詩の心
名古屋でお世話になったやまさと保育園の園長であり理事長であった後藤淳子先生は七十を過ぎてから毎日のように短歌を読んでいらっしゃいました。生涯で二万首以上を残されています。
先生の読まれた歌は私たちに馴染みのある和歌として優れたものかというと必ずしもそうではないものなのですが、読むものに先生の心の中か見えてくるような直接的伝達の力がある、後藤流な短歌と言えるものでした。とはいえ詩心からの発露ですから短歌をまとめたものをありがたく読みました。
先生はことあるこどに職員の方達にも和歌を読むことを薦められてましたが、やはり和歌を読むというのは簡単なことではなかった様です。さらに日々の連絡帳は短歌で綴れなどと、私からすれば暴言とも言える様なことをおっしゃっては職員を困らせていました。もし実際にそれが実現していれば連絡帳革命として保育の世界に衝撃をもたらしたかもしれません。
連絡帳が詩の形で綴られるなんてまさに夢の様な話です。
歴史に残る和歌の言葉には情緒以上の重みがあります。言葉以上の言葉の奥にあるところから歌に託されたものでした。言葉と言葉の間に深い情感が込められているものです。心を和歌のような詩に綴るというのは今日のように頭で物事を整理する時代では難しいものです。というのは詩の世界というのは理屈や論理とは別のもので、頭を空っぽにしないと出てこないからです。私たちの時代は論文にしろ、新聞記事にしろ散文で書かないと意味が伝わらないので、理屈っぽい文章が溢れています。しかもネットの時代になってからは、散文といえないほど省略された文章が目立ち、さらに拍車をかけているのは絵文字での会話のやり取りです。そこまでくると言語的自殺と言ってもいいもので、これから先の人間の言語生活が思いやられます。
詩で気持ちを表す習慣は、日本にはそれでも俳句や和歌を通してまだ息づいていて、数千万人の人が俳句や和歌に接していることが報告されています。もちろんその出来はただ形を整えただけのものから優れた作品まで大変な幅があるわけですが、ピラミッドの様なもので底辺が広ければ頂点が高く聳えるわけですから、多くの人が詩を綴る気持ちで言葉に接するというのは喜ばしいことです。日本の言葉というのは論理的な傾向よりも情感に傾いているのが、詩心が生き延びているのかもしれません。
詩というのは頭で考えて作るものではなく、頭を空っぽにして、歌いたい事柄と向かい合い一つになる時に生まれるものなので、言葉選びに繊細になります。歌にして読むというのは散文を書くのとは違い、決断のような勇気のいることだとも思っています。潔い言葉ともいえます。俳句の芭蕉が、何度も推敲を重ねて俳句として仕上げたと聞くと、頭で考え抜いて作ったと思われがちですが、そこは芭蕉のことです、頭で推敲したのではなく、心眼で推敲していたのだと思います。まずは俳句として読まれたものを、いかに俳句の精神、俳句の神様が宿るようなものに近づけられるのかという切磋琢磨であったということです。助詞一つを変えるだけでガラリと世界の風景が変わってしまうのが俳句の世界ですから、知的に整理し意味を伝えることに専念するだげてはなく、言葉がどう連なるのか、言葉と言葉の間のバランス、言葉の響き、動きが吟味され、その配置も意識するとなると、考えて辻褄を合わせるだけではなく直感以外には仕事を進めてゆく力にはならないのです。さらに単語の選び方は意味だけでない、独特の距離感、バランスを持ったものです。散文に慣れてしまうと意味を伝えることに専念してしまいますから、言葉としてはのっぺらぼうなものになってしまい、詩の世界が遠くなってしまいます。まずは詩の心を養うところから始めなければならないのです。たくさん良い詩、和歌、俳句を読むことですが、普通に勉強するだけでは足りないことは想像がつきます。今日の様に教育が知的養成を目指しているところでは、意味の解釈でおわっしまい、詩の言葉のセンスを磨いて詩をを作ろうという様な余裕は無視されがちです。詩というのはわからない人にはチンプンカンプンなものだからです。詩は余韻が命ですから、意味のように直接的でないところが、多くの人の苦手とするところなのです。意味のつながらない二つの言葉を詩の心は繋ぐことができるのです。
詩や和歌や俳句は沢山作ると上手になるのですが、上手に作られたものが読み手の心を鬱かというとそんなことはないのです。技術は家を建てる時の足場の様なもので、なくてはならないのですが、足場だでは完成した家は建ないのです。もちろん沢山作ることで言葉のセンスは磨かれてゆきますが、詩というのは意味で綴るのではなく、心の品性、格、尊厳で対象が綴られる時に輝くもので、意表をついたりして奇抜な言葉で詩を作っても、目新しいだけのものでしかないのです。平常心の賜物なのです。心静かに大将に向かう時に、向こうから降りてくるものなのかもしれません。
色々な形に収めて綴ることもできますが、散文的に詩情を綴ることもできるはずです。その時の散文は、学術論文に使われるような散文ではなく、意味よりも言葉の響きと言葉のセンスと言葉の意志によって貫かれているものです。詩になることによって言葉は自らの意志を表しているということではないかと考えています。言葉の意志は詩(うた)いたいものへの畏敬の念から生まれるもので、そこから品格が備わるのです。さらに詩にすると物事がよく見えてくるものなのです。詩の世界に馴染むと、散文とは意外と見えにくいもの、見にくいもの、醜いものであることを感じる様になります。
もし保育の連絡帳が和歌や俳句や詩で綴られるようになれば、保育そのものの質が変わる様な気がするのですが。先生は子どものいいところがどんどん見える様になるのかもしれません。






