文章の魔力、幼児の文章

2019年6月10日

人と話をしている時、上の空で聞いている様に見えるらしいのです。

「仲さん聞いていますか」と念を押されたりするのですがちゃんと聞いています。

ぼんやりでうつろかもしれませんが、話の全体像は把握していて、自分ではさして不思議でもないのですが、「意外と聞いているのですね」と相手の方が驚くのです。

知り合いに、私の講演中に寝ているのがいるのですが、あとで講演の内容について質問すると案外とまともな答えが返ってきます。寝ながらでも聞いている芸は私より一枚上手です。まどろんだ状態で聞いている方が私が言いたいことの全体が、しっかり聞かなければと聞き耳を立て聞くよりよく分かるのだと言います。特に私の話はそうやって寝ながら聞くの一番だとも豪語します。嬉しい限りと言っておきます

この上の空や微睡んで聞くと言うのは、相手にしてみれば決して褒められたものではなく、むしろ失礼な態度でしょうが、話し手の伝えようとしている全体像を察知するには、なかなかの優れもので、個々の意味という細部よりも、話し手が言葉にしようとしている意志、当の本人も気づかずにいる潜在意識と出会えるのです。潜在意識は私が思うに概念的でなく、イメージ的な映像として現れますから、上の空でしか捉えられないものなのかもしれません。

話を聞くときのもう一つの裏技は文章で聞くことです。文章には話しての気づかないものが忍び込んでいて、難しい言葉で聞き手を圧倒している様な、一見むずしそうな話も文章で聞いていると意外とつまらないことを言っていることがバレてしまうことがあるものです。文章は単語の羅列ではないのです。簡単な例でいうと、朝出勤の時に交差点で事故があってそれを人に話そうとする時、考えなしに単語を並べてもその事故の実態は伝わらないものです。「二台の車がぶつかった。交差点。信号無視。一人重症。車は大破」。同じことを言うとき文章にすると雰囲気というか現場が見えきます。「交差点で信号が赤になったのを無視して、すでに交差点に入っていた車に側面衝突して、車は両方とも大破、しかもぶつけられた方の運転手が重症で病院に運ばれた」。空間設定、時間の経過が織り込まれ、そこに事故の原因など説明され、更にいわゆる「テヲニハ」の味付けで話しての感情がくっきりしてきます。

方言を例にとってみます。年配の方たちの中には文章で話せる方がまだ若干見受けられますが、若い世代になると単語は随分知っているけど文章となるとお手上げと言う人が圧倒的です。文章にして話すと言うのは、もちろん書くことはもっとですが、難しいのです。単語が持つ意味が巧みに組み合わさるだけで別の次元に行ってしまうからです。方言で会話ができないと方言が使えるとは言い難いのです。

少し付け足すと、文章はただ単語の意味をつなげ筋を通すだでは用を足しているだけの記号の様なものだと言いたいのです。大切なのは本意の流れを作る作業で、その流れが作られて初めて生きたものになるものです。繰り返しますが、文章というものは実はとてもむずしいものなのです。単語を並べただけの世界から生きた文章の世界に到達するには予想を超えたエネルギーが必要で、そのエネルギーを魂とか感情とか言われているところから得て生きた文章が生まれるのですから、文章の訓練は魂、感情を鍛えることにもなっています。

実は音楽も同じことで、音符を弾いているだけでは音楽が生き物にならないのです。音の連続が音楽になるには、音の繋がりが流れを作る時で、そのための作業が必須で、その流れのない音楽は未熟な音楽というか、まだ音楽になっていないものと言われても仕方がないのです。その流れについては楽譜は何も表記できないという不幸があります。しかしその流れが音楽を作るので、優れた演奏は、行間を読むと同じエネルギーで音と音とを繋いでいるのです。文章にしろ、音楽にしろ流れができると、単語や音符を並べていた時には想像できなかった景色が四方に広がると言うことです。

 

別の観点から文章を見てみます。

赤ちゃんが言葉を話し始める時の様子を見ていると不思議だらけです。訳のわからない音から始まり次第に単語が使える様になります。実はここで見逃してならないことが起こっています。単語しか使わないのに文章の世界の住人だということです。ここがとても不思議なところで、神秘的です。

幼児の時にだけ起こる一語文章という特殊な文章があります。一語の中に文章的な景色が広がっているのです。しばらくすると二語文章、そして三語文章という具合に複雑な文章の世界に入ってゆきますが、驚くべきは、私たちは幼児の時、文章が持つ景色の広がりを生まれながらにして持っているということです。

ところが二歳半にもなると、大人顔負けの文章力が身に付くわけですが、逆にそれは幼児の「単語ですでに文章」という天上的な世界から、文章を組み立てなければ意味が通じなくなる地上の世界の住人になったということの証なのです。地上の住人となってしまった大人の外国語の習得はそのため苦労が絶えません。同じ様に単語から入りますが、その時の単語は文章の質を持っていません。単語は天上人の持つ羽をもぎ取られてただの単語に過ぎず、単語の数が増えたとしても文章にはならなのです。単語を点に、そして文書を線に例えると、点と線の間にはほとんど超えられない溝の様なものが横たわっているということです。これが繰り返し行っている次元の違いと言うことです。

 

まとまりを無視していろいろなことを書きました。

話を始めに述べたところに戻します。

要するに言葉の奥、話全体を察することが、柔軟な理解には欠かせないので、ぼーっと、ぼんやりと聞いている時の方が、相手が言わんとしている景色がよく見えているのかもしれないのです。一般には成人すると失われてしまう能力です。言葉尻で理解しようとするのは文献学者さんたちの得意技ですが、重箱の隅を突っついているだけのことなのです。高尚な学問なのに精神性を欠いていると言いたくなります。幼児の時の様に文章と接していたいものです。

 

コメントの落とし穴

2019年6月8日

コメントはしないで済むならしないに越したことはない、そう言いたいです。コメントというのは非常に内容が薄い上危ないもので、コメントが流行する社会はコメントの持つ危険そのものの蟻地獄のようなものかもしれないのです。ではコメントとはなんなのか、ということです。いろいろな角度から言えますが、まずはコメントというのは理解とは別のものだということです。そこのところを知らないとその蟻地獄からは出られないと思います。

人間というのは理解をし合う存在で、コメントし合う存在ではないのです。

どういうことかというと、コメントは頭の都合の産物、理解は全身全霊から生まれるものということです。私流にいうと理解は命がけでするので上等なもので、コメントというのは頭で整理して机の上だけで済ませてしまっている、何日か経てば紙くず箱に捨てられているかもしれない程度のものなのです。

 

コメントしているということは判断を下してしまったのです。ところがその判断は一方的で「自分としてはそのことをこんな風に分かっている」という姿勢です。つまり上から見下した様な横柄な態度がコメントにはあるのです。

理解も基本的には主観的なものですが、上から見下すのではなく謙遜的で受身的な姿勢がまず問われます。understandという英語の「理解する」という真の意味はそこにあると思います。謙(へりくだ)っているということです。それを前提にして、今度は対象となっているものの中に積極的に入って行こうとしているわけです。

松のことは松に習え、という松尾芭蕉の言葉が思い出されます。

 

主観的な面が両方にはあるのに、相互の行き来がある理解は、一方通行のコメントと混同されてはいけないのです。相手、あるいは物の中に入ってゆこうという姿勢の理解を繰り返すことから人間性が磨かれるのです。しかしコメントを繰り返しても自分の成長には繋がらないのです。

理解は判断を下すこともありますが、判断に至らないこともあります。人生には判断を下せないことで満ちていることを思えば、その方が自然で、何が何でも判断を下したがるコメントの方が不自然なのかもしれません。

コメントというのは相手、対象と距離を取っていて、しかも上から見下して判断しているわけで、自分勝手に整理したものを押し付けます。相手、対象の中に入ってゆくという姿勢はなく、自分の判断を押し付けているだけのことも多く、たいていのコメントはそれを聞いている私たちを幸せにすることはなく、しかも上から見下していますから、礼を逸したもので、できれば避けて通りたいものなのです。

 

なぜそんなコメントが、今の社会で流行し、もてはやされるのか。

コメントが活躍する場所はメディアの分野です。もともとメディアは事件が起こった時、その事件の様子を民衆に「仲介」するために存在しているのですが、ある時「メディアをうまく使えば真実として事件の内容をどの様にでも民衆に伝えられる」ことに気がついたのです。そのことに気づいた人たちがメディアを掌握してしまいました。メディアはことの事実を伝えるのではなく、事実を好きな様に変え、結局はその人たちの都合のいい様に伝えるもので、メディアの権威が増すにつれ、そんなことは朝飯前の当たり前になってしまい、今では民衆をそれで操作できる強力な手段になってしまったのです。洗脳です。メディアに理解は無用の長物なのです。なぜなら民衆に賢くなってもらいたいとはこれっぽっちも思っていない人たちにとって、理解を仲介するなどというのはもってのほかなのですから。民衆が事柄の事実に気がついては困るのです。

 

私は理解に目覚めてほしいと願っています。深く理解すれば、何よりも自分が変わります。今日、自分探しが盛んですが、自分が変わった時自分に出会えるので、探して見つかるものではないというのが私の考えです。

究極の理解は判断しないことです。何を馬鹿なと言われそうですが、なんでもすぐわからなければ役立たずと言われてしまう社会では判断しないなんて愚の骨頂なのでしょうが、判断はできるだけ避けるべきものなのです。判断しないでいるときに自分が強まるので、自分で責任を取れるまで判断しないでおくのは、自立する人間にとって大切な精神修養なのです。

老子の「知るものは語らず」はその意味で、それに続く「語るものは知らず」が饒舌なコメントの世界と言えると思います。

 

何故シューベルトのピアノソナタを聞くのか

2019年5月21日

私はシューベルトのピアノソナタの様に生きたいと思うことがあります。

そうです、まさにシューベルトのピアノソナタの様にです。

私が感じる日常性にこんなに近い音楽は他にないからです。

日常の思いから生まれた、人間の本質が響いている音楽だと感じているのです。

 

私が言いたい日常とは、聖と俗の混ざった時間と空間のことです。そして日常性とはそこに去来する様々な思いのことです。日常というのはあまりに身近すぎるためなのか、とらえにくいものです。そんな中でまず言えるのは「平凡だ」ということです。「特殊な、特別な」というニュワンスから一番遠いものだということです。

平凡な俗っぽさと同じ様に見えるのですが、よく見ると日常空間は意外と複雑で、例えば高貴と低俗、善と悪が複雑に入り乱れているところです。単なる俗と違うのは日常は淡々としているということ、そして屈託のないところです。あるがままという、悪く言えば刹那的なところも特徴です。

その日常には様々な思いが去来しています。極上の聖性から極悪な欲までが日常にはあって、その間を時計の振り子の様に揺れています。こうした日常が日常生活を作り出しているのですが、その日常を一番深く生きているのは外でもない母親でしょう。

私はこうした日常、日常的なあり方が大切だと感じています。普通であることの安心感が日常にはあって、唯一私たちの居場所にふさわしいところです。しかし世の中を見渡すと一番目立たないものが日常で、逆にそれゆえに興味が湧いてきます。

 

こんな日常とシューベルトのピアノ音楽が私の心の中でシンクロします。

私が十代の頃、日本でシューベルトのピアノ曲といえば二流品扱いで、そんなものをコンサートのプログラムに入れる人はほとんどいませんでした。レコード業界もその考えに同調していて、レコード店のシューベルトのコーナーはどの店も閑散としていたものです。たまたまあっても有名な未完成、冬の旅などが2枚か3枚、それでも置いてあればいい方という状況でした。

その当時ウィーンにピアノで留学した日本の人から後日談として聞いた話しを、この文章を書きながら思い出しています。その方は、ある日教授から「シューベルトを弾きましょう」と言われてびっくりして、とっさに「そんな二流品はいやです」と答えたのだそうです。日本の音大ではそういう扱いだったのです。すると教授は逆にびっくりしてその方を見つめ「シューベルトは音楽の本質です」ときっぱりと言われたそうです。そして渋々と練習に入ったのですが、学生時代に植え付けられた先入観を壊すことはできず、ウィーンにいながらもシューベルトはずっと苦手な音楽家だったそうです。その人曰く、ソナタとは言ってもただ流れているだけで、形も無く、何が言いたいのかわからないので、今でも弾く気になれないということの様です。

 

シューベルトのピアノ曲が頻繁に演奏されるきっかけを作ったのはロシアのピアニスト、スビャストラフ・リヒテルです。彼のレコードが話題になったからだと記憶しています。それはあくまで日本のことで、本場のウィーンを始め欧米諸国ではしばしばコンサートで弾かれていた様ですが、それでも他のピアノ曲に比べるとはるかに少なくマイナーなピアノ曲であった様です。

ともあれ、リヒテルの録音は画期的な録音でした。「ゆっくりすぎる」と誰もが感じるテンポはまさに驚異でした。第21番の変ロ長調のピアノソナタは元々が長い曲である上、ゆっくりなテンポでさらに長くなっていて第一楽章だけで24分かかる壮大なものに仕上がっていました。他の演奏者の録音を見ても、当時は20分を超えるものがありませんから、リヒテルの演奏が相当ゆっくりだったことがお分かりいただけると思います。ドストエフスキー、トルストイに通じるロシア気質にしかできない芸当だと私も感じて聞いていました。

しかしそのゆっくり、ゆったりが核心を突いたのか、それ以降シューベルトのピアノソナタを録音するのが流行になるという現象が起こります。著名なピアニストたちは今までそっぽを向いていたシューベルトのピアノソナタをこぞって録音し始めたのです。関を切って流れる水の様にでした。

数多くの録音が出回って色々な演奏が聴ける楽しみが増えたのですが、いつもどこかにずれを感じたり物足りないものを感じながら聞いていました。「この人は本当にシューベルトを弾きたくて弾いているのだろうか。それともレコード会社から依頼されて弾いているのだろうか」などと思うこともあったほどです。モーツァルトの出来損ないの様なものもありました。ショパン崩れの様なものもありました。ベートーヴェンの様にがっちり組み立てて却ってみすぼらしくなっているものもありました。しかしそうした演奏もある意味教訓的で、そうした反面教師的な演奏を聴きながら、却ってシューベルトのピアノソナタをじっくりと味わう機会を楽しんでいました。

 

シューベルトのピアノソナタの難しさは、曲として、作品として、とりあえずは出来上がったものとしてあるわけですが、それらは作品でありながら作品ではないということです。その点を多くの演奏家が理解に苦しんでいる様で、モーツァルトの様にきちん出来上がったものとして弾いたり、ショパンの様に情緒が溢れんばかりに弾いたりしてしまい、シューベルトからかけ離れたつまらないものになってしまうのです。特に学問的な解釈に頼って演奏するとますますシューベルト的で無くなってしまいます。シューベルトのピアノソナタは楽譜を前にしながらも即興の精神で弾くのが理想ではないかと思っています。

シューベルトのピアノソナタというのは誰もの日常生活に去来する思いが、シューベルトによって音楽に転化したものなのかもしれないと思っています。日常生活というありふれた生活空間の中から、彼によって「何か」が音楽になったということです。その何かを引き出せたのがシューベルトの才能でした。多くの音楽のは、芸術と呼ばれる特殊空間の中で営まれる特殊作業と捉えたがります。そうなると特殊な専門家の分野に入ってしまいます。シューベルトのピアノソナタの場合は芸術作品を表現するという姿勢ではたどり着けないのです。日常生活を営む空間に音楽が忍び込んで来るというのがシューベルト的と言えるのです。日常生活と音楽が渾然一体となっている、あるいは日常生活が音楽的に高まるとも言えます。それを音楽芸術だと張り切って特殊空間に持ち込んでもシューベルトのピアノソナタは場違いで、本来のものが聞こえてこないのです。完結した作品でありながら即興という精神で向かうという、シューベルト的矛盾を克服しなければならないのです。ということは演奏に際しては演奏家の日常の音楽意識、日常の中での音楽感性の研磨が問われるものだと言えるのかもしれません。