悟らなかった聖者

2015年12月3日

私の偏見かもしれませんが昨今はどうも悟りブームのような気がしてならないのです。

悟りがブームというのもおかしな言い方ですが、多くの人が悟りに走っているように見えて仕方がないのです。悟りたがっていると言ってもいいかもしれません。

だからどうだというわけではないのですが、気にはなっているのでそのあたりを書いてみます。

 

もともと私は悟りには興味がなかった人間だったようです。悟りたい、間が差してそんなことを思ったことがあるかもしれませんが、真剣に悟ろうと思ったことはありません。もちろんそのための修行もしていません。悟れないとわかっていたからかもしれません。そもそも怠け者で修行という類のものとは肌が合わないこともありました。

 

悟りと対になっているのは昔から修行です。修行を積んで始めて悟りがあるということでした。

最近のブームになっている悟りはこの修行が抜けているようなのです。修行を抜きにした悟りのように見えます。少し不自然です。そんなことを気にするのはわたしが古い人間だからかもしれません。

 

開き直って言わせてもらいますが、悟ってどうなるのでしょう。

悟とは分かることです。

つまり今の悟りブームは分かりたいということが根底にあると睨んでいます。

また開き治りますが、分かってどうなるのでしょう。

分かってしまったらもうおしまいだと思うのですが、そう思うわたしがおかしいのでしようか。

私はわ分かないでいる時が一番ワクワクしている人間ですから、分かってしまったらつまらないではないかと反論したくなるのです。

 

悟りたいというのは戦後の教育の成果とみてはどうでしょう。

学校では分からないというのが許されないことでした。分かろうとすることは大事とされていましたが、分からないと言えることの大切さは教えられませんでした。とても大事なことなのにそんな空気はありませんでした。分かったふりというのもあります。そんな嘘はいずれ尻尾が出てしまいますから意味のないことです。分からないときは堂々と分からないと言うべきです。それを教育は教えてこなかったような気がします。分からないでいることに耐えられない気質が学校教育の中で培われてしまった結果、人生の中にあっても分からないというのは恥ずかしいこととなってしまったのかもしれません。ですから分かりたいのです。その延長が悟りたいかもしれません。

 

今の悟りブームからは宗教の香りがしません。無宗教の悟り、きっとそれをスピリチュアルと呼ぶのでしょうが、私には安易な霊能力で悟ろうとしているように見えて仕方ありません。そもそも霊能力と悟りとは全く結びつかないもののはずです。

 

私は長年ルドルフ・シュタイナーという人間に興味を持っています。

彼のことを神秘主義者と呼ぶ人もいれば、霊能力者と呼ぶ人もいれば、普通に思想家と呼ぶ人もいます。教育改革者、医療改革者、農業改革者でもあります。実にたくさんの顔を持っている人です。

私は個人的には言葉の魔術師と見ています。彼の含蓄のある言葉、言い回しを噛みしめていると、彼には一つの大切なモチーフがあったことに気が付きます。

悟らない、これが彼のモチーフです。悟れなかったのではなく、悟らなかった。悟ろうともしなかった。

彼を終生貫いている、決して簡単に分かろうとはしない、つまり分からないものをいつまでも分からないと言える潔さに感動を覚えます。

 

分からないことには意味があり、それはまた美しいことだと私はシュタイナーから学んだのです。

彼は、悟らなかった聖者。

私は彼をそう呼んでみたくなります。

嘘の本音

2015年10月21日

人間は本当のことも言えますが、同じくらい嘘をつく存在です。

理想的には、人間とは本当のことを言う存在である、と通したいですが、現実を見ると嘘だらけで、人間とは本当のことを言う存在であるを信じる気持ちが大きくぐらついてしまうことがあります。

嘘が一番多いのは、皆さんもよくご存知だと思いますが、政治の世界です。次は政治絡みの歴史です。史実と言う言葉がありますが、ここからして怪しいものだらけです。

嘘にまみれた世界の人たちは、嘘をどこまで本当のこととして世の人に見せるかですから、そこで働いている人たちは「嘘の本当」を作ることに命をかけています。一番大切な道具は新聞テレビといったメディアです。

なぜ嘘と本当がごちゃまぜになるのかと言うと一つは欲で、もう一つはその欲が社会的な形になった権力のなす技です。

権力が何よりも幅を利かせているところが政治の場で、そこでは権力次第でどんな嘘も本当のことにすり替えられてしまいます。そんな場所で「本当の本当」を言っても台風の猛烈な風の中で蚊が飛んでいるくらいのものと思っていただけたらいいと思います。誰にも気づかれないまま消えてしまいます。

権力の座を欲している者同士が権力の座を狙って戦います。権力はそのため世帯交代を強いられていて長くは続きません。一つの権力と結びついた「嘘の本当」の命も同じように短いのです。権力者が変わってしまうと今までの「嘘の本当」が嘘だと言うことがばれてしまいます。しかし新しい権力の元で「本当の本当」が生まれるのかと言うと、そんなことはありません。次の権力に都合のいい嘘を、本当に見えるように塗り替えて、本当のこととして言い始めますから、別の「嘘の本当」が誕生するだけです。

視点を高いところにおけば、結局は、根本のところでは権力者の名前は変わっても同じことが繰り返されているだけと言うことなのです。

 

自分の子どもには「嘘をついてはいけません」と言って躾をしますが、そこで親は子どもに何を伝えたいのでしようか。

本当のことを言う子どもにしたいのです。本当のことを言える勇気を育てたいのです。

それでいいのだと思います。

なぜかと言うと、本当のことを言う時、人間は精神的に健全で、しかも体も健康だからです。

人間として透き通っていて透明感があります。

反対に嘘をつき続けると人間はだんだん暗くなって弱ってしまいます。

 

ちょっと端折った感じがするのでここで立ち止まってみます。

今まで本当とか嘘とかわかったような顔をして言ってきましたが、その境目はあるのでしょうか。あるとしたらどこにあるのでしょう。

一つだけはっきり言えるのは、世界共通の境目はないと言うことです。境目は一人一人違っていますから個人差のあるものです。ある人の本当は、別の人にとっては嘘だったりするのですから、厄介です。

しかもそこに先ほどの権力と言うものが入り込んでくると、外から加わる暴力ですから、本来は曖昧な境界線なのに、権力によってしっかりとした線が引かれてしまいます。世界共通の境目こそ「絶対嘘」なのだと言いたいほどです。

 

科学世界では、悪意のない嘘が存在しています。

新しい事実、本当が発見されたりすると、それまで科学的な事実、本当として認められていたものが崩れ去ってしまいます。簡単に言うと嘘として扱われることになります。

一つ例を挙げると、今から百年前の科学的な真実、本当は、人間は毎日二百グラムの動物性たんばく質を食べなければいけないでした。

今はそんなことを言ったら嘘つき呼ばわりされてしまいます。

しかしそこには悪意があったり権力による暴力があったりと言うことは、多分、ありませんでした。嘘ということになってしまったそれまでの真実、本当は、人間の科学的な検証能力の限界によっていたのです。おおらかに言いますが、その嘘は許される嘘です。それが許されるのは、科学が究極的には真実、本当に向かって絶え間なく努力しているからです。

スボーツの世界では新記録が出るたびに今までの記録は塗り替えられるわけですが、かつて百メートルを十秒で走っていた時代を嘘だとは言いません。人間の限界に向かってひた走りしていたことには変わりないからです。

百年前に「私はいつか月に行く」と言ったら、大ボラ吹きの大嘘つきと見られたはずです。その嘘はその後の人間の努力によって嘘どころか輝かしい真実、本当になってしまいました。嘘から出たマコトです。

そんな風に変わるんだと思うと、私もなんだか楽しい嘘がつきたくなります。

 

今日も私たちは嘘と本当の間を生きています。

嘘と本当の間に不確かな揺らぎを感じながら生きていられることを私は幸せに感じるのです。

母国語は心の泉です

2015年10月19日

日本では母国語という呼び名を廃止して母語にしようという運動に夢中になる知識人は沢山いても、人間にとって母国語が、日本人にとって日本語がどれほど大事なのかについて熱く語る人は少ないようです。

母国語は心を育てるものだということに気づいて欲しいと思い文章に向かっています。心が、毎日いろいろな体験をする中でバラバラにならないのは心が中心を持っているからで、その中心を作るのに大きく関わっているのが母国語だということに気づいて欲しいのです。ですから母国語の養成、子どもにしっかりと母国語を教えるという仕事は、外国語ができるようになる何倍も大事なことだと声を大にして言いたいです。

 

母国語を持たない人がいたらその人はどういう人になるのだろうと考えてみてください。

この問いかけ自体珍しいと思うので少し説明をします。

地球のどこかに生まれればその土地の言葉を聞いて話すようになります。そうするとその言葉が自動的に母国語で、人間が母国語を持つのは自然の成り行きと考えがちですが、原始の時代のどこかの部族に生まれ、そこで一生を過ごすのならそれでいいのでしょうが、現代社会は人間も言葉も入り混じっていますから、いろいろな言葉を聞いて育つ子どもがいて、その子たちはいろいろな言葉を教えられもしないのに話すようになるのですが、そのいろいろな言葉がみんな母国語になるのかというとそんなことはありません。

ここが大きなポイントです。

現代社会では母国語を持たない子どもができる可能性がとても大きいのです。

言葉が一つしかできない人たちは、日本人の多くがそうですが、バイリンガル、あるいは沢山の言葉ができる人を羨ましがりますが、母国語と人間の心の深い結びつきという観点からすれば、この現象は羨むことばかりではないのです。バイリンガル、多国語の子どもたちの中には、信じられないかもしれないですが、母国語というクウォリテーを持てない子どもができてしまうのです。

でもたくさん言葉ができることはいいことではないのですか、と反論があるかもしれませんが、母国語はただの言葉ではなく、ミツバチにおける女王蜂のようなもので、それを中心に言語生活は回っているものなのですと申し上げたいと思います。ある言葉によって心に中心が作られます。しつこいようですがそれが母国語です。母国語がないと心の中でたくさんの言葉が吹き荒れてしまい、それによって心に安定がなくなってしまい、心は疲れてバラバラになってしまいます。母国語が心に中心を作るのか、心がもともと中心を求めていてそこに母国語が位置するのか、どちらでしょうか。卵と鶏のような関係で正確には言えないところです。しかし経験的には母国語があるということと心の安定が作られているというのは切り離せない事実のようです。母国語を持たずに沢山言葉ができることは器用貧乏と同じです。

 

母国語がない人、母国語が持てなかった人の特徴だと考えていることを挙げてみます。

まず自分と向かい会う時のぶれがあります。自分で自分をごまかす術、ごまかすというのはきつ言い方ですが、二つの言葉の間を行ったり来たりする習慣は、自分に向かって言い訳をする習慣をつけてしまいます。

また、いくつもの言葉ができる子どもは思春期の頃になると自分のアイデンティティーとなる言葉を欲します。いくつもの言葉かできるのは、いくつもの自分がいるようなもので、どれが本当の自分なのかと自分に問いかけることになります。日記を書く時、どの言葉で書くのかという問題として理解してください。一つの言葉に選択できた子どもは幸せです。でもその幸せを掴むために、苦しいプロセスを通ることがあるのです。どの言葉も好きなのです。でも思春期にを迎えるとそれぞれの言葉に対していつもいい顔をしているわけにはいかなくなってくるのです。みんな大好きなのに、その大好きな言葉たちとお別れして、一つだけを自分の言葉と決めなければならない時が来てしまうのです。今まで何人もの人から、涙しながらこの辛いブロセスを聞かされました。

自我は人間の中心です。一つでいいということです。自我は二つなんて必要ないのです。それと同じように、心にとって母国語と言える言葉は一つでいいのです。二つ、あるいはそれ以上の母国語があるとなれば、それは多人格症候群と同じです。いくつもの自分と生きれば分裂です。

 

最近の日本の教育界の中には、英語を積極的に取り入れ、早いうちから英語教育に熱を入れ、英語で世界に羽ばたける子どもを作ろうと考えている動きがあるようで、ヒヤヒヤしながら見ています。ヒヤヒヤしてしまう理由は、英語に力を入れるあまり、母国語である日本語に手抜がなされているのではないと思うからです。そこには心の成長という深刻な問題がひそんでいるからです。

日本人は英語に限らず外国語が苦手です。苦手としているのは、日本語が右脳言語だからです。右脳的な発想からの影響が強いという意味です。もちろん言語は左脳に中枢があるものですが、日本語は右脳とも大いに関係しているという少し特殊な言語のように思います。英語はどうかというと、英語に限らず西洋の言葉はみんな左脳的な発想です。多分世界の言語で右脳的言語と言えるのは日本語以外外にごくわずかではないかと思います(もしかしたらないかもしれません)。中国語、ハングルも左脳言語です。その他のアジアの言葉も左脳言語です。疑問に思われる方もいると思うのですが、サンスクリットはインドゲルマン語と呼ばれるように西洋の言葉と同じ系列の立派な左脳言語です。

日本語は言葉の性格的な違いを克服しながら、大陸からの言葉をどんどん自分の言葉に翻訳して行きました。古くは泰の時代、それから少し時代を下って漢の時代、呉の時代、そして明治に入ってからの英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語等々、貪欲に翻訳語を見つけ、文章そのものも柔軟に対応し変革しながらどんどん日本語化して行きました。このエネルギーが日本の近代化を生み出した一番の力です。産業経済の分野だけでなく精神文化としても多分かを言葉を翻訳することで取り入れてきました。そしてこれからもこのエネルギーによって日本の文化は支えら、発展してゆくことは間違いありません。

ところが、安穏としていられない問題がここにあります。日本語がぐらついているのです。ということは日本の将来がぐらついているということにつながります。これは今考えなければならない問題で、一度失われた言葉は動物の種が絶滅するようにもう帰ってくることはないからです。

母国語としての日本語を保ちつついかに英語を学ぶかに関しては先人が示してくれたものがあり、それは大きな財産なのですが、今は時代が違い、社会のを生きているスピードが比べ物になりません。 インターネットの言葉はほとんどが英語です。英語力はネット上での検索能力に比例すると言っても過言ではありません。英語の力をつけなければ情報収集で世界の進歩に置き去りにされてしまうという発想、危機感はそこからも来ます。

世界を風靡している英語信仰は日本だけのことではなく、発展途上国は徹底した英語教育を取り入れて、世界に羽ばたく子どもたちを必死で養成しています。この様子を海外で見てくると、日本は置いてきぼりになってしまうと思うのでしょう。世界の大学リストが先日出て、それを見ると日本の大学教育は世界の中でどんどん順位を落としていますから、そうした危機感が英語教育を更に煽るのかもしれません。

私は別に英語などどうでもいいと言っているのではありません。英語を外国語としてしっかり身につけさせるには日本語という母国語をしっかり子どもの中に作ってあげなけれはならないと言っているだけなのです。今の日本の子どもたちは英語力が足りないのではなく、学ぶ意欲が足りないということも指摘しておきたいと思います。

日本語をほったらかしにして英語をもっと教えようなどいうのはもってのほかです。母国語という中心がしっかり確立していない子どもに英語は付け焼刃のようなもので終わってしまうと思います。母国語の上に外国語は建てられます。日本語と言う土台がないところに外国語という建物を建ても砂上の楼閣ですぐに崩れてしまいます。しかも学ぶ意欲がなれば、英語の時間を増やしても意味がないのです。

 

母国語を持たないとどうなるかという問いをはじめに出しましたが、普通に日本で生活しているだけだと見過ごしてしまう問題です。

結論をいうと、母国語の問題は心の問題です。母国語教育をないがしろにしたら子どもの心を育てることができないのです。心が育つというのは心に中心ができるということです。心を独楽にたとえてみます。いろいろな思いが心の中を行き来します。動き回っています。そうした動きをまとめるために中心が必要なのです。スパイラルの中心です。軸がいくつもあることは望ましくないのです。

心が育っていない人間からは直感が生まれません。混乱した状況の中で判断を迫られる時、そこではたくさんの知識、情報、あるいは経験といったものより直感が決め手です。情報量より、直感です。心が安定している時にこの直感は生まれるのです。心の安定は母国語で培われるものだということですから、私たちが将来の子どもたちにしっかりした日本語教育をするというのは、日本の将来をも作ることになるのです。

 

中心を持った安定した心からしか相手というのは見えてこないということも知っておいていただきたいものです。ですから不安定な心の持ち主とは生きたコミュニケーションができないのです。外国での商談のとき、仕事の話し合いはなんとかつじつまが合わせられても、その後のプライベートな会食の時にコミュニケーションが成立しないとなると悲劇です。話すことがなく、話しにつまってしまい、場がしらけてしまった。これに似たことは今までに随分報告されていてよく聞く話しです。そんな人間は魅力がなくすぐに飽きられてしまいますから、ビジネスとして将来のお付き合いにも影響してくることは当然考えられます。機能的で、効率のいい優秀な人材養成が教育の主眼になって、子どもたちを社会で立派に機能するように育て上げられれば教育は成功したと考えることもできます。英才教育で英語をしっかり身につけるように訓練されます。英語で上手に用を足すことができるようになるのですが、言語はそうした機能のための道具だけではないことを忘れてはいけないと思います。人間は文化という一見無駄に見える、曖昧な豊かさを必要としています。この豊かさは私たちの生活の中のユーモアのようなものです。なければないで困らないように見えるのですが、実際になくなってしまうと、社会は、人間関係は擦り切れてしまいます。

言葉の美しさ、表現の豊かさのためにはまず何よりも母国語を子どもに教えることです。母国語は心の中心であると同時に子どもを守ってくれる家のようなものです。母国語がまずあってそこに外国語が研磨するように働きかけることは表現力を磨くには大切なことですが、母国語への関心が廃れてしまうと、子どもは心の豊かさを持ち合わせず、魂も乾いてすさんでいます。そうなるとせっかく能力がありながらその能力が発揮できないと言う状況が生じます。この能力というのは直感に支えられているものなのです。心が崩れてしまえば、住む家を失って、大金の入った金庫を持って当てもなく放浪しているようなものなのです。 

 

日本人は先端の科学的な知識なども結構日本語に翻訳されているために、日本語で勉強できたと言うことを真剣に考えてみていただきたいのです。そこに様々な研究が地道に行われる基盤があったのです。母国語でしっかり考えられたと言うことです。

では二つの母国語を持つ新しいバイリンガルというものを作るように国が真剣に取り組めばいいではないのかとも考えられます。私は、シュヴァイッツァーが自伝の中で述べている言葉を信じます。彼は母国語は一つしかないと言い切ります。単なるセオリーではなく彼個人の人生経験を通しての発言です。彼はアルザスに生まれます。そこは長い歴史の中でドイツになったりフランスになったりと悲しい歴史が繰り返されたところです。現在でも二つの言葉を載せている新聞があったりして、二つの言葉が生きている土地です。シュヴァイッツァーはそうした環境の中で育ちましたから両方の言葉が同じにできた人でした。しかしその彼が自分の母国語はドイツ語で、母国語というを人間は一つしか持てないものなのだと言い切るのです。

 

母国語で考える時、考えたことは生きるための力になります。母国語で考えるというのは迷わず考えられるということです。ここが大事です。母国語には迷いがないのです。母国語を持っているというのは、言葉とそれをしゃべる人間の間に隙間がないということです。この隙間が迷いを生みますから、母国語を持たない人、バイリンガルの人は必ず心に負担を感じているのです。心の負担になれば思考にも影響してきます。外国語で考えるというのは不安定な乗り物に乗っているようなものなのです。そんなものに乗って周りに映る綺麗な風景が楽しめるはずがありません。

直感は言葉とは関係ないものですが、しかし母国語を持つことで生まれる心の安定、安心感は直感のために絶対にと言っていいほど必要なものです。直感は芸術家の専売特許ではなく、科学者たちの仕事はコツコツした研究ばかりが目についてしまいますが、実は科学者だってこの直感をとても頼りに仕事をしているのです。先端の科学者ほど直感力を高く評価しているものです。