愛読する植物図鑑、牧野新日本植物図鑑

2019年4月29日

牧野富太郎の植物図鑑は「上等な」という形容詞がビッタリの図鑑です。

図鑑とか辞典とか辞書を手の届くところに置いておく癖があります。そもそもは調べ物をするときに使う書物なわけですが、私の場合はそれだけではなくお気に入りの図鑑、辞典、辞書は読み物の部類になることもあります。お気に入りという条件を満たしているものに限られているのですが、牧野新日本植物図鑑はその一つです。

牧野富太郎は明治になる前の1862年の生まれですから、今日の教育制度と違う環境で育ちました。当時の小学校を中退して(13歳の頃)その後はほとんど独学で植物を採取しながら分類学を独学した人です。学歴がないにも関わらず研究の内容が評価され当時の東京帝国大学の植物研究所の助手として採用されその後講師を務め述べで77歳で退職するまで47年間務めたものの、学歴がないこと、東京大学出身ではないことでアカデミーからの嫌がらせに苦しめられた様です。しかし英文で世界の学会に向けて発表した論文が高い評価を得たことから東大から博士号を与えられているという珍しい経歴の持ち主です。最近の話では映画監督北野武がフランスから名誉ある賞を与えられたので日本のアカデミーも大慌てで彼を芸大の教授に取り上げたのに似ています。

自らを「植物の精」だと信じていたほどの人でしたから、持ち前の目で植物に接し、「松のことは松に習え」という松尾芭蕉の言葉の様に植物から植物のことを教えてもらえた稀な人だったのです。もちろんそのタイプの人によくみられる様に、社会通念に欠け、研究費がかさむこともあって94年の生涯、生活は苦しかった様です。

この図鑑は、私にとって植物のことで調べ物をする道具ではなく、もちろんそのためにも十分すぎるほど役立つものですが、ふとした時に思い出し読みたくなる珍しい図鑑です。大上段に構えて言わせてもらうと、この図鑑は牧野富太郎という植物学者としての博学に接するだけでなく、それ以上に、彼の世界観が、人生観が、いや植物への熱い想い、愛情がどの植物の説明からからも伝わってきて、調べる用事など無いのについ開いてしまう本なのです。

とは言っても所詮は植物図鑑です。ですから一つ一つの植物について学術的な意味での正確な説明に付き合うわけですが、牧野新日本植物図鑑を読んでいると植物観察が詩人の心で語りかけてきて、まるでお話を読む様なとも、あるいは詩を読む様なとも言える牧野さんの人となりに溶けてしまった植物の姿に接することのできる、贅沢な読書体験が得られる稀有な図鑑なのです。牧野富太郎が感じた植物の世界がそのまま図鑑の説明になりますから、客観的に植物の形や生態について叙述していても、語り口は主観的とも言えるほど牧野富太郎節で、客観に息が吹き込まれ、血が通い人間味を帯び、図鑑なのにそこから牧野富太郎のつぶやきが聞こえ温かさに包まれるのです。

それは一途に牧野富太郎の植物に向かう姿勢からくるもので、生来の植物好き以上の植物に呼ばれる姿が学問という体系にたどり着く道程が、一つ一つの説明の中に生きていて読む者をして植物への深い関心を目覚めさせるのです。血の通った学問とはこういうもののことを言うのだと牧野富太郎から教えられました。

私がもっている「牧野新日本植物図鑑」は昭和36年、1961年に発行されたもので、絵が白黒である上に、個々の説明文の長さが違っていて、編集の際に内容を削るのを心苦しく思った編集の人たちの配慮で説明文の活字のポイントを変えているため不揃いだったりるのですが、逆にそれが独特の読書体験を作り出す要因になっています。説明する文章に味があるのはいうまでもありませんが、牧野富太郎自身が書いた絵が生き生きとしていて、まるで画家の描いた絵の様なのでそれだけはオリジナルの色でみたいと思っています(その後弟子たちの努力によってカラーになった原色版が出版されています)。今日ほとんどの植物図鑑が植物の写真を載せていますが、牧野富太郎の絵の方が植物本来の姿をしっかりと伝えている様に感じるのは私の依怙贔屓だけではない様に思います。

 

 

 

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