恥ずかしいという感覚と自我

2019年10月9日

私シャイなので、というのと、恥の意識、つまり恥ずかしいと感じる意識とは違います。シャイは性格に属しているものですが、恥かしいと感じるのはどう言うものなのでしょう。

恥ずかしいと感じる方は深いところに根拠があるようです。ではどのくらい深いのでしょう。

先ず咄嗟に言えるのは恥ずかしいと感じなくなったら要注意だろうと言うことです。なにが要注意かと言うと人間関係で支障をきたすからです。羞恥心があると言うのは人間としての健全さを保つために必要なものだということです。

人間関係の中で相手を思いやることができるのは羞恥心と関係しているように思えるのです。自分しか見えなくなって、自分を正当化することに翻弄すると、羞恥心は消えて迷惑極まりないことになります。世界を見渡すと羞恥心というのは民族的に随分温度差のあるもので、日本人として持っている恥意識は日本の中での基準で、外国に行った時にはそのまま通用しないものなので要注意です。

とくにイデオロギーに突き動かされている人たちを見ていると羞恥心は姿をくらませていて見えないものです。全くなくなってしまう事もあります。イデオロギーという大義名分で自己正当化ができてしまうからです。

 

日本文化を恥の文化といった人がいます。菊と刀の著者ベネディクトで、西洋キリスト教社会の罪の文化に対して、日本文化を世間体を気にする恥の文化としました。内面の良心から生まれる罪の意識と世間体を気にしているだけの恥の意識ということになるのでしょう。罪と恥を巧みに使い分けているようですが、わたしには的を外しているように思えてならないのです。

西洋のキリスト教文化は潜在的に罪の意識から自分を解放できないでいるように思えてならないのです。原罪、つまり楽園追放はトラウマと言えるかもしれません。そのため自己正当化という巧みな武器を作りあげ、それによって自分を防御しています。そこのすり替えが西洋的な狡猾さだと思うのです。それだけでなく、更にその自己正当化が自我というものにすり替えられてしまいました。西洋文化は良心の文化で、日本には恥意識からの世間体があるだけで人間としての基本、つまり自我がないということにすらなってしまったのです。

 

恥ずかしいと感じるのはいつ頃からかと考えてみると、世間に対してどうのこうのという以前のことです。相当幼い頃に備わっているもののようです。自我の誕生と平行しているのかも知れません。相当早い成長段階で既にみられるものです。それにひきかえ原罪、罪の意識というのは宗教的解釈によって作られた生産物なのです。恥意識があって初めて生まれるもので、私には羞恥心の方が根源的なものと思えるのです。

 

 

腹八分目、人六分目、真実半分

2019年10月2日

腹八分目で押さえて食べるのがいい。

人付き合いはのめり込んでは痛い目にあうので六分で付き合う。

真実は主観的なものだから、他の人が考えている真実と分かち合いながら五分で主張する。

 

昔言われたことが人生を少し経験してみるとわかるようになってくるものです。

 

満腹まで食べたら大抵は食べ過ぎです。過ぎたるは及ばざるがごとしの通りです。

人付き合いに関して昔はそんなバカなと思ったものですが、年をとるとそんなものかと納得してしまいます。どんな人でもある程度は疑ってかかれということなのでしょう、しかし六割は信じて付き合わにないと付き合いを維持することはできません。

真実が主観的なものというのにはなかなか気づきませんでした。哲学、イデオロギー、宗教というものはそこに居場所を見つけた人間にとっては絶対的なものと映るのでしょうが、その外側にいる人達からすれば、思い込みと思われているわけです。どちらも譲らず、引き分けですから、どちらに軍配をあげることもできないのです。

 

 

六十年前の話

2019年9月28日

私が子どもの頃住んでいた池袋は、昭和二十年代は特に、なかなか風情のあるところで、今では見られなくなったものがたくさん見られました。小学校に上がる前のことです。我が家の前を通るものの後をついてゆくのが楽しみだったことを思い出しています。

金魚屋さんは夏になると必ずやって来て長いリヤカーに金魚鉢をたくさん積んで「金魚ーや、金魚」と言ってゆっくりと所々で止まったりしながら行商していました。風鈴もたくさんつら下がって涼しげな音を立てていました。金魚鉢の水がこぼれないのが不思議で、金魚屋さんについて行った覚えがあります。住宅街にはほとんど車が入って来ない時代でした。冬はもちろん焼き芋屋さんです。「石やきー芋、焼き芋」というよく通る声がして、小石の中でホクホクに出来上がった焼き芋が食べたいのになかなか買ってもらえませんでした。焼き芋屋さんのリヤカーの看板には「栗より甘い十三里」と書かれてあって、大人になって川越が東京から十三里離れていることだと教えられました。川越のお芋は今でいう人気のブランド芋で栗よりずっと甘いということだったのです。天津栗の向こうを張っていたのでしょうか。流石に冬はリヤカーにくっついてゆくことはしませんでした。馬に引かれた荷馬車も時々通りかかり、珍しかったので遊んでいた友達を置いてついて行きました。馬は時々糞をします。荷台の後ろをついてゆくので馬が糞をしたのがそこからは見えなくて知らずに踏んづけて靴についたのを家まで持って帰って叱られたことがありました。紙芝居屋さんも時々現れて、始まる前に飴だか煎餅だかよくわからない駄菓子を買わされたので、お金を持っていない私たちちびはいつも追い返されてしまい、近くで見ることができませんでした。それでもおじさんの口上はなんとなく耳に残っています。

当時の池袋はまだ水洗便所ではなく、汲み取り式で、しかも幼い頃の思い出には、二つの桶を前と後ろに肩掛けして汲み取る人もまだいて、我が家では「おわん屋さん」と呼んでいましたが、この呼び名は調べても見つかりませんから、我が家独特の言い方だったのかもしれません。しかしすぐにバキュームカーに変わってしまいました。新品の近代的なバキューカーが我が家の前に止まって汚物を吸い取っている様子は画期的だったのを今でもよく覚えています。それまでの汲み取り式と違ってあっという間に仕事が終わってすぐに次の家に移ってしまいます。次の家とは言っても予約制ですから隣の家でないことが多く、しかも車ですから追いかけてついてゆくことはできませんでした。それでもバキュームカーが来るとすぐに外に出て汲み取り屋さんの仕事を固唾を飲んで眺めていました。ホースの動きが面白かったのとホースの先にいつもテニスボールが付いているのが不思議で、必ず近くまで行って観察していました。運悪く母親が通りかかると、あまり近くに行っちゃダメよとたしなめられたものです。

なぜあんなに執拗なまでについて行ったのか今思い出すと苦笑いが出て来ます。大抵は私一人だったようです。姉も一緒に遊んでいた子どもたちもついて行きませんでした。金魚屋さんについて行った時に知らない住宅街まで来てしまい家に帰れなくなって、親切な銀魚屋さんのおじさんに泣きながら連れて帰ってもらったこともありました。おじさんは怒ることもなく行商しながら送ってくれたのです。思い出すたびになんとものんびりした生活空間だったのだろうとまるで別世界に思いを馳せるような感じです。

あれから六十年以上の歳月が流れました。しばらくするとソ連の人工衛星スプートニクスが飛んで、二階の窓から夜空を眺めていました。昭和三十三年には三百三十三メートルの東京タワーができて(三月三日のことです)、テレビ放送が始まったころです。隣のうちにはテレビがあり、金曜日の夜八時にはプロレスを見る人たちが庭にあふれていました。