音楽家が聞いているもの
数多くの作品を残している作曲家たちは普通の人が手紙を書くよりも速いスピードで曲想を音符に移し替えて行きます。その姿を思い浮かべると作曲のイメージが変わってしまいます。普通考えているものとは別の次元のことがそこで起っている様に思えて仕方がないのです。とは言っても基本的には私たちも手紙を書いている時にはイメージしたものを文字にしているわけですから、基本的にはよく似たことなのかもしれません。創造性というのはそういうものなのです。
彼らは心の中でずく楽譜が見えているわけではないのです。それを見てそれを写しているわけではないのです。イマジネーションだったりインスピレーションを得てそれを楽譜に置き換えているのです。ピアノに向かって鍵盤を叩いて作曲しているとします。偶然にいいメロでいーが生まれたというような感じて音楽ができたとしたら、そんなものはつまらない音楽です。楽器の力を借りたり、頭で捏ね回して作ったものなんか聞くに耐えないものですから、一度は我慢して聞けるかもしれませんが、二度目を聞こうという気にはならないしょう。もちろんその音楽は後世に残る様なものでないことは明らかです。
何年も何十年もあるいは何百年も聞かれ続けている音楽はそういう音楽とは違って輝いています。その輝きは偶然にできたというものではなく、特別なものが輝いているのです。普遍的とも言えるような力を感じたり、あるいは真実と言っていいほどの何かが貫いています。それは偶然できたようなものとは違い、イマジネーション、インスピレーションを通して天上から降ってきたものとしか言いようのない何かなのです。
この事実は音楽というジャンルに限ったことではなく、芸術と呼ばれるものに共通して貫いている力です。多くの人から支持されるものというのは、人為的なものではないものです。天上と言いましたが、人智を超えた力が働いているところからの贈りものです。霊的な直感力と言っていいのでしょうが、霊という抽象的な感じがするのでここでは、多くの人の願い、憧れといったものがそこに集まっているところと言ってみます。そこは霊的な力と人間味の混ざった温かい場所なのかもしれません。芸術が人の心を打つのは深いところを貫いているその暖かさかもしれません。単に奇を衒ったものではない、普遍的な力が人類の憧れなのかもしれないのです。
芸術と学問を比べても意味がありません。評価と期待の基準が異なるからです。どちらも真理を求めているので、真理という言葉にしてしまえば同じに聞こえますが、芸術的真理と学問的真理とは全く別のものです。芸術は個人的なイマジネーション、インスピレーションに負うものですが、学問は批判的な立証という手続きが不可欠なものです。
シュタイナーは教育を芸術だと考えていました。教育は教育学があってできるものではない言いたかったのかもしれません。教育のバックボーンとしては教育学があって教育を支えることは大切なことですが、教育の本質は教育学ではなく、教育の要は教師だと言いたかったのではないのでしょうか。なになに教育というもので教育を実践したら、先ほどの楽器を使って作曲したり、頭でこね回した音楽のようなもので、つまらないものに傾いてしまうと考えたのかもしれません。教師と子どもの間に教育学が入り込んだら、教師の子どもを見る目が曇ってしまいます。それはパターン化された教育に陥ってしまう第一歩です。それは生きた教育ではなく死んだ教育です。
独裁政治の支配した社会で芸術が政治思想の代弁者になったときのつまらなさを思い出してみてください。芸術的感動はそこにはなく、パターン化されたプロパガンダ的な表現は実に退屈なものです。思想とか主義というのは実はパターン化が根底にあって退屈なものなのです。人間の持つ可能性や未知数というのは思想や主義を超えた神秘的なものだからです。
今の時代は物事があまりに整理されすぎていて、多くのものが規格品に成り下がってしまい、なおかつ人間の精神性は窒息状態と言っていいと思います。人間が一人一人自分の内面に深く入り込まなければならない時代なのです。そして一方で外の世界に関心を持たなければならないのです。それが精神的な意味での呼吸です。自分の内なる世界と外の世界とが行き来することで精神が戻ってきます。一人一人が違った呼吸をしているところでは精神が生きています。