空気を読む
空気を読む、というのは山本七郎さんが三十年以上も前に言い出したことで、日本人の持つ特性としてしばしば挙げられます。状況を読んでそれによって判断する能力を指しています。
日本語を外国語として学んでいる方がよく言われるのは、日本語は状況と深く結びついているので、状況を読まないと会話が理解できないということです。そういう話を聞くと「確かに」と一度は相槌を打つのですが、実は英語という言葉は違った意味で状況というのか文脈というのかを理解していないととんでもないことになる言葉だということも事実です。英会話だけの勉強だと英語は簡単だと思われがちですが、英語を少し勉強してみるととんでもない深みに迷い込んでしまいます。まさに空気を読まないと本意が理解できないという感じです。その点に関して言えばドイツ語などよりは日本語に似ているし、英語が西洋語の中で1番難しいと言われる所以です。
日本で生まれ五歳まで日本で育ち、十五歳以降はイギリス人として活躍されているノーベル賞作家のカズオ・イシグロさんの小説「日の名残り」は大きな館のご主人様とそこの執事の複雑なやりとりが至るところに登場します。丁寧語・尊敬語・謙譲的な言い回しで会話がなされるのです。それ以外にも英語独特の言い回しが随所に使われていて、イギリス人にも読むのが難しいと言われているほどのものです。知り合いのドイツ人で英語に卓越した方の協力を得て一緒にその本を読んでいる時、よく「ドイツ語では出てこない言い方ですね」と耳にしました。逆に日本語では日常茶飯事だったりしたするのにと首を傾げていたこともあります。
英語のtake、getという言葉は辞書で引くと訳がわからなくなるくらい、多岐に渡った意味が並べられています。一つ一つを詳しく読んでみると、みんな「そうだ、そうだ」と納得できるのですが、文脈がわからなくなった時辞書を引いて調べようとしても迷うばかりです。特に書き言葉を読んでいる時には、ある状況で使われているgetを理解するのに、場の雰囲気を持つ会話の時とは違って、活字だけなので状況というか文脈を正しく理解するのに時間がかかります。二、三十くらいの使い方の違いの中から、今読んでいる文脈にふさわしい意味を見つけなければならないとなると深い迷路を彷徨っているようなものです。
ドイツ語にも英語ほどではないですが多くの意味を持った言葉というのはあって、五十年ドイツで生活して観察して気づいたのは、彼らはその言葉の意味を私のように二十、三十と区分けして覚えているのではないということです。彼らにとっては多岐にわたる複雑な使い分けは、案外単純に一つにまとめられているのです。極論すると一つの意味でしかないのです。わたしたち外国人が辞書で区分けするような理解の仕方ではなく、イメージとして全体を把握しているということです。状況に相応しい意味をイメージとしてイメージのプールのようなところから取り出して理解しているのです。とても流動的な感じです。まさに日本人が空気を読んで状況を判断しているようなものです。
ところが空気を読むのが得意な日本人が英語やドイツ語のそうした多岐にわたる意味を状況でうまく判断できるのかというと、そうでもないのです。我ながら不思議に思っています。言葉を通して空気を読むというのは、状況という生活の場で空気を読むのとは違うのかもしれません。
想像するに日本人は状況の空気を読むときに右脳を使っているのではないかということです。それに対し、西洋の言葉の空気を読むのは左脳を使っているという気がします。日本語は右脳的な言葉です。ところが西洋の言葉は左脳的ということでもあるのかもしれません。その中でも英語という言葉は西洋語の中で。どちらかというと右脳がかったところがあるのかもしれないと睨んでいます。
空気を読むというのは、よく言えば語感を超えた六感的なところがあります。しかし根拠がないものです。普通は主観的になってそれぞれがバラバラな意味に理解するのでしょうが、日本的空気の読み方は特殊です。日本人同士の第六感は結びつきが深いようです。それが絵文字文化を花開かせた力なのかもしれないと思っています。今や絵文字は世界共通の言語?E m o j i なのです。日本人の絵文字読解力は、詳しい人の話では突出しているようなのです。






