ダブルトップのギター

2019年5月20日

最近のクラシックギターの世界はどんなだろうと、名前を聞いたことのない、若手のギターリスト達の演奏をYouTubeで聞いてみました。

最初の印象は、女性ギタリストが増えていることと、音がクリアーになっていることでした。

音の変化については、初めは録音技術が進化したのだろうと思って聞いていましたが、何人かの演奏を聞いているうちにそれもありそうだが、それだけでなくもっと本質的なところに変化がある様な気がしてきました。しばらくみたり聞いたりしていると昔とは演奏法が変わったことが気になりはじめたのです。特に弦を弾く時に力を入れていないのに大きな音が、しかも不自然な強調された音が出るのかが不思議で、楽器に変化があったのか、それとも弦の違いかと勘ぐって調べたところ、ダブルトップというギターが作られていることを突き止めたのです。

音がクリアーになる様に演奏する。これはどの楽器にも共通した約束事です。そのためにギターの場合は、指の力の入れ方、角度、さらには爪の形や長さなどにそれぞれの演奏家が工夫をします。最近の若手の、特に女性の演奏家方は驚くほど長い爪で、軽くはじく様に弾いています。ここに気付いた時点でギターの作りそのものに変化があったことを予感して、色々と検索したわけです。

 

ギターの前身といってもいいリュートはルネッサンス、バロックの時代は男性が受け持っていた楽器です。ところが鍵盤楽器の方は意外に思われるかもしれませんが女性が弾いていました。弦をはじくというのは思いのほか力が要るもので、男性の方が指に力があるため撥弦楽器は男性の仕事ということになったのではないかとい推測します。

 

ギターの世界でも女性の進出はここ二十年目覚ましく、昔は紅一点という感じで、幾多のギターリストの中で女性のギター弾きを探すのが難しかったのに、最近の人気ギターリストは女性で占められていると言えるほどの変わりようです。その変化の原因が他でもない、女性の指の力でも十分な音量が作れるギターができたということの様なのです。そのこと自体は嬉しいニュースで、ギター音楽も女性の感性から生まれる音楽が楽しめる様になったということなのですから。

 

さて楽器の方に話を戻しましょう。大きなクリアーな音が出やすい楽器をどの様に見たらいいのかということです。

利点と欠点を含め簡単に要約すると・・

かつての音作りに費やされたエネルギーが、大きな音クリアーな音作りが容易になった分、他のことに使われる様になったということです。テクニックの開発に使える様になったといっていいと思います。しかし音作りというのは楽器演奏にとっては心臓部、命に当たるものだということはがっ気を演奏する者達は知っています。演奏家達は、楽器の種類を問わず懸命に最高の音作りに専念しながら、自分の音と言えるものを作る努力をしたものです。それは音楽性を磨くということと並行して行われたのです。そしてついに音の中にその演奏家の音楽そのものが聞こえてくる様になったと言えます。

ところが音量とクリアー度を楽器の方が引き受けてくれる様になると、演奏する立場から見れば音作りは以前ほどの時間を費すものではなくなり、その分技巧的な方面に時間が費やせることになります。そこで演奏曲目も技巧、テクニックに富んだものが際立ってくる様になるのですが、実はそれらは音楽の中心部から少し外れているため、音楽体験の深さをそこに期待することはできないものなのです。

それに加えて、音作りの曖昧さから生まれるものが目立つ始めます。これはとても残念なことです。コンサートで演奏を聴いている時には大変なテクニックに度肝を抜かれて家路に着いたのに、次の日目覚めて昨日の音楽会のことを思い出しても、なんだったのだろうと、よく覚えていないことがあるのです。優れたテクニックはその場を幻惑させられても、余韻としては薄っぺらなもので残らないものなのです。

 

私は、クリアーで大きな音の出るギターにいささか否定的な立場を取っていますが、大きなクリアーな音のギターを擁護する人たちもいるはずです。特にコンクールに出て演奏効果をアピールするには絶好の楽器です。第一印象の聞き栄えがいいですから、審査員達へのインパクトは強いでしょう。また大きなホールでの演奏には有利ですし合奏する場合にも相手に音が届きやすくなるはずです。といった点はこの楽器が誇っていいところです。しかしダブルトップのギターを使っている演奏家達の演奏をしばらく聞いていると、共通するものが聞こえてきます。演奏が雑なことに気づくのです。一音一音の音もですが和音を引くときに音がバラバラでまとまりを欠いていて、特に六本の弦をいっぺんに引くとき(ギター用語でラスゲアドと言います)、しっとりした演奏ではなく、音量に翻弄されてしまっているのです。それは演奏としてはもちろん音楽として致命的なことです。

ギターを始め撥弦楽器全てに言えることですが、弦を弾く時に込める思いは格別なもので、ときには一音聞いただけで体が震えることがあるほどです。ところが、音がすぐ出てしまうの楽器で演奏すると、音作りへの気合が半減している様で、責任感の伴わない音といってみたくなる様な音になってしまいます。それは命がけの音作り、自分の音に責任をかけた演奏とは一味も二味も違うのです。

その結果どうなるかと言えば、ふくらし粉を入れた様な音はすぐに飽きてしまうのです。

愛読する植物図鑑、牧野新日本植物図鑑

2019年4月29日

牧野富太郎の植物図鑑は「上等な」という形容詞がビッタリの図鑑です。

図鑑とか辞典とか辞書を手の届くところに置いておく癖があります。そもそもは調べ物をするときに使う書物なわけですが、私の場合はそれだけではなくお気に入りの図鑑、辞典、辞書は読み物の部類になることもあります。お気に入りという条件を満たしているものに限られているのですが、牧野新日本植物図鑑はその一つです。

牧野富太郎は明治になる前の1862年の生まれですから、今日の教育制度と違う環境で育ちました。当時の小学校を中退して(13歳の頃)その後はほとんど独学で植物を採取しながら分類学を独学した人です。学歴がないにも関わらず研究の内容が評価され当時の東京帝国大学の植物研究所の助手として採用されその後講師を務め述べで77歳で退職するまで47年間務めたものの、学歴がないこと、東京大学出身ではないことでアカデミーからの嫌がらせに苦しめられた様です。しかし英文で世界の学会に向けて発表した論文が高い評価を得たことから東大から博士号を与えられているという珍しい経歴の持ち主です。最近の話では映画監督北野武がフランスから名誉ある賞を与えられたので日本のアカデミーも大慌てで彼を芸大の教授に取り上げたのに似ています。

自らを「植物の精」だと信じていたほどの人でしたから、持ち前の目で植物に接し、「松のことは松に習え」という松尾芭蕉の言葉の様に植物から植物のことを教えてもらえた稀な人だったのです。もちろんそのタイプの人によくみられる様に、社会通念に欠け、研究費がかさむこともあって94年の生涯、生活は苦しかった様です。

この図鑑は、私にとって植物のことで調べ物をする道具ではなく、もちろんそのためにも十分すぎるほど役立つものですが、ふとした時に思い出し読みたくなる珍しい図鑑です。大上段に構えて言わせてもらうと、この図鑑は牧野富太郎という植物学者としての博学に接するだけでなく、それ以上に、彼の世界観が、人生観が、いや植物への熱い想い、愛情がどの植物の説明からからも伝わってきて、調べる用事など無いのについ開いてしまう本なのです。

とは言っても所詮は植物図鑑です。ですから一つ一つの植物について学術的な意味での正確な説明に付き合うわけですが、牧野新日本植物図鑑を読んでいると植物観察が詩人の心で語りかけてきて、まるでお話を読む様なとも、あるいは詩を読む様なとも言える牧野さんの人となりに溶けてしまった植物の姿に接することのできる、贅沢な読書体験が得られる稀有な図鑑なのです。牧野富太郎が感じた植物の世界がそのまま図鑑の説明になりますから、客観的に植物の形や生態について叙述していても、語り口は主観的とも言えるほど牧野富太郎節で、客観に息が吹き込まれ、血が通い人間味を帯び、図鑑なのにそこから牧野富太郎のつぶやきが聞こえ温かさに包まれるのです。

それは一途に牧野富太郎の植物に向かう姿勢からくるもので、生来の植物好き以上の植物に呼ばれる姿が学問という体系にたどり着く道程が、一つ一つの説明の中に生きていて読む者をして植物への深い関心を目覚めさせるのです。血の通った学問とはこういうもののことを言うのだと牧野富太郎から教えられました。

私がもっている「牧野新日本植物図鑑」は昭和36年、1961年に発行されたもので、絵が白黒である上に、個々の説明文の長さが違っていて、編集の際に内容を削るのを心苦しく思った編集の人たちの配慮で説明文の活字のポイントを変えているため不揃いだったりるのですが、逆にそれが独特の読書体験を作り出す要因になっています。説明する文章に味があるのはいうまでもありませんが、牧野富太郎自身が書いた絵が生き生きとしていて、まるで画家の描いた絵の様なのでそれだけはオリジナルの色でみたいと思っています(その後弟子たちの努力によってカラーになった原色版が出版されています)。今日ほとんどの植物図鑑が植物の写真を載せていますが、牧野富太郎の絵の方が植物本来の姿をしっかりと伝えている様に感じるのは私の依怙贔屓だけではない様に思います。

 

 

 

線について

2019年4月28日

線を見ているとそこに生きている時間を感じます。多分、線の動きの中には時間が生きているからでしょう。線の動きを見ているだけで気持ちが落ち着くこともあります。線を見ながら自分が時間の存在になっているからだろうと思うのです。

 

長年教師をされて、去年退官された先生に講演会の後で声をかけられお話をした時のことです。お話をしたと言っても僅かの言葉を交わした程度ですから、その方がかつて教師だったこと以外は知らないままお別れしたのですが、そのわずかの間に、その方がどの様な経緯でシュタイナー教育へ関心を持たれるようになったかについて熱く語られたのです。

フォルメンが必須になっていることに心が動かされたそうです。

シュタイナー教育にはフォルメンという科目があり、しかも必須科目です。

その方は、「一般にはフォルメンと呼んでいる様ですが、本質的なのは形ではなく線のことだ」とはっきりと指摘されていました。ですから形ではなく線のことについて、線を引くことについて短い時間の中で熱く語られ、線の持つ意味、線を引くことの大切さをシュタイナー教育がわかっているというだけでこの教育に共感できるのだということでした。

実は、その先生が指摘された通りで、日本ではフォルメンという訳語があてがわれていますが、そもそもはDynamisches Zeichnenですから、ダイナミックに、活き活きと線を引くこととなるのです。ですから、形、フォルムを作ることを念頭に置いているのではなく、兎も角線を引くことを重視しているのです。そして線にはたくさんの意味が詰まっているので、たかが線、されど線と言えると思います。

日本の文化だとさながら習字です。私はその方とお話ししている時「うめ子先生」と呼ばれ慕われた、山形にある基督独立学園の習字の先生のことを思い浮かべていました。

「うめ子先生」は一度も生徒の前で生徒の書いた字に朱を入れないのです。そうではなく生徒の書いた字がうまく書けていないとみるや、朱を入れる代わりに、新しい半紙の上に生徒の目の前で自ら筆を取り書いて見せるのです。線から形が生まれる様を生徒に見せたかったのでしょう。

習字を決定づけているのは形の良し悪しではないはずです。特に優れた書は、素人目で判断すると形的には崩れていることがほとんどです。良寛さんの書を思い浮かべています。書はそもそも線の動きが命です。そのことから、生徒が自分で書いた字が朱を入れて訂正されたのを見ても、生徒はいい字をかける様にはならないのです。形にこだわると書の本質から外れます。「うめ子先生」が半紙に字を書くとき、力の入れ具合、抜き具合、筆運びの速度などを生徒は目の当たりにするわけです。それこそが時の生まれる瞬間で書道の本質です。そうして初めて字を書くことが伝わってくるのです。それを肌で感じることで字を書くことの喜びへと導かれるのです。

 

線は頭でまとめようとするとつまらないものになってしまいます。いわゆる優等生の字はつまらないです。綺麗にまとまっていたりするものですが、後にも先にもそれだけで味気のないものです。そこには上手く書こうという媚があり、線のことが少しわかってくると醜いものです。また衝動的に書かれた線というのも本人の自己満足に過ぎないのではたから見ると退屈なものです。

そうすると活き活きした線というのは知性と衝動の混ざった感情と関わりがあるものという言い方ができるのかもしれません。あるいは線を引くことで感情か引き出されてくるといってもいいのかもしれません。

感情というのは言葉にしにくいものですが、私は無と深く関わっているものだと思っています。のびのびと屈託無く書かれている線、無の境地で書かれた線は見ていて気持ちがよく、そうして生まれた線はワクワクしながら追っているものです。