年末に思うこと。趣味について、無趣味について。

2018年12月30日

一年が終わろうとしていて、ぼんやり来年のことに思いを馳せたり、今年がどんな年だったかなどを振り返ったりと気持ちがそぞろになるのを、親しい友人と取り留めのない話をすることで気分を引き締めます。

その時話しが趣味ということになって、何を趣味とみなすのか、どこからが仕事でどこからが趣味なのかと話しているところに友人の32歳の息子が顔を出して話を聞きながら、「趣味なんて言葉は、お父さんたちの時代はあったのかもしれないけど、今時は死語だよ」というので、突然友人との会話がフリーズしてしまいました。「今の若い人は趣味がないの?」と聞き返すと、「簡単には答えられないね。仕事以外の自由時間をどう過ごすかということはあるけど、それを趣味に当てるという考えはないね」」と言いながら席を外してしまいました。

 

その話の中で、よく趣味は何かと聞かれた時に、昔から必ず「そんなものないでよ。とにかく無趣味なもんで」と言っていたことを思い出していました。その考えは今も変わらず、頑固に「無趣味なもので」で通しています。しかし、ミシンを踏んだり、庭仕事をしたり、編み物をしたり、日曜大工に励んだり、音楽を聞いたりと色々やるのが好きなことを知っている友人は「お前さんのは無趣味ではなく、何が趣味かわからなくなっているだけだよ」と慰めてくれます。そういうことなら逆に趣味と言えるものはいくらでもあげられそうです。

その趣味を手掛かりに知識が広がり、時にはハマって抜け出せないほどのこともあり、それゆえに雑学ばかりが増えていったのです。趣味と雑学は隣り合わせているようです。趣味という定義は色々できそうですが、雑学の源というのもその一つで、趣味が増えれば雑学が増えるということのようで、雑学の大家を見れば案外多趣味族かもしれません。

 

経済的見れば小遣いを使うので支出に当たります。収入源が仕事と定義づけられるとすれば、趣味は支出源で散財源です。オートバイ好きの友人が二百万でハーリーを買ったら、奥さんから三行半を突き付けられましたが、散財が過ぎたからです。

音楽で身を立てている人たちの中には、子どもの頃から音楽家になりたいと願って厳しい練習に耐えて音楽家になった人もいますが、趣味が高じて音楽の世界で身を立てている人もいて、そういう人は趣味と仕事の区別がなくなってしまった人たちになるわけです。それは幸せなことなのか、それとも不幸せなことなのか、簡単には言えない問題です。趣味で食べていけるのなら一番幸せだと言えるかもしれませんが、もしかしたらもともと大好きな音楽という趣味を奪われてしまったという風にも見られるわけです。

 

友人の息子さんの「趣味なんて死語ですよ」という発言が気になります。もしかしたら今の若者たちは私たちの世代とは違った真面目さで生きているのではないのだろうか、そんな気がしてきます。

我々にとって趣味というのは単なる気晴らしではなく、収入に結びつかないだけでやはり仕事と言っていいのかもしれません。しかし仕事との一線が引けるのは無責任でいいということです。無責任に好きなことをする、それが趣味のいいところです。散財さえ過ぎなければ、誰にも怒られない気楽さが人生の中にある、また楽しからずや、です。

家族で祝うクリスマス

2018年12月28日

ドイツのクリスマスは日本ほどではないにしてもやはり商業ベースに染まったクリスマスです。

十月に入ると大手の百貨店はクリスマスの飾り付けが始まります。一店舗。また一店舗と飾り付けをが増えてゆき、十一月の末から始まるアドヴェント、待降節と共にクリスマスマーケットの時期に入ると、商業クリスマスはピークを迎えそのまま十二月二十四日のクリスマス・イヴに入ります。

クリスマスのメインイヴェントは教会で行われる真夜中のミサです。教会離れが目立つドイツは日曜日に教会に行く人が減っていますが、この日だけは教会が人に溢れるのです。

ドイツのクリスマスプレゼントはイヴの夜か次の日に交換するのが常です。ところが、ヨーロッパの中でも国によって違っていて、十二月六日の聖ニコラウスの誕生日のところもあれば一月六日の三賢王がイエスに贈り物をした日にするところもあります。ちなみにチャイコフスキーのバレー音楽「くるみ割り人形」はクリスマスツリーの下に並べられたクリスマスプレゼントが真夜中に踊り始めるという空想をもとにしたもので、クリスマスプレゼントのワクワク感が基本テーマになっています。クリスマスに何が欲しいか前もって聞きあってそれがプレゼントとして登場しますから、サプライズに満ちたという感じではありません。

二日に渡るクリスマスの祝日はバラバラに散らばっている家族が集まる日でもあるので、久しぶりに会う兄弟達が親元で語らい合える時でもあるのです。日本のお正月をイメージすればそのまま当てはまります。我が家もベルリンにいる息子達が帰ってきたり、二人の孫が4月と11月に生まれたこともあって賑やかなクリスマスになりました。

 

しかし家族というあり方がここ半世紀の間に大きく変わったことを鑑みると、クリスマスの祝い方にも大きな変化が生じたであろうことは想像がつきます。離婚というものから生じたパッチワーク家族の出現は大きな変化の一番の要因です。子ども達はお父さんの方の家族と祝うのかお母さんの家族と祝うのかと引き裂かれますし、兄弟の中でも父親に引き取られた子と母親に引き取られたことがバラバラになってしまうこともあるのですから、まさに「引き裂かれている家族」の状況がはっきりと見えてくるのが最近のクリスマスの祝日の姿だと言えるのです。

こうした状況は今や少数派ではなく、結婚したカップルの半分以上が様々な理由で離婚をしている現代では主流にすらなってしまっていて、現代のこうした現実を生きる子ども達にとっては、私たちの世代が想像する以上に当たり前のこととみなされているのかもしれません。

血族でない家族の絆が問われているのです。厳しい魂の試練です。今まで育ってきた家族がある日を境に消えて無くなって、今目の前にある新しい家族を受け入れなければならないのですから、時には子どもの魂の力では処理できない決断が求められます。幼い子どもにとってそれはあまりに悲しい現実です。今まで他人だった人たちが今日から家族という形で一緒に生活するようになるのです。さらにその新しい家族という集団の中に自分の居場所を見つけなければならないとなると、本来は自然な形で存在している「親に甘えたい気持ち」「兄弟姉妹と喧嘩していた自然な我儘のはけ口」が封じ込められてしまいますら、そのはけ口をどこか他に見つけなければならなくなるのです。幼い涙は外に出して流すわけにはいかなくなってしまうのです。

この子ども達が作る次の社会がどのような形のものになるのかとても興味があります。幼くして他人を受け入れる修行を強いられた魂は、新しい形の魂の免疫力を持っているに違いないのです。簡単に力強いと片付けられない、屈折した力強さによって作られる社会は、私たちが何気なく使っている「他人」という言葉の意味すら変わってしまうほど、姿、形を変えて登場するような気がしてならないのです。家族すらがすでに他人からなる集団になってしまったのですから。

 

クライストのマリオネット芝居について(種村季弘訳)

2018年12月23日

ドイツの小説家・劇作家、ハインリッヒ・クライストの小説「マリオネット芝居について」は、20ページほどの短編にも関わらず、内容の特異性からいろいろに取り上げられる小説です。

シュトゥットガルトのバレー団が毎朝ミーティングの時に動きについて整理するための教材として読んでいたようで、バレーの動きを芸術としてではなく、哲学的に整理するために格好のものだったと、当時舞台で踊っていた友人が話してくれたのを思い出します。動きの芸術的解釈となると普段は喧嘩になるくらい喧々轟々となるのに、動くということを哲学的に説明しているため、冷静に話が進むと笑っていました。

 

公園でばったり会った二人の人間の対話という形式で、マリオネットの動きとバレリーナの動きを比較しながら話は進んでゆきます。この二人の一人は舞踏芸術の愛好家、もう一人は舞台で踊るダンサーです。愛好家がダンサーをマリオネットの芝居小屋で何度か見かけたということから話が始まります。会話の内容は芸術論的ではなく、こんな感じです。「どの運動にも、一つの重心があるのです。重心が描くはずの線は一応いたって単純なものでしょう。大概の場合直線だろうと思います。曲がる場合には、その湾曲の法則は少なくとも一時曲線、乃至は二次曲線からなると思います。後者の二次曲線の場合でもせいぜいが楕円曲線でしょう。」哲学的であると同時に数学的な話になるのです。この小説の中では人間が動くということを数学的に整理しようとしているのです。

読みにくい小説です。しかし読者の予想しない話の展開が逆に読者を引き込みます。そしてバレーとかマリオネットの、今まで見えていなかった骨格、数学的な法則が見えてくるので、改めて数学的なものが物事を整理する時に偉大な力を発揮するのかこの本で改めて発見するのです。

芸術というのはどうしても主観的な世界を巡り巡り、ついには結論に至らないのです。そこに数学的なセンスで入り込んで行く。答えを見つけるためでなく、思考のプロセスを明晰にするためです。ここが数学の偉大さです。冷静な視点から、動きの生まれるプロセスを見るのです。芸術作品となったものを感覚的にでもなく、総体的にでもなく、芸術を作っている素材、要素、要因というものを分析しながら、芸術作品の骨格を確認するのです。その作業のもとで作品はバラバラに分解されてしまいますが、そこから新しい作品の価値が生まれてくることも事実です。ゲーテが好んで使ったメタモルフォーゼです。

動き全体に話が進む中で、機械の動き、動物の動きも飛び出してきます。それらは純粋な動きとも神的な動きともみなされます。そして最後に認識(自意識)に目覚めてしまった人間の動きが語られます。人間の動きにはどうしても虚栄の兆しが垣間見られ、そのために純粋な無垢な動きからは遠ざかってしまったというのです。熊と戦うフェンシングの名手の話も登場します。熊の純粋無垢な動きと人間の虚栄を含んだ動きという図式から、人間は熊に勝てないと結論します。そして小説は最後にこんな会話が交わされて終わります。

「わたたちは無垢の状態に立ち返るためにはもう一度認識の木の実を食べなければならないのですね?」

「さよう、それが世界史の最終章なのです」