2025年4月27日
意識と無意識、潜在意識と分けて心を見るのはあながち悪くないと考えているのですが、そもそも何がそのようにさせるのかと考えることがあります。どこから意識というものを持ってきたのかがわからなくなってしまうのです。意識なんてものは便宜上作られているものではないかと思ったりもしてしまいます。あるいは西洋的な癖で二つのものを並べたがるので心のあり方を意識と無意識、あるいは潜在意識と名づけているのかもしれません。心理学というのはそうすることでスッキリするのかもしれません。
意識というものは科学が今日のように進んでも、未だ解決の糸口すら見つからないもののようです。本当にあるものならとっくに見つかっていいはずだから、もしかしたら考えて作り出した架空のもので現実にはないから見つからないのではないかと思ってしまうのです。ただ私の世代はこの意識と無意識、あるいは潜在意識と言う構図を頭っから信じるように教育されているので、ほとんど無条件に、前提条件のような扱いを受けています。そしていつしか意識というのがあるかのように洗脳されてしまっています。しかしいつまて立っても説明が見つからないのは不思議です。そもそもそんなものはないから見つからないのではないか、といつの頃からか考えるようになっていて、そうなると案外楽なもので、意識というものに固執せず意識から離れてゆけます。
意識と無意識、潜在意識の比率はどのくらいかというのは人によってずいぶん違うようです。意識は氷山の一角という人もいれば、三分の一が意識で残りが無意識という人もいるようですが、私は0.1パーセントがとりあえずは意識と呼べるもので、残りは潜在意識だと思っています。つまり心というのは潜在意識の塊だと考えています。
ドイツ語では意識のことをBewußtseinと言います。実はこの意識は知っていること、認識していることと言う意味合いの強いものなのです。自覚していると言うふうにも言えそうで、そうなると自意識のようなものとつながってしまいます。自意識というのは極論すると意識過剰な状態ですから、意識というのは、自分で自分はこうだというふうに思い込んでいるだけのものと言うことになりそうです。つまり思い込みです。自分で自分を決めてそれを意識としてしまうのは主観に偏りすぎていて驕った感じがします。意識というのは自分で意識とすればそれが意識になってしまうそういう世界なのかもしれません。それでは科学が見つけられないのも当然です。
私は意識は直感と同質のものではないかと考えるのです。直感というのは、思考とは違って、根拠や前提や証明という手続きをとることなく存在しているものです。直感はほんの一瞬でわかってしまうという不思議な出来事ですから、本人にしてもいつどのようにしてそうなったのかは説明がつかないものです。説明できないからと言ってそんなものはなかったのだということにはならなくて、芸術家が直感に導かれて描いてもその作品はは残っていますし、科学者が直感で見つけた法則なども後世に役立っていたりしています。ただその瞬間のことが説明できないだけなのです。一瞬にして消えてしまうからです。でもそれは実際に起こったことなのです。意識のようによくわからないというよりは直感はずっと現実的で具体的です。
意識がどこにどのようにあるのかがわからないように、直感もどのようにして生まれるのかはわかっていません。しかし直感は何もないところからは生まれないものです。数学の素養のない人に数学の方程式が直感で現れることなどないのです。ただ宗教的な世界では突如として素養など全くないところに天からとんでもないことが降りて来るようです。例えば大本教の始まりは出口なおという文盲の女性のところに霊的な世界から伝言が降りてきて、字も書けない出口なおという体を使って書かせ、それが聖典となったのです。直感以上の霊感、霊覚というものです。
意識の究明は、直感の究明とは違うものなのかもしれませんが、どちらも潜在意識の中から湧いてくるものであることだけは共通しているようです。ということは潜在意識の世界も直感の実態も想像を絶するもので、ある意味では人間業を超えた壮大な世界ですから、そこに足を踏み入れた途端に訳のわからない世界を目の前にすることになりそうです。
いずれにしろ意識は、今の学問の形が続く限りずっと謎であり続けるに違いありません。あるいは直感がある日突然意識を解明するかもしれません。
2025年4月17日
Toutubeは最近どんどんとAIの作った声に変わりつつあります。古い人間からすると人工的な声という括りになります。ずいぶん改良されているのでしょうが、いまだに聞いていてイライラしてしまいます。表情付けを試みているところなどは進化の証なのでしょうが、それがかえって不自然極まりないものになる原因でもあります。歌に例えれば音を外し歌う音痴と言ったところです。AIナレーションは声の質的な問題ばかりでなく、漢字の間違った読み方が多いのも気になるところですが、この問題はいつかまた扱いたいと思います。
本当のことを言っているかかどうか、私は声を聞けばわかります。声は単なる音ではなくそこには心や魂が生きていているからで、音声は心、魂そのものの映し絵とも言えるものです。話芸を楽しむとき、語り手の喋り方以前に声の質を楽しみます。そこが一番心に響くものだからで、そこに焦点が合わせられないと、聞く気にはなりません。落語や講談物は所詮作り話ですが、そこには不思議と臨場感がある話とそうでない話との間に大きな違いがあります。話の内容は嘘かもしれませんが、伝え方によっては真実に聞こえるものになるのです。それを話術と言うのでしょうが、そこに声が大きく加担していることは否めません。声は嘘をつかないので、話が嘘でも声によって本当に変わることができるのです。
友人に誘われて講演会に足を運ぶことがありますが、そこでもどんな声で喋る人なのかによって、講演に入り込めるかどうかが決まります。声が気に入らないと、話に身が入らないのです。ある時は「こんな声じゃ所詮大したことは言えない」と、はじめっから上の空で聞いてしまいました。もちろん途中でウトウトとしてしまいました。
このような観点からするとAIナレーションはまだまだ声の段階には達ていなくて、冷たい言い方をすればまだまだ幼稚な声と言えます。AIの声をプロクラムしているエンジニアの方達はそれなりの研究を重ねているのでしょうが、声に関してはまだまだ人間の声とは程遠い従兄弟ろにあると言わざるを得ないようです。
ではどうすればいいのかということになりますが、呼吸のことをもっと研究する必要を感じています。声は呼吸そのものです。そして呼吸は心、魂そのものなので、三段論法的に、声には自ずと心、魂が宿ることになるのです。声の響きには深い呼吸が欠かせない要因ですから、音としての声というアプローチからだけでは、いつまでも人工的な声にとどまってしまい聞きやすい人間の声に近づくことはできないと思います。出しゃばって言わせていただくと、AIに深呼吸をさせてみてはいかがでしょうか。その時の息の流れの中から声が生まれるのであれば、人間の声にちかくなります。声帯というのは随意筋の中で一番繊細な動きをするところです。その繊細なところを空気が通ります。声帯が震えるのです。その過程で声に欠かせない翳が生まれます。この翳は魅力のある声の持ち主には必ず聞かれるもので、逆につまらない声の人からは聞き取ることができない物です。影がないと薄っぺらな声になります。
AIの世界というのは、絵画の世界にあっても、私の素人判断でいうと、必要なものだけが描かれているようです。テーマ、あるいはモチーフとなっているものに焦点があわせられるのでしょう、それはよく描けているのですが、それだけで絵は出来上がっているのではなく、それ以外のものとの調和のようなものが必要になってきます。つまらないものと言いましたが、直接モチーフとは関係のないものという意味です。
例えば講演でもテーマを話すだけだと全くつまらないものになってしまいます。15分もあれば済んでしまうところを、雑学というのか、先ほどのつまらないことを織り交ぜながら引き伸ばすことで、言いたいことに膨らみが生まれるのですから、声にもそういう要素が加味されてくると聞きやすい心地のいい声になるのではないかと思います。
2025年4月14日
フリッツ・ヴンダーリッヒというドイツのテノールで興味深い経験をしました。彼は不慮の事故で35歳という若さで亡くなったドイツのテノールです。おそらくドイツのテノールの中で今でも人気があり、彼の命日にはラジオでは必ず追悼の番組が組まれています。
シューベルトの「水車小屋の娘」という歌曲集を二回録音しています。一回目は28歳の時、もう一つは亡くなる年の35歳の時です。彼は不慮の事故で35歳で亡くなっていますから、二回目の録音が最後の録音ということになります。
28歳の時の録音は若いテールの声がみずみずしく何度も聞きました。35歳のものに比べると歌手としてようやく一人前になって初めて録音の機会を得たものですから、専門的に比べると色々な面で見劣りするのでしょうが、魅力あふれる録音なのです。
歌心というのは持って生まれたものなので、練習して上手になるものではないと思っています。歌心という点で比べると、一番目の録音の素直さとみずみずしさとは格別で、7年後の録音にはない初々しさがあって聞いていると直接訴えかけてきます。
専門家の批評とは別で、私にはまさにそこが彼の歌心がはっきりと垣間見られるところに魅力を感じているのです。35歳の時の歌は表情付けなどの擬出的な部分は聞き所があるのでしょうが、歌そのものが上手になったかどうかは別の話です。二つの録音のもう一つの違いは声の質です。二回目の録音の時は声の質が7年前の瑞々しさを失っていて、声にざらつきのような荒さが感じてしまうのです。きっと本人もそのことは気づいていたのだと思います。それを歌唱力というテクニックでカバーしようとしているようなのです。それを一般には歌唱力に関して成熟したとかいうのでしょうが、私は首を傾げてしまいます。進化というよりもむしろ退化しているように聞こえるのです。この7年間に彼は世界中を飛び回り、世界中のオペラハウスで歌い続けていたのです。それは歌手としての名声には大きく貢献したのでしょうが、声にとっては過酷だったに違いないのです。声はみずみずしさを失っていました。そして生来の歌心よりも見栄えのする歌唱力で張り上げるように歌ってしまうのです。
同じことはスウェーデンの歌手、ユーシー・ビヨグリングの場合にも感じています。28歳の時に歌った歌を53歳の時に歌っているのが録音で残っていますが、53歳の敵の録音では往年のみずみずしさがすっかり失せて、乾いた声が張り上げて歌っている姿は哀れに思えてならないのです。ベートーヴェンの「アデライデ」を歌っているですが28歳の時の天に向かって羽ばたいてゆく初々しい声と歌心は53歳の時の歌には聞く影もないのです。彼も歌いすぎたのです。世紀の美声と言われたので、世界中からオファーがあったのでしょう。でも結果的には歌いすぎたのだと思います。歌は歌えば歌うほど上手くなるとは限らないのです。
初心ということを芸の世界では言いますが、この二人の素晴らしい歌手があるところで初心に帰らなければと気づいて立ち止まっていたら、末長くみずみずしい歌声が維持できたのではないかと惜しまれてなりません。残念ながら西洋には初心に帰るという考え方はありません。
職人さんの世界では、初心と熟練とは矛盾したものです。修行に入ったら早く仕事を覚えなければなりません。機械のように正確に百個のお茶本を作ったらいつも同じものができ出来なければならないのです。しかしそれがいつしかマンネリになってしまうという繊細な世界です。そんな時に初心を思い出して奮起できるかどうかは、その先の仕事ぶりに大きく影響するものだと思います。
初心と熟練の間を行き来できるなんて、職人の世界というのは実は哲学によって支えられていると思わざるを得ません。仕事という具体的なものを通してそれを体験できるなんて幸せな人生体験です。