デラーの歌とシューベルト

2012年12月3日

以前にデラーとシューベルトのことは書いていますが今日もまた書きます。この二人のことは私の人生の中で繰り返し出て来るものだと思いますから、よろしくお付き合いください。

 

シューベルトの歌の最大の魅力はなにかというと、「この歌は以前に聞いたことがある」と言う感覚に襲われることです。これは魅力という言い方で済まされるかどうかわからない程のものだと思います。マジックに満ちています。それはマジックそのものかもしれないと言えるほどのものです。ただそのマジックは仰々しくなくてさらりとしたマジックです。

どうしてシューベルトにあの高みが実現できたのか、今までにも機会あるごとに考えてみたのですが、今でも確かな答を得るには至っていません。ドイツ人ならともかく、いや、ヨーロッパの文化圏の人ならともかく、日本人が聞いてもシューベルトの音楽にはさっき言ったように、「いつか、どこかで聞いたことがある」と言う感覚を持つのですから、ただ事ではないと言わざるを得ません。

 

シューベルトの音楽から一番遠いいのが「凄み」です。全然「凄くない」のです。シューベルトの人柄そのものも、残された物などを読んでみると平凡という言葉が一番似合う人の様です。どの音楽を聞いても至って平凡ですが、その平凡に飽きることがないのです。これって凄いと思いませんか。講演の中でよく持ち出す家庭料理の様なものですよ。

家庭料理というのはグルメ料理の様な凄さもハッタリもないものです。平凡を極めています。しかしこの料理を人間は毎日食べているのです。いままでも、そしてこれからもです。そしてこの料理が人間を肉体的にだけでなく精神的にも支えているのです。

 

シューベルトの音楽を芸術という物としてとらえることを躊躇したくなることがあります。特に芸術という言い方で特別扱いする必要がない様な気がするのです。シューベルトの音楽の持つ自然さを考えると、本当に家庭料理に通じるものを感じます。そしてそう言う、一見平凡に見えるものこそが人間を深いところで支えているものだと思うのです。一番深いところでです。

家庭料理はグルメ料理とは次元が違う様に、シューベルトの歌というのは芸術作品というものとは次元を異にしたところで存在している様な気がするのです。これから本腰を入れてシューベルトの歌に夜CD作りの準備に入ります。どの様に演奏したらいいのかと迷うことがしばしばあります。そんな時、いつも答をだしてくれるのがアルフレット・デラーです。彼の歌を聞いていると、自分がやりたいことが見えて来ます。彼の様にライアーで歌えば、ライアーでシューベルトを弾く意味がある様な気がするのです。

その試みは四枚目のCD「光のなみだ」の一番はじめのダウランドの曲で試みてみましたから興味あるかたは聞いてみてください。

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