数学と人生、そして抽象化とテレパシー。 その二

2016年1月6日

はじめに言葉ありき。よく耳にする言葉だと思います。ヨハネ福音書の冒頭にあるものです。

ここで「言葉」となつているのは「ロゴス」という古典ギリシャ語を翻訳したものです。

聖書がマルティン・ルターによってラテン語からドイツ語に翻訳された時、ロゴスは言葉 Wort(英語のword)となって、それを日本語でも周到したものです。

ロゴスの意味は多岐に渡りますから、「言葉」と訳すのはとりあえずは正しいのですが、何か物足りません。少し大袈裟かもしれませんが、数学と置き換えてもいいし、思考力と言い換えてもいいし、あるいはアイディア、想像力でもいいのです。私は最近秩序というのもロゴスではないかと考えるようになっています。

ロゴスを言葉という意味に限って理解するようになって、その後の西洋キリスト文化に相当影響したに違いありません。なんでも言葉で言えるという言葉至上主義はその一つの弊害です。ついには神様のことも言葉で説明できるのだと考えるようになってしまったのですから。これは間違いなく奢りであり勇み足です。

そんなことも踏まえて言葉を使うということを整理する必要があると思います。というのは言葉に頼りすぎた反動がこれからくるような気がするからです。

同時に言葉でない、言葉を超えたコミュニケーションについても考えてみたいと思います。

 

言葉が心をそのまま写している生き物だった時があるのではないか、そんな風に考えています。その時は言葉を使っている人間の心の中、思いが言葉にそのまま入り込んでいただろうし、それを聞いている他の人間は、またそれが本当か嘘かがすぐに分かったのだと思うのです。ということは、自ずと人間は真実しか言わなかった、少なくとも本当のことを言おうと努めた、そんな気がするのです。

いまは言葉は落ちぶれて、心を伝える道具というよりも嘘をつく為の道具になってしまいました。最悪は政治の世界です。

一般人の生活の中で言葉はどうかというと、嘘をつくことが同じように蔓延しているでしょうが、実生活で嘘ばかりついていると人間関係は政治のように力の比べっことは違い、人間味のあるものですからお互いの関係が作れなくなってしまいますから、こちらでは嘘の道具とまで落ちてはいませんが、固定概念、先入観念の道具であることは間違いありません。簡単にいうと洗脳の為に大活躍です。言葉によって洗脳された心は金縛りにあったようなものなのですが、本人は気付かないのです。そして洗脳された人ほど、これはこういうことだと偉そうに言うようになってしまいます。

言葉の命を取り戻す必要を感じるのです。しかしどうしたらいいのでしようか。

言葉は常に意味を持っています。その意味は大抵一つのことを言おうとするのです。それによって作られてしまう固定観念、先入観念から解放しないといけないのです。つまり言葉から一つの意味だけでなく、幾つもの意味を汲み取るようにすればいいのです。意味は大抵一つの立場から決められますから、物事は色々な見方ができるのだと知ることが大事になってきます。

これからの時代は、一つにこだわらない余裕、つまり遊びが必要だと言えると思います。遊び心を開発して行けば、固定観念、先入観に悩まされることはなくなります。

言葉に囚われた知的世界の常識からすると遊ぶときにも規則がつきものですが、本来遊びは規則なんかに縛られていないもので、自由奔放なものです。さらに混沌としているカオスそのものです。かつて言葉がまだ生き物だった時には、今で言う文法のような規則に縛られることなどなかったのです。言葉は心そのものでしたから、とても感度が良く、そのまま相手に伝わったのです。言葉の感度が鈍ってから文法のようなものが必要になったのです。

そして心は海のようなものですから心そのものの言葉は流動的で四角四面の規則には治まらなかったのです。その時言葉はイメージに限りなく近いものだったのではないか、そんな気がします。 

イメージも流動的です。イメージの世界に入ろうとするならば、しなければならないことが一つあります。ただ一つ、混沌とした海の中を泳げるようになることです。その為には遊び心を持つしかないのです。イルカが水と戯れているようにです。イメージの海の中で遊ぶのです。

 

イルカの脳は人間の脳よりも発達しているという研究があります。大きさもはるかに大きく、さらにシワも多く深いのです。

ただ泳いでいるだけのイルカになぜそんな高級な脳が必要なのかと疑問に思う訳ですが、イルカはすでにテレパシーでの更新世界に生きているのではないかと言う報告もあります。

今人間たちは知性を極めて抽象化するところまで来た訳ですが、この抽象化のつぎの段階はイメージ化です。ただ抽象化かからイメージ化に行くには飛躍が必要ですから簡単には行きません。でもそこまでくればイルカのように海の中を遊びテレパシーで交信できるようになるのかもしれません。

イルカが人間より進化した動物だと言うつもりはありません。進化論というのも人間の思いついた奢りですから。

ただイルカの方が先に行っているところがあるのではないかそんな気がすることがあります。

数学と人生、そして抽象化とテレパシー。 その一

2016年1月6日

しばらくブログをお休みしてしまいました。

体調がもう一つ整わなくてと、体調のせいにしてはいけないのですが、体調が整わないと、体に力がないと、却って100パーセントのものを無理してでも書こうと力んでしまい、途中で力尽きて最後まで文章がまとめられないという悪循環でした。

ようやく60パーセントでもいいや、うまくいけば80パーセントまで行くかな、といったスタンスで書けるようになりました。

またお付き合いをお願いします。

そんなことを言いながらまた力の入ったテーマを選んでしまいました。尻切れドンボで終わってしまうかもしれません。60パーセントで書きますからのんびり読んでください。

 

ぼんやり生きているようでも、私たちは結構頑張っています。というより上等なこと、高級なこと、極めて精神的なことをやっているのです。例えば日々の生活がどう私たちの人生を豊かにするのかというあたりを見ると、日々の出来事は必ず抽象化というプロセスを通っているのです。

そのことでただの出来事がイメージになります。普通はそのプロセスを「豊かになる」と言い方で呼んでいるのだと思います。豊かな人はイメージをたくさん持っているということです。

ものをたくさん知っている人、概念で理屈を上手にこねる人ではなく、イメージの豊かな人のことです。

言葉にすると、たかが日常生活とは言えなくなってしまいます。

すごいことを日々やっているのです。

 

生きるということは、日々を積み重ねるだけでもなく、齢を積み重ねるだけでもないのです。豊かになるのです。

その豊かというのは、物質的なものではなくて、抽象化によってイメージ化されるものなのです。抽象化するところ、そこから生まれるイメージがミソです。イメージは意味とか概念とかとは全く違うものてす。

 

抽象化という言葉につまづかないでください。ちょっとわかりにくいかもしれませんがすぐに謎解きが終わります。

もしかしたら、大袈裟かもしれませんが、日々数学をしているとも言えそうな気がするのです。

「数学!? 抽象化!?」  

「俺は、私は今までにそんな難しいことは一度もしてきてない」とおっしゃる方もいらっしゃると思います。

心配しないでください。抽象化はありがたいことに人間ならみんなできることなんです。しかも、知らないうちにちゃんとみんなやっているのです。

どういうことかというと、要するに寝ればいいのです。

新年明けましておめでとうございます

2016年1月1日

     新年明けましておめでとうございます

           今年もどうぞよろしく御願いいたします。

 

日本では、大つごもりから元旦へ、除夜の鐘を聞きながら移って行きます。

反省と感謝の時であると同時に、これからやってくる未来にワクワクできる素晴らしいひとときです。

皆さんが素晴らしい年を思い抱いたと信じております。

その一つ一つが実現するよう、心からお祈りいたします。

                                         仲正雄