2025年3月2日
高校の時にアイネクライネナハトムジークを小さなトランジスターのラジオで、布団に潜りながら聞いてモーツァルトが衝撃的でそれ以来モーツァルトが好きになって、関連したものを読み漁っていました。伝記も当時読めるだけ読んだと思います。
伝記を読むことからわかるのは、モーツァルトの人生の外枠のようなものだと、伝記から見えてくるモーツァルト像に飽きていた時に、友人からカール・バルトのモーツァルトを紹介されて読んで心が洗われ、再びモーツァルトを聞くようになりました。
カール・バルトはプロテスタントのとても有名な神学者で、キリスト教に関心を持った人なら一度はどこかでこの人の名前に出会っているほどの人です。彼は大のモーツァルト好きで有名でもありました。モーツァルトは同じキリスト教でもカトリックの人ですから、プロテスタントとは教義を異にする宗派に属します。その書いたモーツァルトは予想に反して、難しい神学の教義を説教する神学者の姿ではなく、全くの一個人の主観的な吐露でした。「私が死んてまず会いたい人は、カソリックの信者なのですがモーツァルトなのです」。いくつかの伝記を読んだ後だったので彼の言葉は新鮮で、心にスッと入ってきたのです。この言葉は心の琴線に触れたような感じでした。それ以後モーツァルトに関するものは、レクイエムの成立について調べたもの以外読んでいません。
時々カール・バルトの本との出会いのことを思い出すのですが、そこで思うのは主観と客観とのことです。カール・バルトの言葉は吐露で主観そのものです。いわゆる客観的に整理された論文や、伝記とは違います。どちらがいいとは言いたくないのですが、一人の人間が生きた道筋を何時、何処で、誰と会ったというような事実を並べても、その人の人生は見えてこないようだと言うことは、何冊かの伝記を読んで感じていたことでした。モーツァルトを知りたければモーツァルトの音楽を聞くことしかないと思っていた時に、カール・バルトの言葉に出会ったのです。
彼の言葉はプロテスタントの著名な神学者として、モーツァルトはカトリックですから、口にしてはならないことなのかもしれません。そんなことをよそに、モーツァルトへの思いを告白するというのは、勇気がいることにも思われるのです。その言葉に触れた当時そこまで深読みはできていなかったのですが、彼の言葉に、伝記で満たされなかった心が、水を得た魚のように元気になったのです。主観と言うものを、個人の勝手な思い込みとするのは間違っていると確信できるきっかけになった出来事でもあったのです。
語るなら小さく語れ、と言うのも大切にしている言葉です。これからも小さな声のピアニッシモで語り続けたいです。
2025年3月2日
日本語は読むのが難しいと外国語として日本語を学んでいる人たが口々に言います。
コンピューターが読んでいる日本語を聞いていても、日本語を読むことの難しさを実感します。大国主命なんてコンピューターが読んでるのを聞いているだけだと何を言っているのか全くわからないほど頓珍漢です。
難しいのは漢字全体に言えるのですが、特に訓読みと、当て字のような読み方です。ひらがな、カタカナは表音文字なので、あるファーベート的に接しているようでなんら問題はないようです。
文脈の中で読み方が異なってしまうのはもう慣れるしかないものです。日という時は今日、明日、初日、日の出、日進月歩というふうに、何通りにも読み変えなければなりません。
これは日本人にしても難しいことなのですが、日本人は場数をこなしていることで、文脈から読んで、それが習慣になっています。そのため意味を想像する訓練ができているので、かろうじてクリアーしていますが、準備なしで声を足して原稿を読んで間違いなく読み切れる人は特別の訓練を詰んだ人で、相当の場数をこなした人のはずで、一般の日本人ではどこかで突っかかってしまいます。
論理的なことを述べる言語としてそれでいいのかと思うこともありますが、フランス語にもある程度似ている状況があるので報告しておきます。正確でないと言うことに関して日本語に限ったことではなく、言語にはつきもの寛容ととも解釈できます。
フランス語にはdictate書き取りの競技会という珍しいものがあります。誰が参加してもいいのですが、当然ですが我こそはと思う人しか集まらないそうです。言語学者、文筆家、ジャーナリストという文章を書くことが職業の専門家達の間での比べっこです。ここで百点満点を取る人はいないと聞きました。
フランス語は音声と文字表記の間に相当のずれがあることはフランス語を習ったことのある人ならご存知だと思いますが、音で聞いた言葉がどう綴られるかは、微妙な文脈の中で変わることがあるのです。例えば車で有名なルノーというのは何通りかの綴り方があるのです。これは日本語の漢字の読み方の複雑さに共通しています。
日本文化がフランスでことの他人気があるのはこうしたとこに共通点があるからなのではないのでしょうか。曖昧さと寛容とは芸術感性の一つの要素なのかもしれません。
そんな複雑なことは廃止して、もっと簡略化して、誰もが間違わずに綴れるように、また読めるように整理して簡略化したらいいと考える人もいるようですが、未だ実現していません。
フランス語と日本語には難しいことを好む意地悪な習性があるのでしょうか。それともその複雑さはその言葉の特性として誇りに思っているので、今なお続いているのでしょうか。
アラビア語は文字で綴る時、子音だけを文字で表記して母音は暗黙の了解に任せていると聞きますが、これも外国語として学ぶ時には高いハードルになっています。
少し話が飛びますが、俳句を学ドイツの友人と話をしていて、「言葉にしないところが俳句では重要と聞くが、日本人はそのことをどのように理解しているのか」と聞かれました。その時まず思いついたのが、日本神道では他の宗教が持つ教義が成文化されていないということでした。よく言われる「こと挙げせず」という言葉にしないということです。このドイツの俳人は、言葉にしなければわからないではないかと言って自分の主張を貫こうとします。言葉にしていないことはないことだと言わんばかりです。キリスト教の文化の中で育っているので、「初めに言葉ありき」が大前提ですから、全ては言葉になると信じて疑わないのだと思いました。こと挙げせずなどは言い逃れみたいだと言い切ります。もちろん彼の作っている俳句は何を言いたいのかがよくわかる俳句ですが、味気のないつまらないものです。
日本語をもっと学びやすいものにしなければならないというのは、ノーベル賞作家のカズオ。イシグロ氏が「最近の英語の物書きは、英語でしかいえないような特殊な言い方を避けて、他の言葉に翻訳されやすいように、書く傾向がある」と指摘していることにも気腰痛するような気がします。
2025年2月28日
西洋音楽のアンサンブルでは全員揃うのが常識で、そのために息を合わせて演奏します。
そうした音楽作りに慣れている人間が、雅楽に触れた時に何を感じるのでしょう。
二つ考えられます。
一つは間違っている。もう一つはここに未来がある。
極端な反応があるのではないかと想像します。
化学を聞いて音楽体験と言えるものがあるのかどうかも気になります。
雅楽は、楽器を使って演奏するので、音楽です。
しかし聞いている楽曲は今まで聴いて来た音楽のどこにも属さないので、面食らいます。
リズム、テンポ、アンサンブル、全てが全く違った感性に根をもっているものです。
雅楽は極めて特殊な音楽です。
私も雅楽の音楽と相当大人になって向き合ったので、初めはとんでもないものでした。
ただ初めから雅(みやび)な雰囲気だけは伝わっていましたから、アフリカの音楽のような土着性とは別のものと感じていました。
雅楽の後アフリカの音楽を聴くと、この音楽が西洋音楽の出発点になっているかもしれないと思えるのですが、雅楽は全く異次元のもので、西洋音楽とのつながりは感じられませんでした。ここまで西洋音楽と遠くにある音楽はないと思います。
シルクロードを伝わって日本に辿り着いたものなので、そもそもは古代ギリシャの音楽と共通点があるのでしょうが、古代ギリシャの音楽もCDなどで聴く限り、ヨーロッパの音楽の起源とは言えないもののようでした。古代ギリシャからローマえと移行する時に何かが途絶えたような気がします。
アフリカの音楽には子どもの持つエネルギーのようなものを感じますが、雅楽から聞こえてくるのは成熟した大人の感性でした。
雅楽は完成した音楽だと今は考えています。それは植物の種が、そこから根を出し、芽を出し伸びてゆき、やがて花が咲き実を結んで最後は種になるようなものです。雅楽はそれ以前の音楽の最後の段階の種だと思いました。そこからまた新しい音が出て、芽が出てと変化してゆくのでしょう。
今回SHOGUNという、関ヶ原の戦いの時の戦国武将に焦点を当てた映画の音楽に雅楽がふんだんに使われていると聞きました。
石田多朗さんが総合アレンジを務めたそうです。
映画を見るのが楽しみです。