一番好きな言葉

2026年4月6日

好きな言葉なは何かなんて普通は聞かないものです。言葉は好き嫌いの対象ではなく機能を第一に考えるからです。正しく使われているかどうかが言葉では問われていることです。
しかし文学という世界での言葉は少し違うものの様です。極論すると、言葉が生きているかどうかとなります。

ということで好きな言葉、大切にしている言葉のことをお話ししたくなります。付き合ってください。
好きな言葉は心です。心理学が対象にしている心ではありません。応用心理学、行動心理学などの専門家たちがいう心は、私にとっての心とは大分違います。心の機能、つまり心理についてという風に扱われるものではないのです。私にとっての心は感じる心か感じない心かです。心はまず何よりも先ず感じなければならないと思っています。心を説明しようとする際に共感と反感とに分ける人がいます。その流れでいうと感じることはどこに位置するのでしょうか。共感と反感の真ん中、つまり中庸、共感でもあり反感でもあるという調和したところということになるのかもしれません。感じるというのは、ただぼんやりと感じているだけでなくとても知的なものでもあり、衝動的なものというよりも意志の力に満ちているものでもあります。
豊かな心というのは、たくさんものを知っていることは違うとはみんな知っているはずです。物知りは物知りでしかないのです。たくさんの知識があるということ、それはそれで立派なことですし、生きてゆく上でも社会的にも有益なことと言えますが、それは畢竟機能という点からの考え方です。心がそんなふうに機能していたら心は病んでしまいます。ひたすら感じることを使命としていると考えたらいいのではないかと思います。純粋に感じるだけの世界にいる時が人間は一番人間的なのではないかと思うのです。ただ感じるというのは今日的なセンサー反応とは違います。センサーは外からの刺激に反応しているだけで、私が言う感じる心とは別物です。センサーは条件反射的の世界です。これも感じるというのとは関係のない様です。
ホモ・サピエンスというのは私たちのことです。知性人、つまり知的に発達した種族となります。人間は自分達を知的存在と定義したのです。オランダの人類学者のホイジンガは人間を遊ぶ存在と考え、ホモ・ルーデンスと名付けました。心を持つ存在ということになれば、一番ふさわしいのがホモ・センスということになるのかもしれません。
心が感じていると他の人と共有したくなります。自分の心の中にだけにとどめておけないものなのでしょう。心で感じたことを言葉に託そうとします。そのように発せられた一番最初の言葉はと考えると、ワクワクしてしまいます。歴史的に見ると言葉はそもそも歌われたものだった様です。
歌と詩とはそもそも同じものだったのかもしれません。詩の歴史は言葉の歴史と同じくらい古いものです。しかし調べてみると古くは殆どが叙事詩という歴史や英雄談という権力の道具として使われたものでした。もちろんその頃と言えども人の心は感じていたのでしょうが、それを言葉にする術がなかったのです。心を言葉にするというのは、心が感じたことを言葉にするのですから、心を自分を持ち客観視できるようにならないと生まれないものです。単に主観的に感じているだけでは思いつきに止まってしまうものです。そこに止まってしまえば他の人が読んでも面白くないものです。心の客観化というのが心を詩で読むというためには必要なプロセスだったのです。自分という意識が生まれたのです。
感じる心、豊かな心というのは、知性的な面と同時に主観的・衝動的でもあるわけです。特に抒情詩というのは特別で、主観的に感じるものを知的に変換でる魔力、錬金術から生まれた言葉の集まりなのです。

物質的に証明できる世界に留まっている物質主機と、霊的な超感覚的な世界に惹かれるスピリチュアルなエソテリックとは対立するものです。世界観的にどちらかという選択が迫られるのですが、心はその間にあって両者の橋渡しをする役を担っているものです。人間は心を深めてゆくことで、物質の世界と霊的な世界とを深く理解する様になり、両者を結ぶことができるようになるだと思うのです。
心とは、心なんてと言って吐き捨てられる様なものではなく、心を持つことで人間は人間らしく生きて行ける様な気がします。
心が病むことが人間にとって最大の不幸だと考えているので、自分の心を信じることから、繊細に感じる心が育ってゆく様に思います。

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