メトロノームで三拍子は無理です

2017年10月12日

メトロノーム。
誰がいつどこで発明したのか知りませんが、こんなものが音楽の世界に入り込んできた時から、音楽は牢屋に入れられたようなものと変わってしまいました。
メトロノームで音楽をするというのは、音楽を冷凍するようなもので、音楽的自殺行為ですから、私は人に勧めません。
メトロノームに頼って音楽をすると血の通っていない死んだ音楽になってしまいます。
でも今のご時世、そういうのが好まれているようで、なんだか背筋が寒くなってしまいます。

メトロノームの悪口を言ったので、ある時人から、
どうしたらリズムを覚えるのですか、
と聞かれました。
歩いたらいいじゃないですか、と答えました。
歩いている音楽は生きています。でもメトロノームは別物です。
機械です。
機械がおんがくを始めたというのが、メトロノームで音楽をするということです。
簡易ロボットといえます。
では三拍子はどうしたら覚えられますかと続けられて、答えに窮しましたが、なんとか逆襲できました。
メトロノームで三拍子は習えますか。
・・・・・・・
三拍子、三連符も同じですが、そこには音楽の心が生きているので、音楽からしか習えません。
・・・・・・・
三拍子は発見されるのを待っています。自分で見つけないとダメなのです、といいました。

三拍子は自然界にはないもので、自分を感じるようになると三拍子に目覚めます。
逆に三拍子の曲を弾いているのを聞けばその人の人となりが分かるものです。三連符もよくにいています。

方言と標準語

2017年10月9日

東京生まれの私は方言を持っている人に少々コンプレックスを感じています。
標準語の日本語しか喋れず、現在の私の生活に使う言葉、ドイツ語も標準語しか喋れませんから、全く方言から見放された人生なんです。
若い頃に、新聞記者になった友人が青森支局に勤ていて、訪ねがてら津軽を旅行しました。太宰治の生家、斜陽館に行くために青森の駅で電車を待っていた時、周りに方言が聞こえていましたが、訛っていたり、アクセントが違う程度で、「方言でも理解できるんだ」と思っていたのですが、乗った津軽本線で年配の人が使う津軽弁に目から鱗。打ちひしがれた思いがしたのを覚えています。何を話しているのか「全く」わかりませんでした。正真正銘の方言というのがあるんだ、同じ日本語なのに・・。あんな風に話せるんだ、いや、話してみたい。「標準語しか話せない自分」を強烈に感じた時でした。
青森の街に出て津軽弁で書かれた本を探しに本屋に入り、そこでソノシート(プラスチック製のペラペラなレコード)のついた青森の人の詩集を見つけたのです。そのソノシートには本の中の詩が、一つだけでしたが収められていたのです。ローカルな詩人なのでしょう、東京では聞いたことのない名前でしたが、即買いました。
旅行が終わって、家に着くと、何はさておきリュックサックから本を取り出し、ソノシートをレコードプレーヤーにかけ耳を傾けました。文字で詩を読む限り、わからないという印象は持ちませんでした。聞く方がずっと距離を感じました。とはいえ、旅行の間中音で聞ける瞬間をずっと思い描いていたので、分かる分からないではなくワクワクの連続でした。聞きながら、心を震わせながら赤ちゃんがするように口真似をしていました。そして毎日毎日、覚えるまで、何度も何度も聞いたのです。高木恭造さんご自身が読まれていたと記憶しています。
   カカゴトプタライデオモテサデハレバマンドロダーオツキサマダー
   フイダアドノヤブコイデ・・・
たった一つの詩しか読まれていなかったのですが、これで自分も方言を音にできると、大満足でした。

現代社会は方言がどんど失われ、その反面標準語が幅を利かせています。そこでは変な現象がみられます。方言を持つ人は標準語をどんなに上手に使っても、方言の持つ訛りが出てしまうものです。そんな時、東京の人に「お国はどちらですか」と聞かれてしまい、標準語がちゃんと喋れないというコンプレックスが生まれるのです。私の持つコンプレックスとは逆のパターンです。しかし幅を利かせている標準語というのは、よくよく考えれば人工的に作られた言葉です。言葉としてはそれほど価値のあるものではない、と言ってもいいように思えるのです。それなのに偉そうに幅を利かせているのです。私が個人的に方言の方に肩入れしているからというのではなく、標準語化した日本語って実は抽象的な世界に放り出されてしまった根無し草なのではないのか、私にはどうしてもそう思えてならないのです。

ちなみに高木恭造さんの詩を(カタカナで書いたところ)を標準語に直すとどうなるのでしょう。
    妻をひっぱだいた勢いで外に出たらウルウルした満月だった
こんな感じでしょう。意味は伝わっています。しかし言葉のダイナミックな味わいといったらいいのか「何か」が消えてしまいます。私にはできないですが、他の方言に置き換えたら、あの詩が持っている臨場感は、標準語以上に伝わるのかもしれません。

方言でしか言い表せない何か、そしてその何かは標準語にはない何か。
標準語にすると、最悪の場合説明になっているだけということになりかねないのです。
詩というのは遊び心からしか生まれないものです。リズムの遊びなんです。言葉の響きを楽しんでいるものなのです。言葉のメロディーを歌っているんです。
古代にまで遡ると言葉はリズムに支えられた韻文で、しかも繰り返しが重要で、そこからイメージ深まって理解と言えるものにたどり着くのです。時代が私たちに近づくに従って増えてゆく散文。その散文が得意とする説明による理解とは全く別の世界があったのです。方言の中にはもしかするとそういう古代人が持っていたのに共通するものが生き続けているのかもしれません。津軽本線で聞いたのはそんな何かでした。

標準語は散文的です。その標準語に直したらスマートになりますが、方言が得意とする土着的な具体性、暗黙性からは遠ざかってしまいます。方言は具体的、標準語は抽象的。方言は無口、標準語は饒舌。この違いです。方言は具体的なものなのですが、その土地に育った人の間で暗黙の内に分かり合えるもので、その土地を離れると威力を発揮しなくなってしまうのです。それにひきかえ標準語というのは根無し草ですが、土地に縛られることなく理解できる便利な言葉です。土着ではなく垢抜けていて、暗黙ではなく言葉を費やして理路整然としている知的なもので、多くの人によって共有できるという特徴があり、社会を一つにまとめる時はとても都合の良い便利な道具なのです。

方言には小節(こぶし)がつきものです。これが訛りと言われるものです。強いメロディー性、アクセントとなる癖のあるリズム。標準語がことごとく排除しているものです。そのため方言を持つ人が標準語を使うと、方言で培われたリズム、メロディーが目立ってしまうのです。
標準語は偉そうな顔をしていますが、この小節(こぶし)のない、滑らかで、平ぺったいものにすぎないのかもしれないのです。現代社会はテレビなどのメディアの普及で言葉が標準語化しています。もしかしたら、人間も標準語化して、根無し草になって、一つにまとめ易くなってしまったのかもしれません。

カズオ・イシグロ、「日の名残り」。

2017年10月7日

日の名残り、The remains of the day、をはじめて読んだ時、これは源氏物語に通じているものだと直感しました。
この本に出会ったきっかけは、「わたしの英語を焼き直したい」と思い立った時です。お隣に住んでいる女性で、長年英語、フランス語、スペイン語の通訳と翻訳をされていた方に、「一緒にヘミングウェイを読んでくださいませんか」とお願いした時にさかのぼります。今から四年前の話です。その方は、定年退職されて五年目で、「ヨーロッパの言葉でない言葉を学びたい」と思い立ち日本語を学んでいるところで、そのことを偶然に聞いて知って、「英語と日本語の交換授業をしましょう」と提案してみたのです。それから一週間に二時間の交換授業がはじまりました。最初は私の希望通り、ヘミングウェイを読んでいたのですが(私の方からは英訳がついた子ども向けの古事記の絵本でした)、「彼の文章は省略が多すぎるので英語の勉強には相応しくないからカズオ・イシグロの本を持ってきました」と言って日の名残りを机の上にさしだしたのです。「決して易しくはないですが、英語の文章が綺麗で、繊細で、しかも複雑なことがとても素晴らしい英語で書かれています」とさっさとヘミングウェイを取り下げてしまったのです。

カズオ・イシグロの文章を英語で読む、これは相当の語学力が必要です。私が独力でこの本の英語に接していても、もちろんゆっくりしか読めませんが、読み続けることはできなかったでしょう。英語に精通した助っ人に感謝しています。私の助っ人は助っ人で、ゆっくり読むことで発見したものがあるようで私と一緒に感動しています。
遅々としたテンポは私からのお願いでした。できるだけ深く一文を読解したかったからでした。一字一字、句読点の取り方なども含めて、納得の行くまで文章を読み込んでみたかったのです。カズオ・イシグロの日の名残りの文章はそのためには最適でした。

私たちの交換授業が一年経った時、日本で橋本武という国語の先生が、灘中学校で三年間、中勘助の「銀の匙」を教材にしていたことを知りました。しかも遅々とした授業で、深く突っ込みながら、きめ細かく読み込んで行く授業方法だったようです。それが今の進学学校灘校の基礎を作ったことは卒業生たちの発言からはっきりしています。

カズオ・イシグロの文章はゆっくり読むべきものです。ゆっくり読むと実に味わい深い文章です。

ドイツでこの本が評判にならなかったのは不思議です。執事という制度がないこともあるのでしょうが、ひとえに翻訳のせいだと信じています。ドイツ語の訳は悲惨です。執事の発想が言葉にならないのです。日本語訳はそれから比べると出来過ぎぐらいの名訳です。テンポが少しだけ早すぎるところがあえていえば難点と言えるかもしれませんが、直訳を避けているところが素晴らしく、雰囲気までもがうまく訳されています。

ストーリーがどういうテンポと広がりで繋がって行くのか、これはどうでもいいことではなく、英語でこの本を読んだ時に感情の機微の正確な描写、執事と主人の間の時間の流れに感動したのです。そしてすぐに、「源氏物語と同じようだ」と感じたことがこの本を読み続けられる原動力になっています。

カズオ・イシグロの本の中では「日の名残り」が彼の持ち味が遺憾なく発揮されているものだと信じています。英国社会特有の執事の話です。ご主人様に仕える人のことを書いているのではなく、仕える立場を全うする人間の眼に映る世界がテーマです。しかし心理学的説明はなく、生々しい感情の動きが正確に描写されています。自分であることより仕える立場を優先したらどんな人生が展開するのでしょうか。そこには正しいとか間違っているとかが入り込む余地はあるのでしょうか。仕える人の自由はどこに見出されるのでしょうか。あるいはそこにそもそも自由はあるのでしょうか。自らの感情を執拗なまでに抑えて生きてゆくのです。執事は奴隷ではないですから、自分で判断する空間はあるのですが、自分で判断しながら、同時に仕えている立場という成立しないものを成立させるのが執事と言えるのかもしれません。カズオ・イシグロは淡々と語り続けます。深い哲学に血が通うのがこの本です。
この執事の立場に目をつけて、そこでも自由の解決の糸口を見つけられるのか、イシグロは全力投球です。しかしそこには読者を誘い込むような時間が流れるのです。私はここが彼のユーモアだと信じています。私には、いい本とかいう評価ではなく、ありがたい本なのです。