流れの面白さ
「向こう任せで書く」という泉鏡花の小説を読んでいると確かに頭で考えて書いているのではないことがわかります。言葉の流れが意味を説明するものではないと感じるのです。読んでいて、時々何が言いたいのかがわからなくなるような文章にも出会いますが、流れに任せて読んでゆきます。わからないから二回読めばいいのかというとそうでもないのです。文章の流れが命ですから、意味の正確さ、描写の正確さより大切なものがある様なのです。彼ほど極端な物書きは他になかなか見当たりません。
文章の流れが楽しいことでいうと太宰治を挙げたいと思います。流れの中から情景が見えてくるのが彼の文章を読む醍醐味です。こういう流れはいわゆる社会派小説、思想小説と言われるものからは受け取ることのできません。そういう文学は思想の意味が大事だからです。イデオロギーや主張がはっきりしていないと意味をなさないので、そこでは文章の流れよりも言葉の意味が大切になっていて、文章の流れはあまり考慮されていない様です。
島崎藤村の夜明け前を読んだ時にも文章の流れを堪能していました。彼の小説はその前に破壊を読んでいたので、夜明け前という歴史小説もその流れにあるものと思って読んだのです。歴史考証もしっかりとされているということですが、そういう正確さを描写する文章であると同時に、文章力から歴史の流れが感じられるとても魅力のある文章でした。破戒はどちらかというと思想小説の傾向が強いものですから、文章は意味を追いかけるようなところがあり、それが流れとしてはゴツゴツしていて、角張っていて、読後感は重苦しいものでした。内容的にも思想的に意味を繋いでいるので、どこか「とってつけたような」筋の展開になってしまいます。何がなんでも意味をつなぎ合わせていると言ったらいいのかもしれません。夜明け前は意味より文章の流れが小説の命だったことを懐かしく思い出します。
流れのある小説の最高峰は紫式部の源氏物語かもしれません。もちろん私は全部を原文で読んだわけではないので、明治以降の翻訳に依存しているのですが、それでも流れは感じられます。読むためというよりは語られるためのものだったところから自然と流れが生まれたのかもしれません。
というよりも文章に意志を感じるということを述べてみたいのです。文章というのはただ単語が並べられて意味をなしているものではないのです。文章には意味と同じくらい意志が生きています。源氏物語の中で大切なのは微妙な人間関係です。特に上下関係です。それが何で表されているのかというと厳密な敬語の使い分けによってです。二人の人間に間にどのような距離があるのかは敬語を見ることでわかるのです。この厳密な法則が文章に独特なエネルギーをもたらします。ただ状況が描写されるのではなく、そこに絡んでくる敬語がその場を設定しているのです。今の時代はほとんど敬語らしいものはなくなってしまい、せいぜい尊敬語と丁寧語と謙譲語という程度の分け方しかできない敬語の世界ですが、千年前の宮中では使い方を間違えれば無礼者扱いされただけでなく命を落としたに違いないのです。
先日ブログで文法のことを書いたときに、「文法は文章の意志だ」と書きました。古代の日本語では敬語が生きていて、それが文章にニュアンスとアクセントを与えるものだったのではないかと想像します。私たちがテヲニハを間違えると文章の意味が通じません。例えば「私が東京と行った」の様なものです。当時は敬語を使い間違えると状況が全然理解できなくなってしまったのてはないかと想像します。もちろん当時も今でいう文法はあったのでしょうが、文法は書き言葉になってから精度が高まっています。語り言葉で綴られている源氏物語には、そういう文法以上に敬語の比重が重く、その力で文章を読ませたのではないかと思います。






