ライアーで弾きたい曲

2018年3月18日

このところブログではライアーのことをすっかり放ったらかしにしていて、私のライアーを贔屓にしてくれている人からの苦情が届いています。このブログはライアー奏者仲正雄のオフィシャルサイトなのですから当然です。ただ私はライアーを弾くことは音楽をすることであり、音楽は人間を語る事だという観点からこのブログに文章を寄稿しています。

 

シューベルトだけを選んで6枚目のCDをリリースしてから随分時間が経ちます。そのあと機会があるごとに次はどんな曲を弾きたいのかと自問したり友人に相談したりしてきたのですが、まだ本命にたどり着いていません。当初はバッハとヘンデルでまとめようかと考えていましたが、他にいいものがあればそちらにしてもいいとジャンルにとらわれずに気の向くままに音楽を聞き漁ったのです。

しかしライアーで弾くことを前提に探しているので、とりあえず興味を引くのは絃楽器の曲になります。クラシックギターを昔弾いていたこともあって、リュートやギターの音楽は繰り返し聞きました。その中でも1500年代のスペインの音楽が心に響いたのです。

当時スペインではミラン、ムダラ、ナルバエスという人たちが1530年頃こぞってビウェラという楽器のために曲集を出版しています。この楽器はリュートと同じに弦が張られた楽器なのですが、熱心なキリスト教の国だったスペインはリュートをアラビア人の楽器とみなして嫌い、ビウェラが好まれました。しかしスペイン大帝国が17世紀に衰退するとこの楽器も一緒に消えて無くなり、ビウェラの音楽財産はギターに受け継がれてゆきました。

 

このビウェラの音楽に惹かれるのは、手探りで音楽を探している初々しいところです。ほやほやの音楽なのかもしれません。まだ音楽形式など確立していない時代です。従って曲の流れに道筋などなく即興的な印象を受けます。いつ終わるとも想像がつかないこともあります。そんな危なっかしい幼い音楽が新鮮に語りかけてきたのです。

楽譜に強弱記号を導入しようとする動きがムダラの楽譜の中で初めて登場したという事実も当時の音楽の初々しさを物語っています。個人の名前が冠されて曲集が編纂され出版されてはいますが、基本姿勢はビウェラという楽器に捧げられたものです。19、20世紀に花ひらく個人の表現という西洋音楽を特徴付ける個人主義、自己主張とは違い、日本風にいうと詠み人知らずのような趣を持った没個人的な音楽なのです。

そんな黎明期の淡い脆弱な音楽が、まだ生まれて百年にも満たないライアー似合わないはずがありません。まずは何曲かを編曲して少なくとも自分で納得ゆくものにしたいと思っています。

 

 

 

辞書の力より想像力

2018年3月15日

言葉の学習に欠かせないのが辞書です。こまめに辞書と付き合うのも外国の上達には欠かせないものです。ですから机の上の辞書には随分お世話になっています。

ところで辞書ですが、一冊を全部通して読む必要はないのでしょうが、試しにやって見たことがあります。国語の辞書でした。一気に通して読まれることを期待して作っていないので、ワクワクしながらは読めませんでしたが、もともと言葉が好きなのでそれなりに楽しむことはできました。読み進むうちにわかって来たのは、日本語の辞書からある程度生活感と言うか、文化の背景が伝わって来ると言うことでした。ですからあながち無駄ではなかったようです。

しかし外国語の辞書を通して読んでみようかと言う挑戦意欲は湧いてきませんでした。今の所予定にもありません。どうも気が進まないのです。

 

外国語の辞書の場合、わからない単語の意味を調べることが何よりの目的です。もちろん日本語の国語辞書の場合もそうなのですが、母国語の場合はわからないところが相当狭められ具体的ですから、知りたいことがすぐ見つかります。ところが、外国語の場合は単語を調べようと辞書を引いても、間口が広すぎててんてこ舞いで解決した経験はほとんどありません。解決しないことはないですが、こういうことだったのかと腑に落ちる解決は実に稀です。そして納得しないまま辞書を後にするのです。

例えば英語のある文章でputという単語でつまずいたとします。辞書を引いたらどうなるでしょう。

putは日本語でなんと言う意味かと言うスタンスで向かうとしっかり裏切られます。一つや二つの意味ではなく二十くらいの意味が目の前に出現して、目が眩んでますますわからなくなってしまうのです。迷路に迷い込んだようなものです。

 

似たような経験をずっと繰り返してきたわけですが、最近になって気がついたことがあります。putは日本人にとって、つまり日本語にすると二十ほどの意味を持つ単語になるのですが、putを母国語にしている人間にとってはそんなことはなく、putはputで一つなのだと言うことでした。一つというのは言い過ぎかもしれませんが、二十もの違ったニュワンスでも一つの塊として感じられていて、その中でお互いに密接に結び付いているのだということでした。しかもその塊の中はひじょうに活発ですぐに必要なニュワンスを導きだせるのです。

 

外国語の上達というのは、ここがポイントだと思います。

日本語にするとたくさんの意味に別れてしまっているものをどれだけ一つの塊に近づけられるかというところです。日本語では全く関連性が見えて来ないものだってあるので、一つの塊になることは永久にないかもしれませんが、とにかくどんなにputが来ても対応できるようになれば、相当の上級者です。

この塊は別の言葉で言うとイメージでしょう。

日本人であれば日本語を読みながら意味で理解していないのです。イメージ化して使っているはずです。言葉は意味として理解される時、とても貧弱なものになっています。意味というのは用途、目的のため、例えば機械の使用説明のためなどには便利なものです。意味はしっかりと定義づけされていますから、目的地までの道を説明したりするときに威力を発揮します。

ところが意味で説明されてわかるものというのは限られているのではないかと思います。物質的、機械的なものではないのでしょうか。

 

私は人間の心というのは説明の領域を超えたものだと思っています。もし心が説明されるものなら、心は何かの目的のためのものだということになってしまいそうです。人間とは、何かの目的のために機能する以上に、いくつもの可能性の中を存在しているものです。そこから考えられるべもののような気がするのです。説明では追いつかないものがいくつもあると思いますが、その一つが心です。

言葉が心の様子を伝えようとしている時、言葉は心をイメージ的に捉えようとしています。意味で伝えようとすると、相手が同じ言葉でも別の意味で理解している場合があり、誤解のものになります。

イメージで誤解がまぬがれるかというと、そんな事はありませんが、時間の流れの中で理解にたどり着く可能性は高いと思います。イメージというのは何十もの意味が複雑に絡み合い結びついた塊のようなもの、あるいは何十もの音色の違う鐘の音が調和した一つとして響いているものなのかもしれません。

ある文化の中で生まれたイメージの結晶である詩が別の文化の中では理解しにくいのは致し方のないことなのかもしれません。それは言葉の中のイメージの力は母国語の中で豊かに生きていて、イメージの力の中で文化が育まれているからです。

 

卒業プロジェクトに参加して

2018年3月9日

京田辺シュタイナー学校の卒業プロジェクトに今年も行ってきました。

卒業プロジェクトなるものをご存じない方が私のブログを読んでくださる方の中にはたくさんいるのですが、紹介を兼ねて書いてみます。

今年で五度目なのにますます興味が深まっています。

毎年卒業生が違うから楽しみが毎年違うのはもちろんですが、それ以上にこのプロジェクトに向かう卒業生一人一人の意気込みがスリルに満ちているためというのが足を運ぶ理由のようです。成人の仲間入りの入口で、安物の自分探しからは得られない手応えがそこにはあります。自分に翻弄させられている若者の姿は、未知からの洗礼に怯える清々さがあり、そこには一編の詩を読んでいる時に感じる充実があるのです。

 

シュタイナー学校では卒業の年に一年をかけて卒業発表を準備します。テーマは自由ですから毎年様々な取り組みが見られます。それが卒業プロジェクトです。

以前は卒業演劇に興味があり足を運んだものでした。演劇に興味が無くなったわけではないのですが、卒業してゆく生徒さんたちの生な呼吸を五年前の卒業プロジェクトで直に触れてから毎年足を運ぶようになりました。

 

卒業の一年、あるいは一年半ほど前から各自一つのテーマの下に卒業生全員の卒業プロジェクトが動き始めます。一年以上の時間をかけて一つのテーマに取り組むわけですが、思春期を抜け出したばかりの不安定な成長期にとってこの長丁場は、本人もですが指導する先生たちにとっても決して簡単なことではないはずです。テーマ選びに際してもただ単に興味があるから、自分でやりたいと思ったことだからと選んでしまうと、思いがけずに裏切られることが多く、こんなことがしたかったんじゃないんだ、という風に途中で転覆してしまう例がいくつもあるようです。こんなところにも成長期にいる人間のリアルな姿を感じます。

卒業プロジェクトは自分自身を、卒業を機にまとめるという意図を含んだ企画と見ていいと思います。けれどまとめるという知的作業で通り過ぎるのではなく、自分を自分の前にさらけ出すという、熾烈な戦いを通し、自分を語るにふさわしい言葉に出会うまでの旅と言えるのかもしれません。

自分をさらけ出す、これは実に厄介なものです。特に思春期をまだ引きずっている時期は恥ずかしかったりして向かい合いにくいものです。この羞恥心の中から生まれる自分が尊いのであって、ここを避けてしまうと向かい合っているつもりが、見てくれのいい自己陶酔や自己欺瞞、あるいはエゴイズムに陥ってしまいかねないので注意を要する繊細な作業です。

 

そんなに試練の道のりをなんとか漕ぎ着けた発表の日、盛大なセレモニーが待っています。

選んだテーマは鏡で、そこに自分が映し出されます。その自分を言葉にして行く作業が卒業プロジェクトの醍醐味ですから彼等の口からやっとの思いで出てくる言葉ひとつひとつに全力で耳を傾けます。聞き逃すわけには行かないのです。彼等がギリギリの力で一年かけて用意した言葉に彼等と一緒に感動できる瞬間なのですから。制作に費やした卒業生の場合、職人の寡黙に近い重い言葉も魅力的です。もちろんまだまだ途上だと感じる未熟な言葉が多く、時には背伸びしたひとまわり大きすぎる言葉に振り回されていることもありといろいろですが、どれもが精一杯の表情の中で輝いているのです。

 

わたしは特別顧問ということでの参列ですからほぼ外部者で、発表する卒業生達とはその時だけの出会いとなります。そんな中で彼らの発表を聞くというのは、テーマの内容は勿論ですが、それ以上に卒業生が発表の場に漕ぎ着けた姿が眩しく、それだけでワクワクします。しかも言葉という真剣を手にしこちらに向かって来ます。竹光などで立ち向かうわけにはいきません。こちらも聞き耳を立て真剣に待ち構えスリル満点です。

わずか20分ですが盛りだくさんです。わずかの間に発表があり、その後それに対しての感想や質問が飛び交います。たかが20分なのですが、晴れ舞台であり、崖っぷちに立たされた正念場であり、恐怖と喜びが入り混じります。発表者の心の中は嵐が吹き荒れ複雑ですが、唯一の救いは、会場に駆けつけた親御さん、卒業生、学校関係の友人たちの温かく見守ってくれている眼差しです。その眼差しの前で、発表する卒業生は激痛を伴った脱皮を感じているに違いないのです。恐怖と涙と笑いが共存している正真正銘の感情の疼きの真っ只中です。発表が終わって一礼した後に見られる笑顔は印象的です。その笑顔の輝きは幼子が初めて二本の足で立った時に見せる最高の笑顔に似ています。

暖かい拍手の中で痛みは癒され、疼く感情も落ち着きを取り戻し、深く一礼した顔には過去と未来とそして何よりも今を噛みしめるすがすがしさが輝いています。

 

五回目の今回は、今までとは少し違うスタンスで臨んでいました。いま目の前にいる卒業生の許で結晶したものがどれだけの時間と労力とが費やされたのかと突然気になりだしたのです。それを思うとめまいがするほどでした。大きな塩の結晶を目の前にしているような感じにもなりました。その塩が作られるためにどれだけの量の水が必要だったのか、どれだけの時間をかけて乾かしたのか、そこに吹いた風の量、太陽の光と熱、それらが発表を聞いていると津波のように私に覆い被ってきたのでした。シュタイナー教育の大きな特徴は時間です。時間の実態を子どもに伝授することです。どうやってそれをするのか、エポック授業もその一つですが、卒業プロジェクトも然りです。卒業プロジェクトは、別の言葉で言うと、時間をかけて自分に馴染んで行くプロジェクトと言えます。一年という長丁場の中で自分と馴染むのです。時間の中でしか成熟しないものがあると言うことなのでしょう。説明という時間を省略した理解の仕方ではなく、腑に落ちるまで時間をかけるという理解には、学校を巣立って行く子どもたちを内側から支えてくれる何かしらの力を感じるのです。会場では時には辛辣なことを言い時には涙ぐみながら拍手を送っていました。