42度で新記録
暑中お見舞い申し上げます
ドイツも猛暑で42度という観測史上最高を記録しました。
12時から19時までは外に出ることができないほどで
我が家のような石造りの建物は日中熱を吸い、夜になると吸った熱を吐き出すのですからたまったもんではありません。
どうぞ元気にお過ごしください
暑中お見舞い申し上げます
ドイツも猛暑で42度という観測史上最高を記録しました。
12時から19時までは外に出ることができないほどで
我が家のような石造りの建物は日中熱を吸い、夜になると吸った熱を吐き出すのですからたまったもんではありません。
どうぞ元気にお過ごしください
ユーモアがウィットや冗談のようなものだったら簡単に説明できるのですが、ユーモアは独自の王国を持って君臨していて、近づき難く、しかもその王国は謎に満ちているところですから手を拱いてしまうのです。他に比べられるようなものもなかなか見つからないので、ユーモアについて尋ねられて答える時に難渋します。マーク・トウェインが「ユーモアはカエルのようなもので、解剖したら死んでしまうもの」と言いましたが的を得た言葉かもしれません。
ユーモアのある人間でありたいという願いは、ファンタジー豊かでいたいというのとよく似ています。ファンタジーはもともと「見えるようにする」という意味のギリシャ語で、見えないものを見えるようにする、というところから、まだ現実に現れていないものを現にするということに発展し、そこから現実離れしたという意味にまでなったと考えられます。ユーモア方はどうかというと、やはり現実的とはいえず、非現実的でありながら、逆にそこから現実を洞察するという術を持って君臨しています。茶化しているように見えて本当は一番リアルにものを見る姿勢がユーモアにはあります。ということはユーモアのある人間でありたいということは、大変な知識人、知識人以上の知識人、知識を振り回すことのない知識人であるという余裕が前提されるということのようです。私はここでも老子の「知るものは語らず、語るものは知らず」という言葉を思い出しています。そして老子もユーモア王国からやってきた人のように思えてならないのです。
ファンタジーには、前回のブログで見たように、嘘と混同されてしまうところがありました。それはファンタジーの脆さ、弱さ、危なっかしさのようなものですが、ユーモアの場合は一味違い、超然としていて、嘘との接点を探しても見つかりません。これはユーモアの特筆すべきところで、ユーモア王国と呼びたくなる所以です。ファンタジーは光と影からなっています。光の部分はまさにファンタスティックですが、影の部分が黒魔術のようなものに変容します。しかしユーモアは違います。光一元と言っていいほどのものを感じるのです。プラックユーモアはどうなっているのかと言うと、それは風刺だったりグロテスクな冗談のようなもので、ユーモアという名前がついていますが、ユーモア王国の住人ではありません。ユーモアの領域に達するには、知識が変容して生きる力にならなければならないのです。それは知識から認識へという道のりです。実践という経験によって知識は認識に深まります。それでユーモアの出来上がりかというと、それだけではまだユーモアになっていません。何かが足りません。それは、生きていることがこの上なく嬉しいという光溢れる存在への慈しみ、存在することへの喜びです。
なんだか宗教家の説教のようになってしまいましたが、仕方ありません。宗教はユーモアに憧れているからです。私はそう考えています。そのため、ユーモアを語るとどうしても宗教的なニュワンスが漂ってしまうのです。しかしユーモアは特定の神を押し付けることはなく、逆に宗教が単なる宗教的なものを超えて深い宗教に到達すればユーモアの領域に入り、自ずとユーモアが備わってくると私は思っています。宗教家が本物かどうかは、その宗教家がユーモア溢れる人かどうかということでしょうか。
ユーモアを知る人の語り口には特徴があります。その人が語る際には、真面目とか真剣とかいう人を責めるような口調を耳にすることはなく、その代わりに緩い、緩む、緩んでいるというところから来る許しが基本姿勢になっています。つまりコチコチに固まったものをほぐしてくれるのがユーモアなのです。
ファクタジー豊かに生きたいと多くの人が願っていると思います。ファンタジーは魔法、魔力のような魅力で私たちを引きつけます。何も無いところから何かを生み出す能力で想像力という訳語が当て買われていますが創造力でもいいと思っています。
このファンタジーですが、油断のならないものです。普段は別物と思っているものが、同種どころか起源を同じにしているからです。実は私たちが忌み嫌う嘘もその一つだったのです。
倫理的、道徳的に見ればファンタジーは歓迎され、嘘はご法度です。ファンタジーの世界へ旅に出たいと思いますが、嘘とはできるなら付き合いたくないと誰しもが思っています。嘘つきは嫌われます。法的には詐欺にまで発展しかねません。ところがこの道徳的な枠を外してみると、ファンタジーと嘘との境界線は曖昧になってしまいます。
ファンタジーと嘘を見分ける手段はあるのでしょうか。小説を例にとってみましょう。社会小説のような実際にあった事件を題材にしたものでもどこかに作り話が盛り込まれています。嘘をついているわけです。ドキュメンタリーにしても、映像は確かに写されたものですが、編集されたことで映像に別の意味をつけることもできます。改竄はいくらでも可能です。そうなるとドキュメンタリーも嘘をついていることになり、映像の事実はどこかに消えてしまいドキュメンタリーとは名ばかりのものになってしまいます。ファンタジー小説に至っては全てが作り話で、まさに嘘から出た誠というものの見本です。
ファンタジーと嘘。まるで二卵性の双生児のようだと直感して、じわじわと実感が湧いてくると、嘘をついついて生きてきた自分が許せるようになり、嘘そのものにも愛着が持てるようになったのです。いたずら心でつく嘘というのもあります。エイプリルフールの時の嘘のようなものです。わずか何秒かの命しかない嘘ですが、それでもやはり立派な嘘です。小さな子どものつく嘘は、すぐに嘘とわかってしまう可愛い嘘です。親にしてみると「うちの子が嘘をついた」と落胆するかもしれませんが、嘘とはそもそもファンタジーの変種とわかってしまえば気が楽になります。嘘は人生にあって薬味であり、香辛料のようなものなのかもしれません。
それにしても私たちの生きる社会は実にたくさん嘘をつきます。昔はなんでこんなに嘘に満ちているのか、嘘など本当は無いものなのにと考えたのですが、ファンタジーと関係していることに気づいてからは嘘に対して寛容になりました。私たちがファンタジーに憧れれば憧れるほど嘘への要求も増すのかもしれません。ファンタジーへの憧れに比例して嘘が横行するとも言えそうです。
政治というのは嘘で満ちていると愛想をつかしたくなりますが、そもそも政治というのはファンタジーと嘘が力を合わせて作ったものだという風に考えを切り替えたらどうでしょう。政(まつりごと)として政治が行われたのは遠いい昔の話です。ある時からファンタジーと嘘が作ったものに変わりました。その時期はおそらくお金という、やはりファンタジーと嘘から作られたものが力をつけてきた頃だと思います。そして権力という妄想が政治を支配したのです。
政治の世界の嘘を見ていると嘘と真実の駆け引きの妙技が見えてきます。政治の世界では、嘘は時の権力によって正当化され大義名分の付いた真実に化けて登場する厄介者です。力づくで真実として祭り上げられたものは真実とは違います。嘘が化けて真実になってしまうのです。
マスコミ、マスメディアにしても今日では政治の渦に巻き込まれてしまっているので、本来の事実を仲介し伝えるものという姿はなく、今では事実の仲介どころか嘘をまじえたフェイク情報を垂れ流し、民衆を洗脳するための道具として大活躍しています。インターネット上でもフェイク、嘘が横行していますし、学問すら、特に歴史などは、権力を掌握している人たちが自分に都合のいいように勝手に書いている物語という体たらくです。歴史のhistoryという言葉はhis storyの詰まった言葉だったのです。
そんなこんなの嘘ですが、ファンタジーに支えられているものだとわかってみるとなかなか付き合いがいのある奴かもしれません。もちろん噓が金欲、名誉欲、支配欲と行った力の道具になってしまうとエゴの落とし穴に落ちてしまい、せっかくの嘘といえども格を落としてしまいます。でも嘘をもみ消そうとすると、人間はファンタジーも一緒に失ってしまいますから気をつけなければなりません。
最後に芸術と嘘について触れてみます。芸術はそもそもファンタジーから生まれたもので、皮肉な言い方ですが、初めっから「嘘だ」と言い切って存在しているものです。私たちは芸術という名の下に嘘に身を委ね安心して騙されていたいのです。そこで嘘は力づくではなく、ファンタジーに援助され真実として私たちの心の中で生まれ変わるのです。