2016年3月20日
義父が弾いていたグランドピアノが今我が家にあります。四十年以上の間、義父はほとんど毎日ピアノを弾いていましたから、そのピアノが人手に渡ってしまうのは忍び難く我が家に引き取ることにしました。
義父の喜びを分かち合ったそのピアノは、弦が木に深く染み込み余韻を残しながら消えてゆきます。普段ピアノに感じる無機質なものはなく、音は呼吸をしている様でもあり、ときには静かに祈る様に感じることもあります。
義父はバッハの音楽を精密機械の様に正確に弾くことが喜びでしたから、晩年思う様に弾けなくなってからはだんだんピアノから遠ざかってしまいました。八十五歳の誕生日のときに、「指が動かなくなってしまった」と寂しそうでした。
義父の喜びの一番の理解者だったそのピアノは今我が家に居場所を移し新しい弾き手に胸を貸してくれています。
このピアノは私が持っていたピアノへの偏見を取り払ってくれました。
一音がとても良く響くのです。
ピアノはライアーと違って指と弦の間にたくさんのメカニズムがあって、大抵のピアノの場合、そのメガニズムが気になってしかたがなかったのですが、義父のピアノは、長年義父と付き合ったために、まるで義父の腕の一部にでもなってしまったかの様で全く気にならないのです。だからしばらくピアノに付き合ってみようかと思っています。
手始めにバッハのゴールドベルク変奏曲のアリアの旋律を弾いてみました。
2016年3月14日
時間のことを考えている時に、「一番濃い時間は ?」という問いが浮かんできました。
時間を濃いとか薄いとか言ってもいいようない気がしたのです。濃い時間は今です。濃いというのは充実していることですから、今が一番充実した時間だと言っていいようです。今を充実できれば人生が充実するような気がします。
次に濃いのがこれから来る時間で、一番薄いのが過ぎ去った時間です。
過去に囚われるのが人生の中で一番時間を無駄遣いをしているような気がします。
過ぎ去った時間は、時間の死骸のようです。
時間は生命そのものです。生きているというのはなにはともあれ時間とともにあるからでしょう。
しかし今というのは普通にいう時間とは違うもののような気がするのです。
普通にいう時間はのびのびしています。前に伸びたり、後ろに伸びたりです。ところが今というのはのびのびとは逆で凝縮しています。生命とか、生きているとかいうものよりずっと死に近いものを感じるのです。
私たちは生きながら一瞬一瞬死に直面しているようなと言って見たくなるのです。
2016年3月12日
妥協を辞さない無農薬、無肥料で農作物を作ること。それは世界観の転換をもたらすものだと、無農薬、無肥料でリンゴを育てた木村秋則さんの実践を報告された石川拓治さんの本を読んで教えられました。ただ教えられたというだけでなく、この事実から多大な勇気もいただきました。
ずいぶん前から奇跡のリンゴなるものがあることは耳にしていました。一度そのリンゴを食べてみたいと思ってもいました。でもその時点では青森の一農家さんが無農薬、無肥料でとても美味しいリンゴを作っていらっしゃるという程度の浅薄な情報しか持ち合わせておらず、噂の奇跡のリンゴが正真正銘の奇跡のリンゴであることは想像だにしていませんでした。
有機農法、自然農法はいまだ少数派とは言え現代社会に定着しつつあります。しかし木村さんの筋金の入った徹底ぶりは、こうした有機、自然農法とはいささか次元の違う現実を実現された、心から奇跡のという形容詞に賛同できる、正真正銘の偉業でした。
現在私たちが目にすることのできるリンゴの木はほとんどが(すべてと言っていいかもしれません)品種改良を重ね、農薬、肥料を使うことを前提に存続できるものだということを、この本を通じて初めて知りました。原種のリンゴとは似ても似つかない現代風リンゴの木は遡ること200年ほど前から始まったものだということです。無農薬、無肥料でリンゴを育てるということは200年前に木を戻して育てるということなわけです。それをすることがほとんど不可能に近いことは素人の私にすら想像できます。それを実践しようとすれば・・、木村さんはキチガイ扱いされていました。
私はこの本を読みながら二つのことに驚いていました。
驚くべき一つ目は、木村さんの勇気です。信念、憑りつかれている、そう言えなくもないのでしょうが、私は敢えて勇気と言わせていただきます。木村さんには一番合っていると思うからです。そして木村さんの並外れた直観力です。二つ目は、そうした過程を経た今日のリンゴの木でも、まだ200年前に戻ることができるということでした。農薬も、肥料も知らないその当時の野生の姿にです。リンゴの木が幾重にも人工的に手を加えられても、再び本来の、自然に備わった生命力で育つことができという事実に私は驚きました。驚き以上に喜びでした。そして勇気をもらいました。
それがどのくらい大きな意味を持つものなのか、農業を知らない私にはもちろんおぼろげながらにしかわからないのですが、それは木村さんを抜きは考えられないことだということだけは、理解しています。
木村さんはほぼ200年をたった一人で8年の歳月を費やし巻き戻してしまったのです。かげで多くの人に支えられながらも、一人でです。木村秋則という人間は百年先から見るとすれば天才と映るに違いありません。不可能と言われていることを可能にした人間としてです。新しい農業ジャンルの創始者として。
農業の世界では木村さんの偉業はすでに大きな波紋を呼んでいます。世界中から木村さんのお仕事は評価されつつあるわけですが、私は木村さんの成し遂げた偉業は農業の世界だけにとどまるものではなく、人間の生き方全般に大きく広がっていってほしいと願っています。特に医療の世界で、木村さんによって日の目を見た考え方はしっかりと評価されなければならないはずです。病気とは何か、病気を治すとはなんなのかにメスが入らなければならない時代をこれから迎えます。病気と健康をテーマにする時大きな力を提供してくれると信じています。
昨今、時代の寵児になった一つにスピリチュアルがあります。すっかり一般社会に定着した感がありますが、それだけにどこか怖い気がするのです。古来からスピリチュアルは人間の本質を鍛え、向上させてくれる神的世界からの伝言でした。ところが最近の口当たりのいいスピリチュアルはどうでしょう。品種改良された口当たりのいいリンゴのようなものではないのか、木村さんの徹底した仕事を振りを追いながら、そんな気がしてきたのです。正真正銘のスピリチュアルがいま望まれていると、真に神的なものと出会わなければならないと。そのことを肝に銘じ、そのために精進しなければならないと自分に言い聞かせました。
いずれにせよ木村さんによって示された自然の中に備わった力を徹底して信じて生きる姿勢は、これからどんどん理解者を増やしてゆくと思います。それは木村さんのお仕事の本質は農業改革として理解されるだではなく、世界観を支える人間の倫理に関わるものだからです。