頭ではわからないのが時間

2019年1月18日

時間がどこに存在しているのか私は知りません。

場所ではないような気がします。

 

私たちは時間を測るすべは持っていますが、時間がどこから来て、どこにあるのかはまだ発見していません。

 

石炭や石油のような資源はいつか使い切るでしょうが、時間はどうもそういうものとは違って、使い切ることはなさそうで使い放題です。

しかし時間を使うと言う感覚はありません。しかもいくら使って、電気や水道と違ってお金のかからないのも気抜けです。

 

 

もう少し具体的にみてみましょう。

私たちは一生分の時間をもって、あるいは預かって生まれて来たと言ってみてはどうでしょう。ただ短命だったり、長命だったりと一生の長さというのは人によって違うものなので、人それそれの時間の持ち分ということで平等などという考えの及ばないところです。

 

その人の一生の間にきっかり使い切ってしまうので、子孫に財産のように残すことはできません。

 

時間を節約するという考えはどうでしょう。私たちはそのために多大の努力をしてきました。色々な道具を発明しました。洗濯機などは良い例です。時間が節約できるものだという考えは、根拠が曖昧な割には、私たちを虜にし、しっかり定着しています。そしてそのために日夜時間を惜しまず努力しているのです。でも節約して何か得することがあるのでしょうか。タイムイズマネーなのでしょうか。

この考えの延長にミヒャエル・エンデが小説モモに登場させた時間泥棒がいるようです。

 

 

 

時間というのは本当によくわからないものです。どうわかっていないのかがわからないので、私たちの先人は時間のことをあれこれと言ってきました。思想家と言われる、しっかり考えられる人たちが考えた末発言してきたのです。が、未だわからずじまいです。いつの日かわかるようになるとも思えません。

 

もしかしたら時間は科学とか、哲学とかの頭のいい人たちの知的な作業からでは見つけられないのかもしれません。知的というのは意外と制約があってその一つは証明です。頭のいい人たちは証明を必要とするのです。なぜでしょう。きっとお互いに信じていないからです。知的とか頭がいいというのはイコール不審家なので、人の言うことを信じようとはしないのです。証明なんかしないで、存在していることを認められるようにならないと、時間のことの理解はダメなのかもしれません。

 

証明せずにあると認めるようになるのは、私たちが知的レベルを超えてからのことなのです。知的レベルを放棄してはそこに到達しません。早とちりの無いように。

遠いい未来にはそんな時代が来るような予感がします。

 

時間は私たちがそんなレベルに達したら、今目の前に木がある時、「ここに木がある」と言えるように、「ほら時間があるでしょ」と言えるのかもしれません。時間はかなりハイレベルです。

 

思考とは直感なり

2019年1月12日

日本語とヨーロッパの言葉とは違います。違うだけでなく相当かけ離れたものです。

その違いは一言で言えるものではありませんが、あえていうと、日本語は状況の中でそれにふさわしい単語、言い方を見つけ用いるのに、ヨーロッパの言葉は言いたい事の内容が文法的に正しいかどうかが問われると言うところです。これは根本的な違いです。

一応日本語にも文法はあります。けれどもヨーロッパの言葉の文法と比べると違いが大きすぎます。日本語の場合文法といっても単語をつなぐ規則と言ってよく、ヨーロツパ言語の文法は数学の数式のようなもので、揺るがすことのできない精密な機械のような構造なのです。

それを家の外壁の修理に例えてみます。

何か言いたいことがあるとします。家の外壁の修理をしようとしているわけです。ヨーロッパの言葉は、言いたいことが決まると、文法という足場を組みます。そしてその上を歩きながら内容を述べてゆきます。修理の時に足場の上を歩きながら仕事するようなものです。文法に従わないと言うのは、足場がないと言うことですから、職人さんでしたら仕事ができないということになり、言葉としては言いたいことが相手に通じないということになります。従って文法を無視しては話せないのです。ところが日本語の場合は言いたい事がある時、文法という足場を組まず、その場その場で職人さんが梯子をかけて用を足すように、言葉を選び、言い方に工夫を凝らします。ちゃんとした場所に梯子をかけられるかどうかが大事なので、日本語は文法という足場に頼らなくても修理ができるのです。

何故日本語はそうなるのか。これには諸説があるのでしょうが、私は、考えている時の直感のなせる技だと考えています。直感というのは問いと答えが一体化しているもので、「なぜならば・・」と言うプロセスを必要としないのです。

では何故ヨーロッパの言葉が文法に頼るのでしょう。考えというのが論理的に構築されなければならないからです。論理的に筋を通さなければならないということです。問いを出してそれに理屈で辻褄が合う答え「なぜならば・・」大事だからです。しかしそこで得られた答えが正しいかどうかの保証はないのです。ただ論理的には間違いがないというだけのことだってありうるのです。

 

考えるというのは、知的な、しかも論理的なものとみなされがちですが、そもそも直感から派生しているものです。日本社会では西洋思想が入ってきてからというもの、論理的でなければならないということになって、「直感などでモノを言うな、よく考えてからモノを言え」、つまり「何故ならばをはっきりさせろ」「論理の辻褄を合わせろ」と言う風に、直感は肩身の狭い思いを強いられ、ついには顧みられなくなってしまいました。今日の日本の学校教育はこの路線に則っています。ところが皮肉な事に、論理的であることを旨としているドイツ語に意外な側面があるのです。「思いつく」を「光に照らされている(Einleuchten)」というのです。まさに「閃く」です。閃きから思考が始まるとでもいいたげです。いや、確かにそう言っています。こうしてみると直感はドイツ語の中でしっかりと存在感のあるものなのに、むしろ現代の日本人の方がその辺のことをバカにしているのではないか、そんな気がしてなりません。しかしこれは大変な悲劇です。日本人は勤勉に論理的に考えることを学びましたが、結局は論理的に思考するというのは向いていないと私は考えているのです。

私自身を見てみると、40年以上ドイツ語で生活していて、ドイツ語に相当洗脳されているにも関わらず、ドイツの哲学好きな知識人たちと話をしている時に、論理で話を進める力が彼らに比べてはるかに劣っていることを痛感するのです。だからと言ってドイツ人の話に全くついて行けないということではないのです。

ある会議の時です、非常に込み入ったことを話している人がいました。ドイツ語ですからさらに複雑になるのです。同席したドイツ人の中にも頭をひねっている人がいたほどでした。もちろん私も表は穏やかに繕っていても頭の中は七転八倒です。あるところから戦略を変え、彼の話していることを言葉尻ではなく、全体像というのか、彼が何故そのことを言いたいのか、何故あのような複雑な言い方で説明するのかを、半ば真剣に半ばぼんやりと聞くことにしたのです。話が終わった時でした、司会の方が私に「今の話をどう思いますか」と振ってきたのです。私がぼんやり聞いていたので、「解らない事があれば補足しますよ」と言う親切から私を指したのでしょう。ところが私は複雑な内容にも関わらず、全部ではなかったのですが要点は理解していたのです。その様子を見ていた話をした本人もびっくりしていました。単語の一つ一つを全部理解していたわけではありませんが、大要は掴んでいたようなのです。

会議の帰りに同席していたよく話をする友人からも褒められました。彼は長年の付き合いで私のドイツ語の語彙力をよく知っていますし、その時使われていた専門的な語彙が私の範囲を超えていたこともはっきりわかっていたのです。それなのに私が的を外さずに、内容を理解していたことが不思議でならなかったようで、「どうして解ったのだ」としきりに聞くのです。私としてもどのように答えたらいいのかわからず、「話し手の意志の部分に焦点を当てて聞いていた」とだけ答えました。その後もその友人に会うたびにそのことが話題になるのですが、彼は「お前は日本人だから直感があるのだ」と決め付けてきて、「俺もそれが欲しい」と仕切りにいうのです。

 

 

直感を磨く場はどこかと思いながら、昔空手の有段者の友人から聞いた話を思い出していました。

子どもに教える時に注意することは、体にいくつかある急所を教えないことなのだそうです。急所は闘っている時、そこを攻撃されるとダメージが大きいので守らなければならないところなのですが、「ここは急所だ」と教えてしまうと却って守れないものなのだそうです。教えられて頭で知ってしまうといざという時に咄嗟に守れなくて、教えないと体が直感的に知っているので瞬時に守りの態勢をとるものなのだそうです。

 

知ると言う事自体はいい事です。沢山知っていると便利な事があります。知るとは便利に通じるものなのです。しかし便利というのは生きる上で必ずしも有利に働かないものです。どのようにして知ったのかが知る時に一番問われているのです。知るために費やす努力、とくに執拗なまでの繰り返しのことを言いたいのです。よく言われるのは昔の人たちの方が直感を持っていたということです。日本では勘と言います。それは昔の方が生活が不便だった事、そして技術などを身につけるために師匠に言われるまま繰り返しを強いられていたことによるのかもしれません。

しかし何れにしても直感は考えるためには原点です。思考全体を円に例えれば中心点です。それは昔も今も変わらない事実です。そこを外して論理的なというところに走り過ぎ、辻褄だけを合わせると言うことになると、それはまさに机上の空論ということになってしまいます。中心点を持たない円はないのです。

外国の中の日本、視覚言語を操る日本人、マンガ・アニメ論

2019年1月9日

マンガ、アニメ、そしてスシ、ラーメン。これが外国人の中では今の日本なのかもしれません。

今日は、しかしながら食文化には遠慮していただきます。

 

マンガは単にブームという枠を超えて、世界で受け入れられている現代日本を代表する文化といえます。ヨーロッパでは大手の本屋さんのコーナーをびつしりと埋め尽くしていますから相当の読者がいることを物語っています。日本語をマンガで勉強したという人にもすでに何人も会いましたし、それ以上に日本の心をマンガから感じ取って日本を研究している人たちもいて、彼らと話すと、マンガが本当に好きなのに驚かされます。もちろん誇張した、歌舞伎の「見栄」のような誇張した表現が不自然だと嫌いな人もいますが、新しい世代は別の見方でマンガに接しているようです。同様のことはアニメにも言えて、日本のアニメ文化に惹かれ、その勉強に日本にゆく人もいて、漫画フィーバー、アニメフィーバーは私たち日本人が考えている以上に外国人の心の中に忍び込んでいるのです。

 

マンガの主役は絵です。ですから読者の視覚に飛び込んできます。読者は視覚的に印象を受け取り、目で見て、感じ、視覚的緊張を楽しみます。ストーリーがあるので言葉を使いますが、マンガの中の言葉は言語的というより絵の邪魔をしない伴奏音楽のようなものだ思って読んでいます。状況の説明の段になっても、大抵の場合絵が重要で、言葉は絵を捕捉しています。

 

普通の言葉を「言葉言語(ことばげんご)」というならば、絵によるものは絵言語、絵画言語、視覚言語です。この視覚言語は日本文化の中で、歴史的にも古くから日本人が心を表現するのに用いたもので、日本人の感性に合った、日本人が得意な表現分野です。世界が注目する源氏物語絵巻、版画もそこにルーツがあると言えます。

 

日本人がどのように言葉を受け取っているのかは研究によって明らかにされています。難しくいうと言語体験ですが、どうも欧米諸国の人たちとは違うようなのです。日本人だけが虫の声を雑音としては聞いていないという報告は非常に興味をそそります。私はそのことと私が考えている「日本人は言葉を視覚的に捉えている」こととは関係があると思っています。

また文字化された言葉、文章を理解する能力は十分あるのに、聴覚的に受け取るのは苦手で、聞き取り、読解、作文、文法のバランスを見ると聞き取りが著しく劣っているのも、視覚的に言葉を捉えているからなのです。

日本の漢字の読み方の複雑さも挙げておきたいと思います。

一つの漢字を幾く通りにも読ませます。「るび」は発音記号の時もあれば、使い手の創作した読み方の示唆として使われることもあります。こうした文字文化は他になく、日本語の特徴で、同じように漢字を使う中国系の人たちですら首をかしげるところです。これは今日のアルファーベート(アラビア文字、ヘブライ文字、サンスクリット文字などを含みます)を使う言語では見られないもので、あえて比較できるとしたら古代エジプトの絵文字ヒエログラフぐらいかもしれません。

つまり言葉というのは日本人の頭の中では常に文字化されているということです。音声で聞いている言葉も実は文字になり、絵として、視覚的に捉えられるているのです。アルファーベートを用いる言葉にしても文字はひとまず視覚で捉えられるのですが、すぐに聴覚に変換されますから聴覚的言語ということになります。一つの漢字が多い時には10種類を超える読み方を持っているなど信じ難いことで、日本語を勉強する人たちの中には、この珍現象を最悪と嘆く人たちがいるのは当然ですが、そこに混じってこれこそ日本語の醍醐味と楽しんでいる人もいます。

 

漫画、アニメの底辺にはこの視覚的言語人が流れていると私は考えています。日本人の伝達、理解は視覚を基礎としているのに対しヨーロッパでは聴覚からです。聖書の中で「はじめに言葉ありき」、という時の言葉は聴覚的な言葉のはずです。それはヨーロッパで音楽が発達した要因の一つとしてあげることができるように思うのです。ヨーロッパの音楽がヨーロッパと言うローカルなものから世界音楽へと移行するのは15世紀、つまりルネッサンスの以降のことです。中世まではヨーロッパの音楽はヨーロッパのものでした。音楽は今日のように独立したものではなく、踊りの伴奏だったり、軍隊の行進のためのものでした。

ルネッサンス以降、独り立ちした音楽の台頭はヨーロッパの表現世界を変えてしまいました。人間の感受性を知的なものにまとめあげてしまいます。聴覚人間の誕生と知的人間の誕生は平行して発達したと私は考えています。

ヨーロッパの中世の絵画には特別なものを感じています。そうした絵画にはおおらかさの中に深さを感じるのです。今日では深刻な表現が好まれる宗教画ですら、当時の絵にはユーモアのある明るさで表現されていま。そこには聴覚人間誕生以前のヨーロッパが垣間見られているはずです。知的でないヨーロッパもあったのです。

 

日本は、実を言うと、ほとんど例外的に、今でも絵画言語を保ち続けている民族なのです。漫画は日本というローカルな土壌の中で生まれ育ちましたが、今やローカル色をぬぐい世界のマンガになりました。世界中に日本のマンガの愛読者がいるのです。日本人のように彼らも絵画言語の理解者たちなのでしょうか。

明治になって西洋音楽が本格的に日本に入って来ます。日本人はその音楽を崇拝し、富国強兵ではないですが西洋音楽に追いつけ追い越せをやっていました。とはいえ日本人は西洋音楽が好きです。好きで好きでたまらないのですが、本当に西洋音楽に向いているかどうか、私は時々疑問に思うことがあります。というか、絵画的言語の持ち主にとって、西洋音楽は西洋人が聞くのとは違うものとして存在していると感じるのです。

西洋音楽に夢中になっている中で絵巻、版画、浮世絵といった日本の絵画芸術は低い評価しか与えられず、悲しいかな二束三文で欧米に叩き売りされていたのです。それは文化的自殺行為ではなかったのかと私はよく考えるのです。

 

最後に簡単にまとめてみたいと思います。

今日本人独特の言葉、絵画言語がマンガとして生まれ変わって世界に羽ばたこうとしているのかもしれません。

知的感性を育成した聴覚芸術に代って、視覚芸術が新しい文化を用意しているのかもしれません。

もしかすると 左脳文化から右脳文化への移行を意味しているのかもしれません。

聴覚文化、知性偏重を支えた左脳文化から、視覚文化、おおらかさを支える右脳文化へと。