溢れている衣類、子どものもののフリーマーケットに思う
先日の日曜日に子どのもののためのフリーマーケットと銘打った催しがあり、行ってきました。私の娘が自分の子どもが着られなくなったものなどをまとめて展示して売るということでしたのでお付き合いでした。百店舗?ほどが所狭しと子どもの衣類、おもちゃ、靴、といったものを並べて売っていました。開催された場所がスポーツセンターで、そこの陸上競技のためのトラックの上で行われていたので、一周すると四百メートルあって、のんびりみて回って小一時間を過ごしたのですが、ほとんどの店舗がよく似たものを並べているのと、その膨大な量に色々と考えてしまいました。
どのくらい売れているのかというと、店によって違うのでしょうが、ほとんどが売れ残ったという事でした。ということは午後の四時に終了した時点で、あそこでみた子どもの洋服はまたみんなの家に帰ってゆくわけですから、家々に保管されている着られなくなった子どもの洋服は社会的な規模でいうと一体どうなるのだろうと、半ば絶望的な感覚に襲われてしまったのです。物質主義の時代の特徴とは、特に大量生産に入ってからは物が溢れているということの様です。溢れたものはどうなるのだろうかと考えてしまいます。もちろん捨てられるのです。今とは逆に精神主義の時代は時代できっと精神とかいうものが巷に溢れていたのかもしれないなどと気晴らしに考えていたら、少しは気が楽になりました。
街を歩くと、いろいろな店舗が並んでいて、どこの店を見ても物で溢れています。衣類だけでなく、生活に必要なものなのでしょうが、まさに洪水状態です。アクセサリーを売る店のまえを通った時に聞いた話なのですが、あそこで売られているもののほとんとがしばらくすると廃品扱いされるということで、愕然としてしまいました。物質主機の時代はものを作っていると同時にゴミも作っているのだということの様です。特に大量生産の時代になってこの傾向はますます大きくなっています。これも一つの環境破壊につながるものではないか、そんなことも考えてしまいました。
人件費の安いところで大量に作られ、それがドイツで安価な値段で売られるわけでつい買ってしまうのでしょう。かつての、日本でいう昭和の時代、それも最初の東京オリンピックが行われる前の、まだ経済成長が遅々としていた頃は、お母さんが子どもの着るものを自分て縫っていたものです。ゴムの入ったモンペのようなスボンを履いている同級生がいました。継ぎはぎのあるズボンなどは当たり前でした。お下がりという風習もあったようで、洋服ひとつが親戚の何人もの子どもに来てもらったわけです。産業が進み、生産力が向上すると、大量生産が登場しそれに巻き込まれてゆくわけで、そこまでくると産業とは、特に大量生産はもう立派な悪夢です。
今教育の場で物作りが見直されているとは聞きますが、この考えがどんどん広まって欲しいと願っています。ものを作る時代から買う時代になったわけですが、そこが諸悪の根源のような気がします。再びものを作る環境が生まれることを願うのです。ものを作る意味を考え直さなければならない時がきたのではないか、そんな気がしています。