものを感じます。これも形にして、つまり言葉にして捉えようとすると痒いところに手が届かない様なものなのです。モラルや倫理のことで忘れてはならないのは、それが個人的なものだということです。一人ひとり違った感性で自分自身に説明されているのです。一般的になってしまったモラルや倫理は形骸化したもので、制度化され、システム化されてしまい、果ては教育の中にまで降りてきたりして、教育という名前の洗脳に化けてしまいます。
シュタイナーが学校を作るときに、先生になる人たちを中心に催された二週間にわたる集まりの基調講演として毎朝行った講演、今日「一般人間学」として読むことができますが、そこでの第一声が「この学校は知のための教育でも、情のための教育でもなく、モラルへのセンスを育てる教育を目指しているものなのです」とはっきりと言っていますが、そこでシュタイナーは自分で考えたモラルを押し付けようとしているのではないことは明らかです。そうではなく、子どもたち一人ひとりの中にモラルへのセンスを育てるという課題について語ったのです。ところがこれは至難の業です。かつてモラルは宗教という枠の中で捉えられ、教えられたものでしたが、それを外してしまうというのは無謀なことだからです。宗教が一番手っ取り早いものでしたが、そこからモラルを解放しようとするわけですから前人未到の境地です。それを教育の場で実践しようとするわけですから、シュタイナーが考えた教育は今までの教育理念からは遠く外れたものにならざるを得ないのです。
正しさ、善、モラル、倫理というのはこれからも繰り返し書いてみたいテーマです。今一番求められているものだと思うからです。よろしくお付き合いください。