教育は社会の知的副産物だった

2019年8月21日

教育という名前のついたものを挙げてみると膨大の数の言葉が並びます。

学校教育、幼児教育、義務教育という身近なものから高等教育、大学教育、社会教育、僻地教育、社員教育、英才教育、情操教育というものまで。あるいは教育哲学、教育心理学、教育学、そして教育のための教材、マネージャーの教育、また鑑別所や刑務所の中の社会復帰のための教育システム、政治的には政治犯の刑務所での再教育(実は洗脳)まで人間の社会生活のありとあらゆる分野に教育の姿をとるものが浸透しています。

教育は社会的に重要な役割を担っていて、その働きは社会の隅々までを網羅し、立派に機能して、社会にとっては欠かせないものなのです。社会は教育で成り立っていると言えるほどです。教育がなかったら、もしかしたら社会は混乱の渦に巻き込まれて消滅してしまうかもしれない、私は時々そんなことを考えます。

ところで、をたくさん並べましたが、そもそもそれらの教育はどこで生まれたものなのでしょう。いつから教育はあるのかという問うこともできます。私は、社会を維持するために考え出された知的副産物の一つだと考えて見ました。

 

教育はほとんどがシステム化されています。何故なのでしょう。私はここがいつも不思議でした。その理由は教育が知的副産物だからなのだと気付いたのです。社会の中の知性、頭のいい人たちによって仕組まれ、社会が機能しやすくしたのです。

システム化されている教育というよりも、教育はシステムの中でした機能しないものです。そうしたシステムから受け取る恩恵の中で一番顕著なのは学校教育です。一番身近にあり親しみのある学校教育ですが、実は社会の知的副産物の一番典型的なもので、学校教育の運命もそこにあります。学校教育が社会の知的副産物としてある内はこの教育の運命は定まっています。さらに激しさを増しながら知的なものを目指すものになってゆくのです。

 

深い絆で結ばれている教育とシステムですが切り離せないのでしょうか。つまり教育を知的副産物という枠から外せないのかということです。過去に目を向けても教育はシステムを伴って社会の知的副産物として活躍している姿しか見えてきません。ですからそれが教育の性(さが)であり宿命と見るしかないのかもしれません。しかし私は教育がいつの日かシステムから、社会の知的副産物というあり方から抜け出すして欲しいと願っています。そして必ずその時が来るような気がしてならないのです。

社会というのは時代の流れで変化します。それを支えているシステムもです。今のシステムがこのまま進化し続けるのかどうか、社会の知性はこれからも知的副産物を作り続けられるのかどうか、あるいはその副産物である教育を今までのように必要としているのかどうか。今、瀬戸際に追い込まれているように見えるのです。拍車をかけているのは人工頭脳の進出です。

 

システム化してしまった知的副産物である教育とその枠から外れている人間教育という縮図を考えてみました。どう考えてもこの二つは相入れない水と油です。システム化した教育、つまり社会知性は人間を育てることを知りません。興味もありません。そのための知恵も情熱もないのです。社会知性は人間を社会の道具、システムの部品としてしか見ていません。育てられるのは社会に役立つ能力の開発です。ということは、知的副産物というシステムに甘んじている限り教育そのものが旧態依然、社会の道具のままでい続けるのです。そこで育てられる人間も同様に社会の道具ということになってしまいます。

 

そういった教育にメスを入れ社会の知的副産物から別のものにしたいと願っています。そのために新しい教育論を打ち立てたらうまくゆくでしょうか。あまり例がないようで、具体的なイメージがわかないのですが、新しい、画期的な教育論を打ち立てて、今までの教育観を変えても意味がないように思います。

唯一の可能性として考えられるのは、教育に携わっている人たちの内的な変革です。教育論や、教育要綱のような外からの圧力ではなく、教育者が変わるのです、教育の現場からの改革と言ってもいいのでしょうが、あえて教育に携わる人たちの心のあり方に焦点を当てたいのです。教育者そのものが変わらなければ教育が変わることはないということです。

こういう時、自己教育ということが持ち出されますが、私は教育者たちの直感に着目したいと思います。別の言い方をすれば教育者の教育的センスを磨くことです。それは教育学、教育哲学、教育心理学を勉強しても身につくものではなく、自分の中の一番深いところに新しい風、新しい光を送り頃ことです。その直感からはもしかしたら全く教育らしからぬものが降りてくるかもしれないのでず。直感ですから知識とはちがい、他人に説明をするのが難しいものですが、本人の中では確固たる真実として生きているものです。

教育に携わる人間が変わって初めて、教育がシステムから解放され流れが生まれます。人間を育てるものに変わる道を歩み始めるのではないのかと私は考えています。その直感で教育を見直した教育者が増えて欲しいのですが、道は茨の道で、現実には社会がそれを簡単には受け入れないことです。もっと手強い相手は案外親御さんたちであったりするのです。

読む、それは立派な肉体的全身運動です、あるいは神は細部に宿る。

2019年7月27日

活字を読むのは結構体力を要するもので、本を読まなくなったと言う現象は現代人の体力低下も関係しているかもしれません。

最近は活字は音声に転換できるので、読まなくて済むような社会になっていてメールなども音声に転換して聞いている人がいるようです。一昔前は車社会の登場で歩かなくなるという社会現象についてあれこれと言われたものでした。歩かなくなって、フットワークがなくなり、足腰が弱くなって、そのしわ寄せが読書に及んできたと考えることもできます。

本が読まれなくなっているとは聞きますが、ドイツでは電車で長距離を動く時などに本を手にしている人が、スマフォ、iPadを覗き込んでいる人の間にまだまだいます。読書人口が減ったとはいっても、本を読む人は今でも買って読んでいるので、本を買ってるだけだった人が本を買わなくなったということもあるのではないのかなんて考えています。

 

読むというのは全身運動です。活字を認識するところで微細な運動が繰り返され、さらに活字を追いながら内的に音読?していますして居ます。読むとは体で読むので、理解も体を張っての仕事です。ただこれは目に見えないので、あまり知られていませんが、読む文化をもう一度見直そうと思います。

私がドイツに渡ったときは、今と違ってシュタイナーの文献は日本語に翻訳されていませんでしたから、ほかに残された道はなく、知りたい一心でガムシャラにドイツ語で読んでいました。

当時を思い返すとまるで亀の歩みで、施設での仕事が終わってから深夜まで、毎日、それこそ汗まみれでドイツ語と格闘していました。全身でシュタイナーをドイツ語で読んで、全身で受け止めていました。原生林に迷い込んだようなもので、道無き道に途方に暮れていました。私のシュタイナー理解の原点です。

原生林といったのは単なる比喩ではなく、実際にわからないことだらけなのです。私の周りにはいつも何本もの木が立ちはだかって、前にも行けず、右にも行けず、左にも行けずと、次に進むべき道が全く見えない状態です。

シュタイナーをドイツ語で読み始めた当時、わからないという状態との格闘でした。辞書も、文法書も役に立たず本能的な勘だけが頼りになる手段でした。そんな中で、「分かった」という手応えを感じた時、今分かったことと今まで生きてきた自分の人生とが火花を散らして交錯します。わかるという感触は今までの人生の総合的な結果なのです。そうしながシュタイナーの言葉、考えが、時間をかけ血や肉になっていったようです。もし当時日本語で勉強できる環境にいたら、私のシュタイナー理解は全く別のものになっていたはずです。

 

普段私たちが行っている読書も基本的にはわかるとわからないが交錯する中を突き進んでゆく行為です。読むというのは情報収拾のためにするものでもあるのでしょうが、そこに理解が加わると自らの人生との勝負と言えるものです。

読んでも読んでもますますわからなところに連れていかれることだってあるのです。

「分からない」から「分かった」に変わる瞬間を味わえるのが読書の醍醐味ですが、その読むが音声に転換されてしまうと、どうなるのでしょう。楽譜をコンピューターに取り込んで、コンピューターに演奏させたことがありますがその時の印象と重複するものがあるようです。その演奏を始めて聞いた時、なんの感動もないだけでなく、本をただ棒読みしているだけのような味気のないものでした。曲のイメージすら湧いてこない、血の気のない無機質なもので、ただ音譜が聞こえるようになっているだけで間違ってもそれを「演奏」などと呼んではいけないものでした。音声に転換されてしまえば、読むのに必要な手探りがなくなり、ましてや言語感覚など言う面倒臭い本能も必要なく、スイスイと乗り物に乗って原生林を通り過ぎてしまうのです。

私の講演録を電子図書として出版したいというお誘いが一度ありました。しかしライアー・ゼーレのスタッフと話し合った結果しないことにしました。電子図書になれば少なからずの人たちはきっと音声に転換してコンピューターに読んでもらうことになるのでしょう。しかし、それは便利を通り越して横着極まりないもので、そうなれば書かれている内容は音として聞こえている情報に変わり、文章のうねりや行間で伝えようとしているものは聞いている人の中に入って行かないことはわかりきっています。そう言う細かい配慮が文章には生きているのです。神は細部に宿ると言うことのようです。

自由とファンタジー

2019年7月26日

人智学と呼ばれているシュタイナーの世界観を学ぶ際の基本文献に必ず挙げられるものに「自由の哲学」があります。若いシュタイナーが情熱を込めて書いた著書で、彼が人智学運動を始める前に著されたもので、思想人シュタイナーの面影を感じます。

自由の哲学の十二章は、道徳的ファンタジー(道徳的想像力、倫理的ファンタジー、モラル的ファンタジーとも訳されている)というタイトルがついています。この本の愛読者の中で物議を醸し出しているものです。

今回このブログでファンタジーの問題に二回渡って挑戦してみました。今回で三回目ですが、実は初めからこの三回目を目指して書いていたので、前の二つはいわば伏線ということになります。

 

シュタイナーはこの道徳的ファンタジーで何が言いたかったのでしょうか。

私たちは色々と決断しながら、様々な行動をとるわけですが、その時、その行動には動機となるものがあるというところから始まります。ある時は衝動的だったり、ある時は計画的だったりと色々ですが、その動機次第で、私たちは自由な行動人となるか、あるいは何かに囚われた、何かに従属した不自由な?人間となるかに別れるというのです。

自由な人間はその時「直感」を得ているとシュタイナーは考えています。その直感に従って行動できれば、その人は自由人だというわけです。一方行動の動機が、親だったり、先輩だったり、先生だったり、親戚だったり、世間体だったり、神様だったりという風に外から規制してくるものの時、その人は自由を知らずに行動する不自由人?というのです。

確かに自分の直感で行動できれば最高です。もちろんその時の責任は全て自分自身に帰ってきますが、開放感、達成感は格別です。ではその直感は何処から来るのかというと、そこにシュタイナーはそこのところにファンタジーを用意しています。つまりファンタジーによって自分の理想郷から直感を下ろすのだと考えています。

普通はファンタジーだけで足りるところに何故わざわざ道徳的とか、倫理的とかいう誤解を招きそうな形容詞をつけて、単なるファンタジーとは違うのだと強調しなければならなかったのでしょう。私はそのことを「ファンタジーと嘘」と題したブログで間接的に書いてみました。つまりシュタイナーはファンタジーには二種類ある考えていたとみたのです。一つはファンタスティックなという時の善なるファンタジー、そしてもう一つは嘘に代表される、非道徳的ファンタジー、悪いファンタジーです。

ただファンタジーといってしまうと両方を含んでしまうと危惧したのかもしれません。黒魔術的なファンタジー文学は当時も横行していましたから、善なるファンタジーだということをはっきりさせたかったのでしょう。また執拗に善悪を対立させてしまうと却って複雑になり混乱するため(善悪の基準は個人差がありますから)、善なるファンタジーのことを道徳的なという形容詞を当てて哲学書として用を足す表現にしたのだと、私は考えます。

ここでふとドイツでよく言われる諺のことに触れたくなりました。「即行動に移すときは二つ返事だが、やりたくなくて断るには何千もの言い訳が用意されている」という本質を突いた諺です。即行動という時はあれこれ考えずに道徳的ファンタジーに導かれた直感が生きているように感じます。また言い訳というのは基本的に嘘に通じているもので、非道徳的ファンタジーによって作られるものです。哲学書に諺からの引用はタブーだから使わなかったのかもしれませんが、とてもよく似たことを言っているような気がします。

 

惜しむらくは、シュタイナーがファンタジーを扱うときに、どのように私たちが善なるファンタジー、道徳的ファンタジーを開発できるのかの指南を示さなかったことです。このことには後に別の本「いかにして超感覚的な認識を獲得するのか」で書いたわけですが、自由の哲学の中で触れておいたら、もっと分かりやすかったのではないかと思うのです。

最後に私の見解を交えながらまとめてみたいと思います。

直感とはざわざわした乱れた心の状態では得られないものです。澄み切ったなどというと大げさかもしれませんが、少なくとも落ち着いた心の状態は最低でも必要で、その心の状態を「道徳的想像力(倫理的ファンタジー)」と解釈して良いのではないかと思っています。想像力にしても、ファンタジーにしてもスキルとしての能力というより状態がそもそも能力だと言えるものです。ファンタジーは手品師ではないのです。別の言い方をすれば、落ち着いた澄み切った心に直感の雫はその人の理想郷から自ずと滴り落ちてくるもので、その直感に従って生きて行くとき自由だということです。