2019年4月28日
線を見ているとそこに生きている時間を感じます。多分、線の動きの中には時間が生きているからでしょう。線の動きを見ているだけで気持ちが落ち着くこともあります。線を見ながら自分が時間の存在になっているからだろうと思うのです。
長年教師をされて、去年退官された先生に講演会の後で声をかけられお話をした時のことです。お話をしたと言っても僅かの言葉を交わした程度ですから、その方がかつて教師だったこと以外は知らないままお別れしたのですが、そのわずかの間に、その方がどの様な経緯でシュタイナー教育へ関心を持たれるようになったかについて熱く語られたのです。
フォルメンが必須になっていることに心が動かされたそうです。
シュタイナー教育にはフォルメンという科目があり、しかも必須科目です。
その方は、「一般にはフォルメンと呼んでいる様ですが、本質的なのは形ではなく線のことだ」とはっきりと指摘されていました。ですから形ではなく線のことについて、線を引くことについて短い時間の中で熱く語られ、線の持つ意味、線を引くことの大切さをシュタイナー教育がわかっているというだけでこの教育に共感できるのだということでした。
実は、その先生が指摘された通りで、日本ではフォルメンという訳語があてがわれていますが、そもそもはDynamisches Zeichnenですから、ダイナミックに、活き活きと線を引くこととなるのです。ですから、形、フォルムを作ることを念頭に置いているのではなく、兎も角線を引くことを重視しているのです。そして線にはたくさんの意味が詰まっているので、たかが線、されど線と言えると思います。
日本の文化だとさながら習字です。私はその方とお話ししている時「うめ子先生」と呼ばれ慕われた、山形にある基督独立学園の習字の先生のことを思い浮かべていました。
「うめ子先生」は一度も生徒の前で生徒の書いた字に朱を入れないのです。そうではなく生徒の書いた字がうまく書けていないとみるや、朱を入れる代わりに、新しい半紙の上に生徒の目の前で自ら筆を取り書いて見せるのです。線から形が生まれる様を生徒に見せたかったのでしょう。
習字を決定づけているのは形の良し悪しではないはずです。特に優れた書は、素人目で判断すると形的には崩れていることがほとんどです。良寛さんの書を思い浮かべています。書はそもそも線の動きが命です。そのことから、生徒が自分で書いた字が朱を入れて訂正されたのを見ても、生徒はいい字をかける様にはならないのです。形にこだわると書の本質から外れます。「うめ子先生」が半紙に字を書くとき、力の入れ具合、抜き具合、筆運びの速度などを生徒は目の当たりにするわけです。それこそが時の生まれる瞬間で書道の本質です。そうして初めて字を書くことが伝わってくるのです。それを肌で感じることで字を書くことの喜びへと導かれるのです。
線は頭でまとめようとするとつまらないものになってしまいます。いわゆる優等生の字はつまらないです。綺麗にまとまっていたりするものですが、後にも先にもそれだけで味気のないものです。そこには上手く書こうという媚があり、線のことが少しわかってくると醜いものです。また衝動的に書かれた線というのも本人の自己満足に過ぎないのではたから見ると退屈なものです。
そうすると活き活きした線というのは知性と衝動の混ざった感情と関わりがあるものという言い方ができるのかもしれません。あるいは線を引くことで感情か引き出されてくるといってもいいのかもしれません。
感情というのは言葉にしにくいものですが、私は無と深く関わっているものだと思っています。のびのびと屈託無く書かれている線、無の境地で書かれた線は見ていて気持ちがよく、そうして生まれた線はワクワクしながら追っているものです。
2019年3月23日
以前に書いたブログに、正確には六年前のブログです、毎日のようにロシア語で解除しろというコメントが入るので、それを解除して、ここに新たに別のタイトルにして載せます。
その時のブログの内容です
勝手な想像ですが、庭という言葉が俄(にわか)からきている、そんな気がしました。文字にしてしまうと別のことですが、音として聞けば近いものに聞こえます。言葉はそもそも音の方が先で、音の意味の方が本質であることが多いもので、俄と庭はブロクで遊べると思ったのです。
庭というのはもしかすると俄自然という意味かもしれないのです。
俄はあまり使わないのでここで確認しておくと、俄雨というのが一番知られている使い方です。
突然降り出した雨とか、本降りにならない通り雨のような雨のことを言います。
もう一つよく耳にするのは俄芝居と言う言い方です。俄狂言の方が歴史的な言い方です。素人のやる芝居やる芝居のような感じがしますが、必ずしもそうではなく、俄芝居を本職にする役者もいるので、何が本当の俄芝居かと言うのは定義し兼ねます。普通の芝居とは舞台づくり、衣装、カツラ、化粧などが少しずれているのが特徴です。
庭というのは本当の自然とはちがうもの、あるいは自然の一部を切り取ったもの、自然らしく仕立てたものかもしれません。
日本の庭の特徴は何かと整理していて「時間の流れ」が表現されているように感じたのです。庭にはヴィジアルな景色としての俄自然と時間的に俄時間が表現されているのだということです。
自然の中を流れている時間は悠久です。自然を見て悠久を感じるのは、私たちが自然を見たときに時間を感じているということです。何年、何百年どこではなく、何千年、何万年、何百万年という、現実には体験できない時間を生きながらにして表現しているのです。何百万年もかかる水晶の結晶も実際には体験できない時間を経て私たちの目の前にあるのです。形になった悠久なのかもしれません。
そんな目も眩むような時間を日本の庭は真似ようとしているのかもしれないと考えたのです。そう考えると庭がとてもいとおしく感じられるのです。
日本の庭のことをドイツ語で書くにあたって、ドイツ人が書いた日本の庭に関するものを読んでみましたが、期待はずれでした。
造形的なものの説明、歴史的な位置付け、庭のひろさなといった極めて物質的な(表面的な)視点から眺めているだけだったからです。アンバランスの美などは情熱をこめて語りますが、庭という形の向こうにあるものには目がゆかないのです。
ドイツにも日本庭園と銘打った庭があります。しかしそれらも形は日本で、鉄の柵の代わりに竹の柵がしてあったり、植えてある気が日本でという表面的なもので終始しています。そこで写真を撮ればまるで日本に来たようなものになるのでしょうが、庭にいても日本の庭にいるという実感は湧いてこないものです。もし彼らが日本の庭に生きている時間への思いを少しでも理解していれば、別のものになったのではないか、そんな風に感じています。
二千十三年五月三十日に発表したブロクでした。
仲正雄
2019年1月30日
性は外と内に向かう強い力です。
とはいえ、それがはっきりと私たちを捉えるのは思春期に入ってからで、その時、性はまず激しい欲求を持った性欲として一気に花開きます。バックアップしているのは肉体的な性の分離で、男子の場合、自分にないものを相手の女子が持っていることが気になって仕方なく、女性の美しいヌードポスターを漁ったりして欲望を満たし、女子は男子の気を引くために目立つようなものを着たり派手なものを身につけたりするようになりと、お互いに異性ヘ関心が急速に芽生えます。異性はある日突然と言っていいほどの勢いで暗闇の中から現れ眩しい光を放ち目をくらませます。
男の子にも女の子にも恋心が芽生え好きな人が現れます。あるいは一人の異性をわけもなく好きになってしまい、周囲から冷やかされたりして初恋の喜びに浸ります。わけのわからない恋心が先か具体的な一人が先かは鶏と卵でどちらが先かは人それぞれですが、いずれにしろ肉体的な接触への憧れへと進展し、だんだん露骨になって結ばれることを夢見るまで発展します。初めは手が触れるだけでも電気が走るほどですが、性欲は前に向かって突き進みます。
どんな人を好きになるのかは、蓼食う虫も好き好きですから法則や決まりなどはなく、「お前あんなのが好きなのかよ」「あんなののどこがいいの」と他人から見れば全く理解できないカップルが生まれるのですがそれでいいのです。恋心が純粋なほど周囲から見れば不可解なものです。
思春期の恋愛はこの時期の一番大切な仕事と呼びたいほどです。この時期に受験勉強と称して勉強に明け暮れしていては人間としての成長に大きなダメージがあり、成人してからの人間形成、人格形成に支障をきたす原因となるように思えてなりません。思春期にぜひ好きな人に思いっきり思いを寄せ恋心を燃やしてほしいものです。それは単に性欲に振り回されているのとは違い性欲が精神化したものなのです。
恋に燃え尽きてしまうほどの恋愛から何かを期待しても無駄です。カスも残らないくらい燃えてしまえば跡形もないのです。ところがそれははっきりと個の確立、自分の誕生につながるプロセスで、「誰がなんと言おうと、一人の人を好きになった」という経験は自分に対しての自信を生むものです。相思相愛の恋は珍しいもので、片思いに終わったり、振られることの方が普通ですが、その時の痛みもバネになって次の成長につながるものです。
片思いというのは何も恋愛にだけ起こるものではなく、人生のいろいろな状況で、自分だけの思い込みというのはしょっちゅうあって、こちらの気持ちが相手に届かない時の虚しさは年齢を重ねても辛いものですが、若い時に経験しておく方が立ち直りが早く、その後の人生でも視野を広げてくれるものです。
性欲によって生じる恋心、そこで繰り広げられる恋愛は私たちを内面化する、私たちの内面の世界に気づかせる貴重な経験で、内面化してゆく中で個、自分の誕生のために大きな力となるものだといいたいのです。そこで生まれる個、自分は、特に挫折を伴っている場合は、たくましいもので、孤独になっても孤立することのないしなやかな個、自分の様に思えてなりません。
性はいつの時代もビジネス化され商売のターゲットになったもので、今日も変わりなく商品化されて売り物になっています。にも関わらず性は人間に備わった頼もしい味方なのです。そのことは忘れてはならないことだと思います。人間には性があるから育つものがあるのだということです。それはきっといつの時代にも当てはまる性の魔法からの妙薬によって作り出されている摩訶不思議なもののようです。