AIは怖くない

2026年10月13日

AIが進んだと自負する国などは、AIが生身の先生に代わって授業することが進歩の証と考えている向きもある様です。その国の人たちは、人間がやっていることのどれだけがAIに移行しているかで、国の優劣を決めていたりするのです。私にはとんでもないことです。ところがそこに警鐘を鳴らし、コンピューターの過剰な教育界への進出に歯止めをかけている国もあります。

AIが必要とされるところは、基本的には合理化という考えが主流になっているところです。
人間は、特にホモサピエンスの人種は便利さという幻想を追い求めてきました。そのために多種多様な機械が発明されたわけですが、コンピュータもその一つであるには違いないのです。ところが、今までの機械は肉体的な負担を軽減するということでしたが、AIまで来たところで、肉体というよりは知的活動に合理化の波が入り込んできて、まず記憶の分野でAIは大活躍をしています。場合によっては津波状態で、想像を絶する膨大な記憶がAIに取り込まれて、今までの経験からの知識が集大成されていて、何にでも答えてくれるという便利な世の中になったと考える人もいます。確かに便利は便利です。
最近は絵を描いたり、音楽を作ったり、文章を書いてお話を作ったりする様になったため、そうした作品が世の中に出回っています。作曲などはこちらから希望を入力すると、十秒足らずで作品が出来上がってくるそうです。

AI依存度などいうことが言えるのかどうかわかりませんが、おそらく数字では示しにくいものだと思うので、わかりませんが、想像するに意外と低いのではないかという気がします。進んでいるところは進んでいるのでしょうが、私が理由として挙げたいのは、日本はまだ職人の技が評価されているからで、AIにとって一番高いハードルが人間が手を使ってやっていることをロボットに移行させることだからです。しかしそれも時間の問題に過ぎないのかもしれません。それを考えると、社会に蔓延している、AIが人間を超える日が来るといった恐怖感も理解できます。

人間の進化の過程は、さまざまな能力を外に排出してきたとシュタイナーは考えています。したがって、今人間の中に残っている能力はわずかで、最後の砦だった知的能力が今脅かされて、コンピューターに全てを持って行かれてしまうのではないかと危惧しているわけですが、最後は合理的なものを全部吐き出してしまい、人間の中には非合理的なものだけが残るのではないかとも考えられます。

世界中が、走れ走れとジョキングが大流行りで、ドイツのメディアでも日本を取り上げて、皇居の周りを走る人たちの姿を報告しています。当のドイツでも、ご自慢のドイツの森はジョキングをする人たちで溢れています。しかしいつの日かAIが走れ走れとジョキングを始めるかというと、そんなことはないのです。ジョキングは本当の意味で、人間の最後の砦と言える貴重なものなのです。
一日中コンピューターのディスプレイと睨めっこをして、退社後家に帰り夕食前に一走りという感じで車で近くの森に行き、スタートします。大抵小一時間は走っている様です。二十年くらい前からジョキング族が目立ち始めた様な気がします。ジョキングの流行が始まった当時はまだ自分の健康管理の意識の高い人たちがジョキングをしていたのですが、今は猫も杓子もという感じで、国民総ジョキング化といった勢いです。その裏にあるのは国民総コンピューター化があります。
AIというのを、人間はAIを作ったことで、さらに「人間的な、あまりに人間的なところ」が浮き彫りになったと考えてはどうでしょうか。AIが先生になるのではなく、生身の先生と一緒に、AIにできないことは何かを考えるというのはいかがなものでしょう。
恐ろしいのはAIではなく、人間が合理化に走り過ぎてしまったことが恐ろしいのです。

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