筆跡と書
もう三十年ほど前のこと、私がハンブルクにいた時に、頼まれて日本から招かれていた書家の方のデモンストレーションの通訳をしました。
ある日曜日の朝に知り合いから電話がかかってきたのです。その日の夜に行われるデモンストレーションの通訳をしてほしいということでしたから準備をする時間はなくぶっつけ本番での通訳でした。
できればその方と自然に少しでも打ち合わせができればと思っていたのですが、その方が時間ギリギリに到着されたことで、それすらもができずに本番に向かったのです。
その方は初めに道具である、筆のこと、墨のこと、紙のことを説明されました。この三つを熟知して初めて書が生まれるという内容でした。花を聴きながらそれを通訳しているのですが、通訳の間に大変勉強になったのでした。いかに墨が筆に馴染むか、そしてそれがさらに紙の中に染み込んでゆくのかは、経験的に学ぶべきものなのだそうです。そのために練習を重ねるということでした。
しかし書として書く時点ではそれらは全て忘れられているのだそうです。それ以上に心の中に生まれている動きを感じることに専念するということでした。もう試遊時のレベルではないのだとその時思いながら通訳していました。
そしていざ筆を手にして、硯にたっぷりの墨を筆に含ませ、一気に紙に向かってゆきました。何かを書いているという印象ではなく、無心に動いているというもので、ほとんど一瞬のうちに一つ書き終えました。書いた後で「心の動きをそのまま紙に移しました」と言葉にされていました。直感とかイメージという言い方を連発されていたようでした。
参加されていた人は全員ドイツ人でしたから、初めて目にする書家の筆さばきは意外なものだったようで、いくつかの質問がすぐに出て、書家の方もそれに応えていました。ドイツの人の目には書が出来上がるのが早すぎるようでした。書家はそのことに対して、習字ではないし、ヨーロッパのカリグラフィーとも違うと強調していました。その方によるとカリグラフィーは形を描くけれど、書は動きが主体だということでした。
筆という筆記道具はペンで書くカリグラフィーとは別の可能性を持っていて、筆の持つしなやかさは心の動きを移すのにはとても適しているということでした。
私としては、ペンで書いていてもやはりそこには動きの形跡が残り、それが活字とは違う筆跡を作っていると考えていますから、結局文字を書くということの基本は動きだと言いたいのですが、その時私は通訳者でしたから、自分の感想を述べる立場になく、いろいろな人たちの質問と、それに答える書家の言葉を一生懸命通訳していました。書という特殊な状況で使われる言葉は通訳しにくく、結構苦戦していた記憶があります。書家の先生にとっては何でもない普通のことが、ドイツの人たちには全く前提されていないのが、通訳していて歯がゆいところでした。筆のうごきを溜めるとか、力を抜くというタイミングがなかなか共有できませんでした。力を抜くには緊張が必要などいうのはドイツ的には矛盾しているように聞こえるものなのです。
会が終わってみんなで食事に行ったと、通訳の役から一旦は下方されて、初めて自分で感じたことを書家に伝えられたので、先ほどのペンと筆のちがいと、筆跡のこと、形と動きのことを聞いてみましたが、焦点が合わず、私と書家の歯車が噛み合わない話になってしまいましたので、深入りするのはやめました。ただ書家が筆跡をどのように考えているかだけは聞いておきたかったといまにして悔やまれるのです。
筆跡は筆記体で書く時に一層はっきりしてくるのですが、最近のドイツの学校では活字体で書くことしか教えられていないので、筆記体で書ける人がいなくなっています。とても残念なことだと思っていますから、ことあることに筆記体をすすめています。しかし学校で教えられていないというのは致命的です。
筆跡は上手い下手という以上に味わいがあります。書いた人が彷彿としてきます。何が筆跡を作っているのかと考えるのですが、所謂無意識の産物なのかもしれません。字を書いている時というのは、ペンにしろ筆にしろ、ちょっとだけ書家になっているのではないかと思います。