2025年1月31日
ドイツも今は冬を抜け出そうしている真っ最中で、三寒四温という言葉通り春を迎える準備に慌ただしい。大寒も過ぎてもうすぐ節分で、豆まきをした次の日が立春だから春が本当にすぐそこにまで来ている。
季節の移ろいは、ただごとではない。陽の光が日に日に強くなっている。ただの時間の推移ではない。まるで季節が人格の持ち主であるかのようにさえ見えてしまう、大イヴェントである。手ごたえのある、存在感のある出来事で、その渦中にいる人間である私たちは、その舞台である大空のもとで小さく感じられる。
この時期に襲ってくる気怠さが今年もやってきて、この二、三日はとても疲れていた。この疲れに負けないためには自分に向かい合うしかない。心の中を動き回っている思いを言葉にしてみることが一番。それは心のストレッチだ。しかし心の中というのはいざ言葉にしようとするとその動きの速さに驚かされる。
万葉から平安のあたりまでは、心に向かい合い言葉にするとき散文ではなく和歌を詠んだ。気持ちを言葉に託すために五七調のリズムがあった。リズムはおのずの動きを産む。それが流れとなって心の中の速い動きに散文よりも親しく寄り添えたのかもしれない。リズムを持たない散文に頼り切っている現代人には羨ましい限りで、私などは散文で何とかリズムが作れないものかともがいているが、散文のリズムは間伸びしていて、時に重い。
季節ごとに万葉集の歌を思い出すことがある。その時の心の風景に近いものに出会うと、何だか故郷に帰ってきたような感じがして、その詩の中に溶けてしまう。懐かしいという感傷的なものではなく、「ただいま」と言って無我夢中に玄関を開けて家の中に飛び込んでいった幼い頃に帰ってしまう。その瞬間だけは周りの時間は消えて、思い出の中の時間がリアルな時間に変わる。
2025年1月31日
ドイツの哲学者のエマヌエル・カントは理性、感性、行動の全てを批判的に観察していた人でした。この精神はその後のドイツ文化の礎になっていると思います。
近代的姿勢の中に、何事もまずは批判してかかれがあります。何でもかんでも簡単に信ずるなかれということです。批判というのはそもそも生産的ではないので、批判ばかりしていても。物事はよくならないということも事実です。面白い現象はよく人のことを批判している人というのは、自分を批判されるのをとても嫌がります。もっと酷いのが、自分自身を批判的に見ることは一切しないということです。
芸術批評というのがたいていの新聞にはあって、音楽界、演劇、映画そして本が批評されるコラムで専門家が色々と批評するのですが、私の知る限りでは、当の本人たち、芸術家たちはそんなものは全く読まないということです。批評、批判なんて読んでもなんの足しにもならないという観点から読まないと決めているのだそうです。
批判というのは最近はコメントというとすれば、今でもカントの批判精神はしっかりと受け継がれていることになります。ころんとをお願いしますとYouTubeではよく耳にします。
しかし人間には批判するだけではなく、褒めたりすることであるのです。些細な失敗を論(あげつら)ってみても仕方がないのです。何の役にも立たないです。失敗に目を逸らすことの方は大事なことです。よくできたところをはっきり指摘することも大事です。この方が物事を前進させるエネルギーになりそうです。
現代人はみんなお利口さんになってしまいました。頭がいいように見えるのですが、私にはそうは写っていません。物事に対して反感が異常なほどに強いのです。物事と対立するときには、相手の粗がよく見えるものです。そんなことを論っているのが批判であり批評です。粗探しより、そのものを理解する方が難しいものです。人は易きに流れるので、批判ばかりしているのです。
ほほめるというのは共感に基づいているので、相手や対象と一つになってしまうので、客観性化が乏しくなってしまいます。現代のように反感に満ちて、みんながお利口さんぽく見える世の中では高く評価されないものの一つです。理解は意志的な行為です。生きる意志です。相手の心の中に入ってゆくのです。物事にしっかり向き合うのです。職人さんが材料と一つになるくらいの勢いで、物事に接するとき理解が生まれるのです。理解するとは相手の意志を理解するということなのです。批判するというのは基本的には相手を蹴落とす行為と見ていいのではないかと思っています。ですからあまり上等な行為ではなくどちらかというと下品なものなのです。
現代という時代は意志のそだたない時代ということなのでしょうか。お互いが理解し合うというのが難しいのでしょうか。
2025年1月31日
ピアノと聞くと、まずは楽器のピアノを思い浮かべてしまいますが、楽器のピアノはそもそもピアノフォルテと言われ、楽器ができた当時は音が大きくも小さくもなると言うことを強調していたのです。ですらかピアノというのは前半分だけ省略された簡易名称です。ちなみにピアノ以前の鍵盤楽器、チェンバロ、ハープシコードは張られた弦を爪で引っ掻くもので、強弱をコントロールできなかったので、ピアノフォルテは大発明だった訳です。弦をハンマーで叩くハンマークラビコードが発明され強弱がつけられるようになって、ピアノフォルテに発達し今日のピアノに至っています。
イタリア人と話しているとよく「ピアーノ、ピアーノ」と言われてしまいます。日本人は少しせっかちなように見られて゜「ゆっくりやったらどうか」という意味あいで「ピアーノ、ピアーノ」と言われます。音を小さくという意味の他にゆっくりという意味がピアノにはあるのです。ピアニッシモといえばもっと小さい音で、ということになります。イタリア発祥のスローライフのようなものです。
「一番言いたいことはピアニッシモで語る」この姿勢を貫いた音楽家がいます。フランツ・シューベルトです。彼の音楽はヨーロッパを風靡している、言いたいことはフォルテで言うのと比べると正反対です。主張したいと言う気持ちが先立っているときは自ずと大きい声になります。その方が効果的だからです。これは私の住んでいるドイツでは当たり前のことです。主張したいときは大きな声でするものなのです。謙遜とか謙譲とか謙虚いうのは、建前上高貴な精神性とは言われていても、実生活てそんなことをしていたら誰も見向きもしてくれませんから、自然とみんな大きな声で主張し合うようになります。私の意見だけが正しい、と大きな声で言うのです。日本人の私にはそれが大変疲れるものです。
そんな風土の中でピアニッシモで物申すを貫いたシューベルトは、何かが根本的に違っていたのだと思います。私は彼の中に潜んでいる東洋人気質だと思っています。もしかすると東洋人以上に東洋人なのかもしれません。
昨日北斎の富嶽三十六景をブログに書いたときに、彼が描いた富士山は何枚かの例外はあるものの、ほとんどが目立たない小さな富士山だったことに触れました。暗示するかのように線だけで買い物もあります。正直わたしにも意外な発見でした。有名な大波の中に描れた富士山も印象的ですが富士山は小さく描かれています。外国では The Great Waveですから、当然富士山は忘れられて大波に注目していてそういうタイトルになっているのです。北斎が富士山をモチーフにしながら、いつも富士山を小さく描いたことはとても不思議なのですが同時に親近感を持ちます。
言いたいことを小さく語るというのはなかなかできないことです。そもそも自分を小さくするというのはよく出来た人にしかできないことです。ヨーロッパではフランスのエスプリ、フランス風精神性の中に時々慎ましやかなものが現れます。フランス人が日本文化に火かけめのはそんなところからかもしれません。また多くのシャンソンは、まるで独り言のようにモゴモゴと歌われています。有名な愛の讃歌のように張り上げる歌は例外的なものと言って良いと思います。日本からの観光客からよく聞くのですが、パリのホテルに泊まっていて、下の道路から聞こえてくる話し声を窓越しに聞いていたらまるで日本語のようだったらしいのです。
小さいと言うのは量的に見れば少ないと同じことです。ところが自分を小さくする、小さく見せると言うのは量的な問題ではなく、精神性を含んだ質の問題ですから、少ないとは違います。自分を大きく見せようとする人ほど、実は中身がなかったりするものです。空っぽの人ほどほら吹きです。社会的地位を振り回す人たち、権力を傘にしてやりたい放題する人たちとみっともない人は後を立ちません。自分の小ささをカバーする手段が必要なのでしょう。昔からよく本物の人にはなかなか出会えないと言うのはけだし名言です。目立たないのです。老子も、語る人は知らず、知るものは語らずと言います。こういう言い方は東洋の精神性の中に宿る神秘だと確信しています。