世界の中の日本文学
英語圏での今の日本の小説ブームは目を見張るものがあります。かつての日本文学は海外の文学、しかも極東の文学という範疇で扱われていました。エキゾチックな後味と言ってもいいのかもしれません。それが、とっくに特殊な文学という範疇を超えて、英語の一般の本と同じように店頭に置かれ横ずみされ売られているのです。女性の作品がその中でも人気がある様です。
ドイツ語でも英語ほどてはないですが翻訳がなされて書店にならび初めています。
私はたくさんを読んではいませんが、題材をはじめ、文章のタッチ、話の持って行き方などは独特の軽さがあるものと感じています。そこから感じるのは、日本の小説が売れているのではなく、日本語だからうまく表現できる何かが今注目を浴びているのです。今言いました軽さは西洋が苦手にしているところでもあります。ドイツなどはどっしり重厚な感じのものが文学であり、思想を持った文学だったのです。
日本は旅行地として好まれていて、世界で有数の観光地になっていますが、そうした日本ブームがあってそれに便乗して小説が売れているわけではないのです。観光名所は見て通り過ぎてしまいますが、現代の小説ブームは日本の感性からしか扱えないものがあるということで、観光とは違う深さを持った文化の体験なのです。
今までは思想的な重い小説が主流だったのですが、日本語から生まれる軽さに救いを求めているのかもしれません。今の混沌とした社会状況の中で精神的オアシスの様な役割を演じていると言えそうです。
その日本語独特のニュアンスがうまく翻訳されるようになっているということも大きな要因です。翻訳にはさまざまな層があり、機械の説明書などの翻訳は比較的優しいものですが、文学や哲学は言葉の意味だけでなく文化的背景が理解されていないと、正しいけれど正しくない薬になってしまいます。
川端康成が1968年に日本で初めてノーベル文学賞を受賞したときに、伊藤整、三島由紀夫と、川端康成の鎌倉の自宅で緊急の受賞対談が行われて、三人が思いのままを語り合っていたのですが、そこで川端康成が、「選考委員会は日本語で読んで決めたわけではなく、英語に翻訳されたものを読んでいるので、今回のノーベル賞の半分は翻訳者にもあげなければならないのではないか」とポロッと言っていました。自分の文章を愛すればこその発言だったと思います。今はさらに翻訳の質が向上していると言うことです。日本文化のみならず、異文化を伝えるというのは非常に難しいことですから、そこで大役を担っている翻訳がもっと評価されていい様な気がします。ノーベル翻訳賞なるものがあって然るべきなのではないかと思っています。
文化というのは想像を絶する大きな力を持ったものです。私たちは知らず知らずのうちに文化に支えられている存在なのです。精神的な面はもちろんですが、食文化、衣類の文化などは具体的な日常生活で、そこでも文化と言う習慣に支えられているのです。私も二つの文化の間に挟まれて生きていますから、翻訳者たちの苦労は身に染みてわかるのです。語学を勉強すれば翻訳なんかすぐにできると考えている人がいたら、大きな声で「そんな生やさしいことではないのです」と言いたいです。バイリンガルは翻訳が苦手です。
夏目漱石の「I love you」の訳については先日お話ししましたが、2001年のアメリカの貿易センターの事件があったときに、ビルに居て異変に気づいた人たちが最後の言葉として、奥さんや、旦那さんや家族の人たちに電話で全員が「I love you」と言っていました。日本語の「ありがとう」「さようなら」「また会おう」というのも立派な「I love you」の訳だと思いました。日本の生活習慣の中で言えば「お茶が入りましたよ」「ご飯ですよ」などもI love youの意味を内在しているのではないかと思います。
こうした高いハードルを乗り越えて、文学の文章を翻訳する時、翻訳をしている人たちは、必ずや一度や二度は、異文化と言う途轍もない、まるで津波のようなエネルギーに飲み込まれているのではないかと想像します。そんな中で繊細な文学的感性が二つの文化の間を繋いてくれていると考えると、おざなりの文化交流などとは違った深さで文化をつなぎ合わせている翻訳家の方達には脱帽です。






