ピアニッシモで語る

2025年1月31日

ピアノと聞くと、まずは楽器のピアノを思い浮かべてしまいますが、楽器のピアノはそもそもピアノフォルテと言われ、楽器ができた当時は音が大きくも小さくもなると言うことを強調していたのです。ですらかピアノというのは前半分だけ省略された簡易名称です。ちなみにピアノ以前の鍵盤楽器、チェンバロ、ハープシコードは張られた弦を爪で引っ掻くもので、強弱をコントロールできなかったので、ピアノフォルテは大発明だった訳です。弦をハンマーで叩くハンマークラビコードが発明され強弱がつけられるようになって、ピアノフォルテに発達し今日のピアノに至っています。

イタリア人と話しているとよく「ピアーノ、ピアーノ」と言われてしまいます。日本人は少しせっかちなように見られて゜「ゆっくりやったらどうか」という意味あいで「ピアーノ、ピアーノ」と言われます。音を小さくという意味の他にゆっくりという意味がピアノにはあるのです。ピアニッシモといえばもっと小さい音で、ということになります。イタリア発祥のスローライフのようなものです。

「一番言いたいことはピアニッシモで語る」この姿勢を貫いた音楽家がいます。フランツ・シューベルトです。彼の音楽はヨーロッパを風靡している、言いたいことはフォルテで言うのと比べると正反対です。主張したいと言う気持ちが先立っているときは自ずと大きい声になります。その方が効果的だからです。これは私の住んでいるドイツでは当たり前のことです。主張したいときは大きな声でするものなのです。謙遜とか謙譲とか謙虚いうのは、建前上高貴な精神性とは言われていても、実生活てそんなことをしていたら誰も見向きもしてくれませんから、自然とみんな大きな声で主張し合うようになります。私の意見だけが正しい、と大きな声で言うのです。日本人の私にはそれが大変疲れるものです。

そんな風土の中でピアニッシモで物申すを貫いたシューベルトは、何かが根本的に違っていたのだと思います。私は彼の中に潜んでいる東洋人気質だと思っています。もしかすると東洋人以上に東洋人なのかもしれません。

昨日北斎の富嶽三十六景をブログに書いたときに、彼が描いた富士山は何枚かの例外はあるものの、ほとんどが目立たない小さな富士山だったことに触れました。暗示するかのように線だけで買い物もあります。正直わたしにも意外な発見でした。有名な大波の中に描れた富士山も印象的ですが富士山は小さく描かれています。外国では The Great Waveですから、当然富士山は忘れられて大波に注目していてそういうタイトルになっているのです。北斎が富士山をモチーフにしながら、いつも富士山を小さく描いたことはとても不思議なのですが同時に親近感を持ちます。

言いたいことを小さく語るというのはなかなかできないことです。そもそも自分を小さくするというのはよく出来た人にしかできないことです。ヨーロッパではフランスのエスプリ、フランス風精神性の中に時々慎ましやかなものが現れます。フランス人が日本文化に火かけめのはそんなところからかもしれません。また多くのシャンソンは、まるで独り言のようにモゴモゴと歌われています。有名な愛の讃歌のように張り上げる歌は例外的なものと言って良いと思います。日本からの観光客からよく聞くのですが、パリのホテルに泊まっていて、下の道路から聞こえてくる話し声を窓越しに聞いていたらまるで日本語のようだったらしいのです。

小さいと言うのは量的に見れば少ないと同じことです。ところが自分を小さくする、小さく見せると言うのは量的な問題ではなく、精神性を含んだ質の問題ですから、少ないとは違います。自分を大きく見せようとする人ほど、実は中身がなかったりするものです。空っぽの人ほどほら吹きです。社会的地位を振り回す人たち、権力を傘にしてやりたい放題する人たちとみっともない人は後を立ちません。自分の小ささをカバーする手段が必要なのでしょう。昔からよく本物の人にはなかなか出会えないと言うのはけだし名言です。目立たないのです。老子も、語る人は知らず、知るものは語らずと言います。こういう言い方は東洋の精神性の中に宿る神秘だと確信しています。

 

富嶽三十六景、葛飾北斎

2025年1月29日

世界で一番名前の知られている日本人は間違いなく葛飾北斎です。北斎の富嶽三十六景は有名ですが、全部を見たことがあるという人は案外少なのではないかと思います。実際には36枚に、12枚のおまけがついているのです。

世界的に有名な大波の向こうに描かれているちいさな富士山をみると、メインテーマの富士山が小さいのに驚きます。シリーズのうちに正面切って堂々と富士山が描かれているのほうが数少ないのです。有名な赤富士と黒富士の他に何枚あるかないかに過ぎないのです。

他は大波の向こうの富士山と同じで驚くほど小さい富士山です。なぜ富士山をこんなに小さく描いたのか本人に聞くしかないのですが、小さく書くことでかえって効果的というふうにも言えますが、私は別の観点から見て見たいのです。

彼は富士山をダシにして当時の生活を風景の中で描きたかったのではないかということです。ほとんどが富士山よりも人々の生活の方に焦点があっていて、イキイキとしているのです。おけ作りの職人さんのオケの真ん中にちいさな富士山が見えます。オケの丸と富士山の三角の構図の取り方が天才的です。本当に小さくてよく見ないとわからないくらいなのです。しかしおけは絵の真ん中に堂々と位置して、そこで働いている職人さんもイキイキと描かれています。ただ富士山が本当にちいさいのです。

上野の国立博物館のショップでたまたま富嶽三十六景が絵葉書大にまとめられているのを見つけ、持っていれば誰かにプレゼントしてもいいやと思い買ってきました。全部眺めていると、ほとんどの富士山がとってつけたような感じで描かれているのが滑稽です。全く不思議な絵描きさんです。

場所は富士山が見える関東圏と、山梨県、静岡県というところからのものがほとんどですが、実際には愛知県の富士山が見えないところも選ばれていて、嘘と誠の混ざり合ったユーモアを感じます。

全てに共通しているのは突出した構図でず。そのセンスの素晴らしいことです。絵の中から当時の人々が飛び出してきそうです。奇抜なものが多く、こんな発想を持って生きていけたらさぞ楽しいだろうと羨ましい次第ですが、よく考えると、こういう奇抜な発想ができる人というのは往々にして尋常でない人が多いようなので、普通でよかったと胸を撫で下ろしています。

何年か前に六本木の森ビルで北斎展を見たのを思い出しています。壮大な数の展示でしたが、驚くべきは数よりもその多才ぶりでした。地図もありました。買い物袋まで手をつけていました。

先日、写楽は実は北斎の別の姿ではなかったかという説を読んで、私なりに説得力のある話だと思いました。二人は同一人物であったというのです。もちろんこんな突飛押しもない話はすぐに受け入れられないとは思いますが、一考の価値はあるもののように思いました。写楽が謎のように現れ謎のように消えていったのがその説の信憑性を高めているような気がしました。写楽ほどの力量の人が突然現れるという方が可能性としては薄いもののような気がします。

 

情報が、鯨にフジツボがつくように、着きすぎたらどうしますか

2025年1月28日

ある時、鯨やイルカや海亀にフジツボがこびり着いてしまっているという話を聞いて、なんのことかよくわからなかったんですが、最近YouTubeでフジツボに悩んでいる鯨やイルカ、そして海亀の姿を見て、納得し、同時に驚きでした。船にフジツボが付着するというのは実際に見て知っていたのですが、まさか生き物で海の中を動き回っている生物にまでフジツボが付着するなんて考えもしなかったことでした。

大変なことが起こっていると思いました。原因らしいことには言及していなくて、また何年ぐらいかかったのかなどの報告もなく、フジツボが人間の援助で除去される様子が動画で見られるだけなのですが、その量が膨大なことに驚くと同時に、皮膚というのは呼吸しているものなので、フジツボがひっ着いてしまっては呼吸ができなくなるので、死活問題であり、最悪の場合死んでしまうのだろうと想像しまいました。

あのフジツボのくっ着いた鯨を見ていて、さらに考えたことがありました。

我々の時代は、私たちに情報があの鯨に引っ着いたフジツボのように纏わりついていているのではないのだろう。私たちはそのことに気がついていないだけで、相当深刻な呼吸困難に陥っているのではないのだろうかということです。海を泳ぐ彼らのように、私たちは情報の海の中を泳いでいるのですから、似たようなことが起こりうると考えたのです。これは大変なことです。情報過多については時々発言している人がいて、確かにそうだと思ってはいたのですが、まさかそれが現実に追っていて、しかも命取りになりかねないものだとまでは思っていませんでした。

YouTuberというのがここ十年くらいから増え始め、さまざまな情報が発信されいます。もちろん玉石混合で、見てよかったと思うのから、単なるプロパガンダに過ぎないものまで相当の幅があるようです。ズブの素人から、最高の専門家の話までが情報の海を泳いでいます。自分を知ってほしいという要求というのか、衝動というのか、それは誰にでもあるのでしょう。その衝動に身を任せ自らの知識や経験に自信のある人たちが発信するためには実に便利な手段だと思っていますが、時にはそれを凌駕した素晴らしいインタビューなどに出くわすことがあり、こんなものを家にいながら聞くことができることに感謝することも多いです。

情報提供者には誰でもなれるので、気をつけて見るようにしています。メディアがうまく使えば洗脳の手段となるように、YouTubeも隠れた魂胆がなくもないので、いつも問題意識を持って見ています。テレビ、ラジオ。新聞、雑誌という大手のメディアの手の届かないところに個人の発想で行き着くところなどは感心するところでもあります。

しかし、なんだかんだと言っても情報というのは面白いものです。人間というのは好奇心の塊のような存在だとつくづく思ってしまいます。ゴシップは苦手です。重く、コッテリした後を引くようなものも苦手です。軽快な口調でサラリとユーモアを交えて語ってくれるのが好みです。自己主張の少ない人の話が聞きやすいです。ただ知らなくてもいいものがとても多いし、知っても役に立たないものもあります。しかしそれがYouTubeの魅力だとも思っています。

でもフジツボ漬けにならないように気をつけているのですが、こればっかりは知らないうちになっていたりするかもしれません。時々はコンピューターから離れる生活が大事なことのような気がしています。

とは言っても情報というフジツボがくっ着いてしまった時、誰か取ってくれるのでしょうか。どこに行ったら取ってもらえるのでしょうか。