詩の言葉の難しさ

2024年9月8日

詩の言葉と言うのは、意味を汲み取るだけでなく、そこに込められた感情、さらに意志のようなものを汲み取らなければならないため、母国語で読んだ詩も難しいのです。それを外国語でやろうとすると、母国語の時とは比べ物にならないほど難しく、普通の散文を読めるようになっても、詩はなかなか読めないものです。

なぜ詩の言葉がそれほどハードルが高いのかという事ですが、詩の言葉にはいくつかの意味が重複しています。二重の意味に気がつかないと詩の本意がつかめないと言うこともあると思います。あるいは象徴的に表現するので、具体性が乏しいと言う言い方にもなるのかもしれませんが、私たちが日常使っているようなすぐわかる言葉遣いとは違うものになってしまうのです。また暗示と言う手法もあって、色だとか形だとかといったものを引き合いに出して、言いたいことを直接ではなく暗示的に言い表すのです。それは想像力と言われたりもしています。

これができるのは詩の言葉が散文の時に使う言葉よりも凝縮しているからなのです。言い方を変えると、詩の言葉は散文の時の言葉よりも、もし測ることができるとすれば「重い」のです。だからといって、散文の言葉と全くかけ離れているかと言うと、そうではなく、散文の言葉を煮詰めたようなところがあるので、外国人からすると、その言葉の本意を掴むのが難しくなってくるわけです。

あることを表現しようとして、普通の文章で書くときと、詩で書くときと比べると、詩で表そうとすると、集中力が違ってきます。そしてできるだけ無駄なことを省いて、要点だけに焦点を合わせると言うことになります。私が大変お世話になった、名古屋のやまさと保育園の故後藤淳子先生は「園の連絡帳を和歌で書きなさい」と職員の方たちに言っていました。現実には難しいことです。けれども、それをやろうとした先生たちの感想は、「和歌で書こうとすると、子どもの良いところがたくさん見えてくる」でした。しかし表現する力は素人ではなかなか難しく、実現はしなかったようです。

この話は詩の本質をよく伝えていると思います。詩と言うのは回り道をせずに、本質にたどり着こうとするものです。普通の文章では、主観的になってしまうものが詩の力を借りると主観を超えた違う次元の世界からものを見るようになります。普通の文章を書くときの意識とは違うところに意識が行くので、言葉選びが難しくなります。紀元前にインドでは既に数学と天文学が高いレベルに達していて、そこで研究の発表をしようとすると、当時のしきたりでは、普通の文章で書くのではなく、詩で綴らなければ論文としては認められなかったということです。詩で表現することで理解が深まっていると言う事実を見せなければならなかったわけです

最後に詩の大きな特徴を言うと、詩は歌われることを望んでいると言うことです。ただ読むのではなく、できれば声に出して読み、さらにそれが歌にまでなると、詩と言うのは完結するのではないのでしょうか。詩の言葉が高い次元から来ると言いました。その高い次元に行くためには、日常の言葉を一度「殺さなければならない」のです。文学的に殺すのです。まさに死して生まれよと言う言葉が言っていることそのままです。詩の言葉は一度死んで蘇ったものなのです。それだからこそ難しい訳ですが、新しい命を得て、深い輝きを持っていることも事実です。

芸術は無用なのか

2024年9月7日

日本だけでなく、最近ではドイツも高等学校になると、芸術科目、あるいは体育などの時間が削られて、その分いわゆる日本で言う受験と言う流れの中に授業全体が組み込まれていきます。ドイツではアピトゥアー、という一斉テストがあり、日本での全国共通テストのようなものですが、それが実際に受験にあたり、そこでの成績によって大学進学が決まります。

その受験科目に昔は運動とか芸術というものが含まれていたのですが、最近ではそれはなくなってしまいました。それと同時に、高等学部での芸術科目、体育科目はなくなったてしまったということです。

その傾向を見ると、結局勉強と言うのは受験と言うもののために存在していると言うふうに言えるわけで、日本やドイツに限らずおそらく世界中でこの傾向は顕著になっていると思います。なぜ受験科目から芸術とか体育がなくなったのかは分かりませんが、もしかしたらそんな科目は必要ないというのが先で、その科目を削ってしまって、その結果、それを試験する必要がなくなったと見たほうがいいのかもしれません。

いずれにしよう芸術や体育などと言うのは、無用の長物と言う位置づけになってしまったわけです。確かに現実からすれば実用性は無いわけで、俳人、松尾芭蕉が言うように、「俳句は夏のこたつのようなもの」と言うのはを額面通り受け取ってしまえば、確かに役に立たない無用の長物と言うことになりますが、芭蕉はそういう意味で言ったのではなく、確かに実生活に役立つものではないが、実はそれが故に大切なものだと言う含みがあるのだと思います。そして当時そのことは多くの人に支持されていたのです。

ある試験に出てくるような問題をドリルして、練習して、何回も繰り返してできるようになると言うのも成長期の子ども達にとって一つの訓練なのでしょうが、芸術、音楽とか美術とか、それ以し外のいろいろな芸術的なものと付き合うことで、磨かれる独特の感性というものが無視されているのです。確かに測れないものですから無視されやすいですが、ないのかといえばやはり何かはあるはずです。それは直接に役立つかどうかと言う観点からすれば、役に立たないものと言うことになりますが、実は役に立たないが故に大切なのだと言う人生の不思議を宿しています。

私が高校に入った時は芸術科目があって、音楽を選ぶか美術を選ぶかと言う選択でした。芸術科目があると言うのは何の疑いもなく前提でした。音楽ができて何になる?なんて問いを出す人はいなかったのです。絵が描けてどうする?なんて言うことは聞く人がいなかったくらい、当然のものでした。人間にはそう言うものが必要だと、社会レベルで確信していたのです。今から見るとのんびりした時代だったと言えそうです。

今はそれが欠如してしまったのです。アメリカ的プラグマティズム、実用主義が中心になってしまい、それこそ役に立つか立たないかが最終的で決定的なものになってしまったのでず。こうなってしまっては、人間は社会のために機能する道具になるかならないかと言う選択しかなくなってしまいます。私が見るにどうやら人間は道具になってしまったようです。

芸術が大切なのかどうかよりも、本当は人間は道具なのかどうかと言う問いが大事なのだと思います。社会と言うのはいろいろな意味を持っています。人間が共存していくための様々な要素が混じりあったものが社会だと思います。ただ今日のように社会といった時に経済を中心に考えた社会構造がいの一番に優先され、社会的努力はほとんどがそちらの方に向かってしまいます。これでは社会はいつか破綻してしまうはずです。人間は機械ではないからです。機械にはなりきれないのだと思います。実は機械というのが人間を真似したものでとは言え、人間のすべてを写せたわけではなく、人間が効率的に良いと理解した部分だけを機械のほうに落としていったと見るのが正しいのではないでしょうか。もし人間の全てを機械に移したならば、機械も芸術を楽しむ余白というか、余韻を備えつけてもらえたはずです。

ここまで来てしまった社会の動きはもう後戻りすることができないでしょう。しかし、新しい観点から芸術と言うものの必要性をもう一度理解し、それを何とか実生活の中に、教育の世界に落とし、人間の成長の一端にする事は将来を考えたときに大切なことだと思います。芸術と言いましたが、基本的にはある意味で「無駄なこと全般」なのかもしれません。無駄を削ることが大切なのか、無駄と言うものを含みながら人生を理解するのかということだと思います。

シンガーソングライターとしてのシューベルト

2024年9月7日

シューベルトの死後に書かれた友人の手紙の中に、シューベルティアーデと言うシューベルトを中心にした友人たちによるプライベートな音楽会の初期に、シューベルト自身で彼が作曲した曲を自分自身でピアノを伴奏し歌っていたということが記されています。その後、シューベルトの歌がだんだんと世の中に認められるようになり、ウィーンのオペラ劇場で歌っていた歌手までが、シューベルトの歌を歌いにシューベルティアーデを訪れるようになったのですが、その手紙の中では上手な人はたくさんいたけれども、シューベルトが歌ったシューベルトの歌が一番美しかったと懐かしがっているのです。

初めてその手紙を読んだときには、そうだったのか位にしか感じなかったのですが、何十年もシューベルトの歌を聴きながら、私もできることならシューベルトが歌う自身の歌を聞きたかったと、だんだんと思うようになったのです。

シューベルトはこうしてみると、時代の先端を行ったシンガーソングライターと位置づけることができるのかもしれません。シューベルトは今で言うウィーン少年合唱団にいたので、歌の訓練なども受けていたのでしょう。きっと彼の歌にふさわしい声で彼の歌を彼が感じたように歌ったのだと思います。これがシューベルトのオリジナルと言っていいのかもしれません。

今日でもオリジナルではなく、カバーと言う言い方で、他の人が他の人の持ち歌を歌うことがよくあります。ビートルズのイエスタデイなどは何人ぐらいの人に歌われているのかわからないほどです。エディット・ピアフの愛の讃歌も同じで、たくさんの人がしかもそれぞれの言葉に訳して歌っています。私の知り合いでフランク・シナトラのファンと言う人がいて、フランク・シナトラの歌を聴きにアメリカまで行った位の人で、その人のもとで彼が持っていたレコードでフランク・シナトラが歌うMy Wesを聞いたことがあります。この歌も前の2つの曲ぐらいたくさんのカバーがあるようですが、初めてフランク・シナトラが歌うMy Wayを聞いたときにはなんだか本物は違うと言う印象が、何の迷いもなく私を襲ってきました。淡々と歌ってるんです。サビと言ったらいいのか途中から盛り上がるところがあるんですが、そこも特にドラマチックに盛り上げるのではなく、しんみりと盛り上げている感じでした。カバーで聞くと、そこのところは大体はドラマチックな盛り上がりを強調しているようなところがあって、それしか知らなかった時は、そういう曲なのだと思っていましたが、フランクシナトラのオリジナルを聞いて深く納得したのでした。

こうした経験からシューベルトの歌う歌というのを考えてみると、無性に聞きたくなってきます。今日に至るまで、何百と言う歌い手によって、シューベルトの歌は歌われてきたわけですが、それらをカバーと言う概念に当てはめてみれば、シューベルトのカバーをしていると言うことになるのでしょうか。

今日のクラシック音楽では既に100年100年300年といった年月を隔てて作られた曲が演奏されるわけですが、こうした形が生まれたのは、メンデルスゾーンが、バッハの教会音楽を演奏したところから始まるのだと言われています。それまでは作曲家が自分で指揮をしたりしたものが、演奏会で上演されたわけです。シンガーソングライターでは無いですが、作曲家自身が自分で作った曲を演奏したと言って良いのだと思います。それが今日ではいろいろな人がいろいろな解釈と言う名のもとに演奏したり歌ったりしているわけですが、オリジナルにはきっとオリジナルにしかないなんか特別な使命のようなものがあったような気がします。ジャズの世界でも、最近はずいぶんオリジナルをカバーしたようなもの、しかもそれをなるたけ正確にカバーしたものが演奏されているのだと言うことを聞きます。

カバーと言うのは見方を変えれば、その音楽のもっている別の可能性を引き出しているともいえます。ですから一概にカバーは良くないと言う言い方で切り捨てることができないのでしょう。加パーの方が上手だと言うこともあるかもしれません。とは言え、オリジナルと言うのはそれなりの使命とエネルギーを持っていると思うのです。それに接することができると言うのは、音楽を楽しむ人間にとっては大変な楽しみでもあるわけです。

クラシック音楽のように再生音楽と言う形をとっているものが今後どうなっていくのか私にはわかりませんが、ただ一つ予感できるのは、そうした音楽がだんだんと記号化していってしまうのではないかと言うことです。YouTubeには、1人の人間が一生かけても聞けないほどの曲が待機していると言うことですから、もう今の時点で音楽が記号化してしまったと言っても良いのかもしれません。

昔、能楽に関する本を読んでいた時に知ったことです。お能で上演される演目の相当数が世阿弥・観阿弥によって作られたものだと言われています。室町時代ですから、もう500年以上前と言うことになります。500年の間同じ演目がずっと上演されてきたわけで、それだけ聞くと、もうとっくにマンネリ化してしまって、伝統という名の下に醗酵してしまって、つまらないものだと言う言い方もできるのでしょう。ところが、その本の中では、お能はリハーサルの様なものがなく、本番の舞台で4人の囃し手、そして譜いの人たち、仕手までもがぶつかるのだそうです。それは即興と言うことになると書いてありました。500年間、毎回上演のたびに即興をしていたんだ、毎回アドリブと言って良いものだったのだと感動してしまいました。こういったことが日本だけで起こっているのかはわかりませんが、何かとても新鮮なような恐ろしいことのような気がします。

クラシック音楽は楽譜が残っていると言うところが強みと言う言い方もできるのでしょうが、楽譜によって伝えられたものと言うのは、オリジナルから相当離れてしまうと言うことも言われています。マンツーマンで指導を受けて、1000年と言う歴史の中を生きてきた日本の雅楽は直接指導を受けたと言う利点があって、もちろん想像でしかないのですが、おそらく1000年前とそんなに変わっていないのではないかと言われています。オリジナルに忠実なのでしょうか。

これを機会に、カバーでもなく、真似でもない、オリジナルというものの持つ意味を考え直してみたいと思います。