倫理もモラルも瀬戸際なのか
知性のことは、一人独自の道を歩み始めたような危機感を持ってみることはあっても、倫理の姿を、モラルの力について語ることはあまりしないのはなぜでしょうか。
いまもし倫理、モラルは瀕死の状態だとしたら鬱手立てというものはあるのでしょうか。
ここでの大きな問題は、現代人が倫理、モラルに関心がないことではないかと勘繰っています。
そこに焦点が合わないということです。
もしかすると知性よりも倫理、モラルの方がしぶといところがあるのかもしれません。達磨さんのように、転びそうになっても元に戻れる様であれば、あまり心配しないでもいいのてでしょうが、倫理もモラルも繊細なものの様な気がしているので、壊れる前に手立てを考えないといけないような気がします。
日本には西洋で発達したような宗教を持つことはありませんでした。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は厳しく戒律を設け民衆はそれに従うことで、社会にモラルの感情が芽生えたのですが、日本に生まれ根付いた宗教は民衆にモラルを押し付けず、かつての日本で言われていた「お天道様」と言ってやんわりと民族の知恵を示していたのです。
「武士道」を書いた新渡戸稲造はアメリカやヨーロッパにいる時に日本を仕切っている宗教について聞かれたそうです。しかし本当に知りたかったのはモラルなのです。日本が非常に安定した秩序を持ち、人々が穏やかに生きていることは、日本を訪れたすべての宣教師が報告をしているため、日本人のモラル感についてはヨーロッパの人たちから評価されていただけではなく、奇跡的な現象として見られていたからです。宗教がなくてもモラルが存在できる理由が知りたがったのです。新渡戸稲造はそういう周囲の関心から「武士道が日本のバックボーンだ」とみなして、「武士道」という本を表しました。もともと彼はキリスト教徒でしたから、キリスト教社会といわゆる無宗教国家日本とを比較することができたため、キリスト教的世界観を下敷きにこの本ができたのです。
しかし日本人のモラル感情は武士道精神からの影響があるにしても、それ以前から、太古の昔から存在していたもの様です。よく言われる縄文13000年の歴史の中で争いがなかったということも、日本人のモラルへの意識の高さら説明できるのかもしれません。
もちろん人間の魂の中は混沌としているものですから、非情な日本人、残酷な日本人という姿もあるわけですが、宗教を盾に数千万人の命を葬ってきた歴史をも踏まえると、そう簡単に整理できるものではない様です。
しかし宗教の力でモラルが作られ、維持されてきたというのは、そう言える部分があるとしても、深い意味で直接の関係はないと考えます。しろ人間が今失ってしまった直感の中にモラルの潜在能力が含まれている様に感じるのです。知性によって人間は打算的になったということも言えるわけで、非打算的という直感からというのはさながら間違った考えてはない様な気がします。






