言葉は生き物、例えば禅の公案について
言葉は生き物だと思うのですが、どうしたわけか色々な人からどういうことかとよく聞かれます。意味以上にニュアンスが大切たということですと伝えています。
今年はドイツも猛暑でした。39度まで気温が上がる始末で、日陰に入ればなんとか凌げた昔の夏が恋しく思われるほどでした。
そんなある日、日本語を勉強しているという人と話をしていて、丁度日陰で話しているときでした。いい風が吹いてきたのです。その人が「涼しいですね」というのを聞いて、日本人ならそうは言わないのではと思って、その後色々と思い巡らしていました。その時は何も言わずに「そうですね」とだけ言って終わったのですが、なんとなく違和感があったのでした。。
後日、別の日本語ができる人と話をしていて、その時の状況を説明すると、「仲さんだったらなんと言ったのですか」と聞かれたので「いい風ですねと言ったと思います」と答えました。「涼しいですね」ではいけないのですかときかれ、それでもいいわけですが、なんとなく日本語ではない様な気がすると答えました。日本人は暑いとか涼しいとかいうのは、直接は言わないものだからです。私には「いい風ですね」の方がより日本的な言い回しに思えたのです。風が運んでくれた涼を讃える方が、自分が涼しいと感じていることを言葉にするよりも状況がイキイキとしてくる様に思うからです。
こういう言い回しはドイツ語にはほとんどなく、自分がどう思っているのか、どう感じているのかがまず第一ですから、そのことをはっきりいうのが、ドイツ語的と言えます。「いい風ですね」と言っても「そうですか」と相手にされなさそうです。風が吹いたので、本人が涼しいと感じたという流れです。
英語の「I love you」を「月が綺麗ですね」という風に夏目漱石が訳したということですが、それほど飛躍しなくでもいいとは思うのですが、「涼しい」というより「いい風ですね」と自然を讃える方が奥ゆかしさがあって、日本的風情が滲み出ています。そんなの遠回りと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、この遠回りが奥深さ、面白さにつながるのだと思います。
禅問答に公案というものがあります。常識を超えて問答がされるのですが、このとんでもない問いと答えの中から悟りの道を見つけるという、禅ならではの格別の問答です。日本語というのはもともとこの公案の様なところがある様に感じています。例えば俳句の面白さは、説明上手というところにあるのではなく、全く方向を異にした様な発想を三つ並べて、一つの世界を浮き彫りにするというような妙技が、俳句の中では上等とされる様です。今や俳句は世界で愛され、数多く読まれていますが、他の言葉になると、俳句はもっぱら詩情の説明の術になってしまい、基本的には季語を使ったりしてはいるものの、川柳的な俳句が主流の様です。
ところが先日禅の考案についての講演会が行われたのです。それほどにドイツもなってきているのです。三十年前では考えられなかったことですから異変と言ってもいいくらいです。ドイツ語というのは、当時の常識からすると、論理的に整理することが至上命令でしたから、公案なんてナンセンスの塊で、即座にゴミ箱入りでした。ところが最近は知性だけではなく感性も、少しですが発言権を持ってきていて、矛盾したものなども受け入れる様になってきたのです。そこにこの間の考案をテーマにした講演会です。公案は矛盾の領域を遥かにこえ、ナンセンスなのですが、真面目で論理的なドイツの人がそこにも食いついてゆこうとしているのを感じるのです。ドイツも捨てたものではないと思ったりします。
意味から導き出せば 涼しいも、いい風も同じような結末になるのでしょうが、意味だけでない余韻の中で生き続けている様な取り止めのないニュアンスが日本の言葉にはあって、しかもそれがとても重要な要素であって、そこに至るにはただ言葉を勉強しただけではだめで、公案の様なナンセンスの中に真実を直感するようなものが身に付かないと、わからない事の様です。
ここで一つだけ付け加えないといけないと思うのは、シュールレアリズムというのがヨーロッパという土地に、二十世紀初頭にうまれ、それはヨーロッパの中で唯一ナンセンスにセンス(意味)を見出す努力をしていました。戦時中は軍部の猛反対にあって勢いを剥奪されてしまいましたが、私は個人的に精神衛生上とても大切なものと感じています。言葉でもナンセンスを見つけ出して、そこに新しいセンスを見出そうとしていて、そんな作品もいくつか生まれました。ミヒャエル・エンデさんの「鏡の中の鏡」はそんな作品だと思っています。現実世界から離れて考えるということについて言えば、西洋的公案なのかもしれません。