雪の不思議
一昨日は積もるほど沢山の雪が降りました。結構ボタゆきでしたがやはり積もると雪の存在感があります。夜になって本格的に降り始め、三時間ほどで五センチ以上になり真夜中の十二時頃には十センチを超えるほどになっていて、しかも月も出ていないのに明るいのが不思議で、写真を撮ってもようとスマホで撮ってみたのですが、昼間の撮影ほどではないですが、しっかりと写っているのに驚きました。
昔花巻に住む檜山夫妻を尋ねたときにやはり大雪で、夜の散歩をしたのですが、真っ暗なのに白い雪がちゃんと見えるのは新鮮でした。スイスでも真夜中に雪道を歩いたことがありますが、その時にも雪から光が出ているのではないかと思うくらい周りの景色がはっきり見えたのです。
太陽がでいるときに積もった雪をみていると、白だけではなく青っぽかったり、薄紫のような色が混ざっているのを初めてみた時には感動したものです。昼の太陽に照らされた輝く様な雪と、夜中の静かな不思議な雪が同じ雪だとは信じ難いものです。
以前に札幌の友人から「雪は天から送られた手紙である」という言葉を残された、雪の結晶の研究で世界的に有名な中谷宇吉郎博士の随筆を教えていただいて読んだ時に、大変感動したのを思い出していました。雪をほとんど知らない東京生まれの私はどこを読んでも目から鱗の体験で、雪が天からの手紙という発想は最初は想像を超えたもので実感が湧かなかったのですが、雪との楽しい出会いを重ねるごとにその言葉の意味している深みを共感できる様になりました。
雪に覆われた世界は風景を別物に豹変させます。みたくないものが隠されるようなところもありますし、ブルガリア生まれのクリストの、なんでもかんでも包帯の様なものでぐるぐる巻きして包み込んでしまったアーティストの仕事を思い出します。バリの凱旋門を包帯の様なものでぐるぐる巻きにして、いつもみているものがある日突然大掛かりな包帯に隠されてしまって、しばらくして再び本来の姿を表したときの新鮮さ。包帯で覆われたことでいつもみているものを忘れるというのに似た状態に置かれるのでしょう。
お正月のお節料理を入れる重箱や、お屠蘇の一式、桃の節句の時の雛人形たち、端午の節句の兜、鬼灯(ほおづき)祭りの時の七夕、重陽の節句の時の菊人形などは、一年に一回姿を表し、私のたちの目の前に置かれるのです。一年ぶりに目にするそうしたものたちとの新鮮な出会いは、子どもの時は強烈なもので、お祭りの時の準備の時の楽しみでした。かつては虫除けに使っていたナフタリンの匂いが新聞に包まれたお人形と対になっていました。もしそうしたものが床の間の様な場所に一年中置かれていたら、色褪せ血ものになってしまい、一年に一度のあの審美的な出会いはないことになってしまうだけでなく、そうした人形からの印象も薄れてしまいます。
一昨日の突然の大雪は今回いろいろなことを考えさせてくれるきっかけになりました。
いつも不思議に思うのは、あれだけ積もった雪は必ず消えて行ってしまうのです。本当に一時だけの短い命です。それを手紙と喩えた中谷博士の感性に敬意を表したくなります。






