ピアノのこと
ライアーの世界にいるとピアノという楽器が実に便利にできている楽器だ、まさに楽器の女王様と言われる所以だということを感じます。
その一方でこの楽器を弾きこなすのは並大抵ではないと思うことも多いです。
現代は録音という技術のお陰で数多くのピアニストの演奏に触れることができます。もちん録音を通してですから、録音状態などを考慮しなければならないわけです。そこをよく思わない方たちもいますから録音は悪魔の所業だということなのでしようが、私は必ずしもそうは思っておりません。録音には録音の利点もあると考えています。
私がライアーの録音に踏み切ったのは、そうした録音の利点の方を優先したからでした。当時は録音に否定的な方達から随分色々なことを言われたものでした。しかし私が録音した後には、雨後の筍の様にライアー奏者たちの録音が見られる様になりました。
ピアノの録音からは古今東西のものが幅広く聞かれます。録音というのは文学や思想の世界の翻訳によく似ていると思うこともあります。ライブでの生演奏を聞くに越した事はないのですが叶うものではありません。外国の小説も原文で読むに越した事はないのでしょうが、ほとんどは翻訳で読むのが今日の常識になっています。確かに翻訳では原文の持つ本来の味が損なわれてしまうのでしょうが、世界文学を全て原文で読まなければだめだとなると、生涯にせいぜい数冊の本が読める程ではないかと想像してしまいます。
私たちの文明社会はそうした「ズレ」の様なものを克服しながら成立しているとみる応用さが求められているのです。このズレを悪いものと決めつけてしまうと、文明は悪魔の手先によって作られているという解釈になる様です。しかし悪魔とは人間の進歩を助ける存在でいるとシュタイナーが考えていたと知った時、勇気がもらえたのを思い出します。
話が逸れてしまいましたが、ピアノに限らず録音されたものを比べて聞くのは実に楽しい作業です。同じ曲とは思えないような演奏に出会うこともしばしばあります。音楽というのは作曲されたものが演奏されなければ聴けるものにはならないわけで、そこにはいつも演奏者の解釈が介入してしまいます。文学作品でいうと、一つの文学作品に何百何千と翻訳がある様なものです。
そうしたピアノ演奏を聴いている時に、ピアノの持つ優秀な機能性に振り回されて弾いているという印象を持つものが多々あります。鍵盤の上を足速に、イヤ、指速く駆け回っているのですが機械的な演奏です。コロコロと音は巧みにつながっているのですが音と音との間に隙間があるのが気になるのです。響きは駆け回りながら動いているのですが、肝心の音の方はつながっていないのです。その様な演奏は聞いたその時よりも、聞き終わった後、しばらくしてからの方がよくわかります。思い込みの強い演奏もよく似ています。
反対にどんなに早くなっても、響きだけでなく音もしっかりつながっている演奏は音に潤いがあって輝いています。個人的には作品の解釈や表現に凝った演奏よりも、音と音との間に隙間のない余韻の深い演奏を評価しています。解釈や表現はどこかハッタリかがったところを感じるのですが、滑らかに連なった音の余韻からは人間としての誠実さを感じるのです。






