自由とファンタジー

2019年7月26日

人智学と呼ばれているシュタイナーの世界観を学ぶ際の基本文献に必ず挙げられるものに「自由の哲学」があります。若いシュタイナーが情熱を込めて書いた著書で、彼が人智学運動を始める前に著されたもので、思想人シュタイナーの面影を感じます。

自由の哲学の十二章は、道徳的ファンタジー(道徳的想像力、倫理的ファンタジー、モラル的ファンタジーとも訳されている)というタイトルがついています。この本の愛読者の中で物議を醸し出しているものです。

今回このブログでファンタジーの問題に二回渡って挑戦してみました。今回で三回目ですが、実は初めからこの三回目を目指して書いていたので、前の二つはいわば伏線ということになります。

 

シュタイナーはこの道徳的ファンタジーで何が言いたかったのでしょうか。

私たちは色々と決断しながら、様々な行動をとるわけですが、その時、その行動には動機となるものがあるというところから始まります。ある時は衝動的だったり、ある時は計画的だったりと色々ですが、その動機次第で、私たちは自由な行動人となるか、あるいは何かに囚われた、何かに従属した不自由な?人間となるかに別れるというのです。

自由な人間はその時「直感」を得ているとシュタイナーは考えています。その直感に従って行動できれば、その人は自由人だというわけです。一方行動の動機が、親だったり、先輩だったり、先生だったり、親戚だったり、世間体だったり、神様だったりという風に外から規制してくるものの時、その人は自由を知らずに行動する不自由人?というのです。

確かに自分の直感で行動できれば最高です。もちろんその時の責任は全て自分自身に帰ってきますが、開放感、達成感は格別です。ではその直感は何処から来るのかというと、そこにシュタイナーはそこのところにファンタジーを用意しています。つまりファンタジーによって自分の理想郷から直感を下ろすのだと考えています。

普通はファンタジーだけで足りるところに何故わざわざ道徳的とか、倫理的とかいう誤解を招きそうな形容詞をつけて、単なるファンタジーとは違うのだと強調しなければならなかったのでしょう。私はそのことを「ファンタジーと嘘」と題したブログで間接的に書いてみました。つまりシュタイナーはファンタジーには二種類ある考えていたとみたのです。一つはファンタスティックなという時の善なるファンタジー、そしてもう一つは嘘に代表される、非道徳的ファンタジー、悪いファンタジーです。

ただファンタジーといってしまうと両方を含んでしまうと危惧したのかもしれません。黒魔術的なファンタジー文学は当時も横行していましたから、善なるファンタジーだということをはっきりさせたかったのでしょう。また執拗に善悪を対立させてしまうと却って複雑になり混乱するため(善悪の基準は個人差がありますから)、善なるファンタジーのことを道徳的なという形容詞を当てて哲学書として用を足す表現にしたのだと、私は考えます。

ここでふとドイツでよく言われる諺のことに触れたくなりました。「即行動に移すときは二つ返事だが、やりたくなくて断るには何千もの言い訳が用意されている」という本質を突いた諺です。即行動という時はあれこれ考えずに道徳的ファンタジーに導かれた直感が生きているように感じます。また言い訳というのは基本的に嘘に通じているもので、非道徳的ファンタジーによって作られるものです。哲学書に諺からの引用はタブーだから使わなかったのかもしれませんが、とてもよく似たことを言っているような気がします。

 

惜しむらくは、シュタイナーがファンタジーを扱うときに、どのように私たちが善なるファンタジー、道徳的ファンタジーを開発できるのかの指南を示さなかったことです。このことには後に別の本「いかにして超感覚的な認識を獲得するのか」で書いたわけですが、自由の哲学の中で触れておいたら、もっと分かりやすかったのではないかと思うのです。

最後に私の見解を交えながらまとめてみたいと思います。

直感とはざわざわした乱れた心の状態では得られないものです。澄み切ったなどというと大げさかもしれませんが、少なくとも落ち着いた心の状態は最低でも必要で、その心の状態を「道徳的想像力(倫理的ファンタジー)」と解釈して良いのではないかと思っています。想像力にしても、ファンタジーにしてもスキルとしての能力というより状態がそもそも能力だと言えるものです。ファンタジーは手品師ではないのです。別の言い方をすれば、落ち着いた澄み切った心に直感の雫はその人の理想郷から自ずと滴り落ちてくるもので、その直感に従って生きて行くとき自由だということです。

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