母親からの贈り物

2026年10月15日

タイトルのようなな言い方をすると、最近はすぐにめくじらを立てる人が多くて、会話が進まないことがあります。昔はお母さんが我が子のセーターを編んだり、ゴムの簡単なスボンなどを作って着せていたものでした。しかも私が小さい頃は日本はまだ貧しかったので、お母さんのミシンで継ぎはぎされたスボンは当たり前でした。ところが高度成長という時代の流れの中で様子が変わって行きました。基本的にはだんだん作らなくなっていったということです。洋服の生地を買って型紙を取ってミシンをかけて作るより買った方が安いし時間が取られずに済むという現実も大きく影響していたと思います。子どももだんだん贅沢になって、お母さんが作ってくれたものよりも、見栄え良く綺麗に仕上がっているズボンの方を喜ぶ様になっていきました。

ドイツに限らず、シュタイナー教育の中にいると物作りが大きなテーマです。しかもドイツという国はそもそもはものつくりを大切にしてきた国で、マイスター制度は今でも残っているのですが、ユーローという共同体組織によってドイツだけのマイスター制度を維持することの意味が薄れつつあります。しかもここに来て産業界に何万という単位の失業者を生み出してしまい、産業(大きな意味での物作り)の勢いに翳りが見えてきて、若い人たちが職業訓練を受ける場所すら失われつつあるのが現実で、物作りの精神を誇りに思いつつ、安いものが売れるという経済の仕組みの波に飲み込まれてしまっています。

物作りは衰退の一途を辿っています。逆にものを作らなくなった時代だからこそ、少なくとも教育の場でものを作ることの意味を教えることは大切になってきているのではないかと思っています。
特に私に取っての大きな問題は、理解とか認識ということで、そのことを考えるとき、対象になっている物や人とどの様に向き合うかは、物作りに大きく依存しているものだと考えています。頭だけの理解で片付けられるものではないのです。向き合っているものと深く出会うにはそのものの中に入って行く事が大きな助けになるものです。そこにものの意味が隠れているからです。ものと一つになるという体験から、物事に深く入り込み理解力が深まります。ただ知識だけで理解しているのとは雲泥の差があるのです。また一日だけの体験学習というよなものではなく、長い時間をかけてコツコツとものを作って行くことで初めてわかるものがあるのです。想像力というのはそこで培われるものの様です。

神話の世界を見ると、神様が人間を作る話があったり、国造りが行われたりと、人類の原点には「つくる」ことだと言わんばかりです。未来を考えると、作ることはロボットに任せておけばいいと考えるのか、人間はものを作ることが本来の姿たど物作りを大切にするのか、その辺は一度立ち止まって考えてみたいところです。
合理的というのは現代社会のお題目です。便利ということもそれを支えています。何もかもがどんどん便利になってゆくのが私が子どもの頃に感じたことでした。その頃は洗濯機、冷蔵庫そしてテレビが便利の三種の神器でした。今は便利がますます助長している様に感じるのですが、この先さらに便利になったら一体全体どんな社会になるのでしょうか。ロボットたちが生産に勤しみ、そこで生み出されるお金で人間はベイシックカムと言うシステムにより、生活費が配給されて、何もしないで、本を読んだり、テレビを見たり散歩に出かけたりということで済む様になるのでしょうか。それがいい人生だと言えるのでしょうか。
実は便利には危険な落とし穴が隠れています。便利とともに人間の中には退化してゆくものがあるからです。退化したものは人間から離れて行き、戻ってくることはないのです。

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