お陰様で、という時
ご両親様はお元気ですか、と聞かれた時に「お陰様で」と答えたりします。聞いた方に特別にお世話になったわけでもないのに、お陰様でという言い方が、日本人同士の会話では自然に出て来ます。なんのお陰なのでしょうか、誰に聞いても簡単に答えが返ってくるとは思えません。
実はこのお陰様的な捉え方は日本語だけてのものではないと言ったら、多くの方が驚かれるのではないかと思います。ドイツこでは二百年くらい前までは、名残としてまだ残ってました。もちろん時代を遡ればもっと濃厚に、「お陰様で」の頻度は広がってゆきます。もちろんドイツ語以外の言葉にもあったものです。唯物的な考え方に染まる前までは人間はお陰様が当たり前だったのだと言えるのです。
どうしてそういうことが言えるのか不思議がる方もいらっしゃると思います。私は言葉を探ってみてそのことを感心しています。言葉を探りながら人間の行動を探ってみるのですが、お陰様の形跡がはっきりと見えてくるのです。
人間というのは何かをきっかけにそもそも行動を起こすものです。内的な衝動が一方にあり、もう一つは外に見る目的です。
それを言葉の上に被せてみるのです。人間の行動というのは、文法的には動詞として捉えることができます。例えば、何かを運ぶ、何かを作る、誰かにあげる、誰かを助けるというふうに行動にはない的しようどうと向かうところが表されているのです。その動詞には直接目的語と間接目的語があってなどと聞くと、学校の英語の文法の時間を思い出してしまうかも知れませんが、今日は少し違う話をしたいと思いますのでよろしくお付き合いください。
私が「お母さんに誕生日プレゼントをあげる」という時、お母さんは間接目的語で、クリスマスプレゼントが直接目的語となります。なぜものの方が直接で人の方が間接なのかと疑問に思うわけです。人よりものの方が大事だからなんてブラックな答えが出てきそうですが、それはさて置き、ここまでは普通の文法書に書かれている説明です。
ドイツ語では二百年くらい前まで、もう一つ行動の目的を説明する仕組みがありました。ドイツ語を勉強された方は二格という言い方で聞いたことがあるかも知れません。ある独特な行動原理、行動の仕組みを二格で目的格をとると言っていたのです。ちなみにドイツ語では間接目的語を三格、対格という言い方もします。直接目的語を四格と言います。全部で三つの目的格を持っているのです。
さてこの二格ですが、今ではすっかり姿を消してしまいました。最近まで名残のあったものなのですが、現代ドイツ語の中ではただ一つの例外が残っているだけです。亡くなった人のことを偲ぶときにだけ、この二格が登場します。なぜ二格なのかというと「亡くなった方を偲ぶ」という動作に起因しています。亡くなっている人を目の前に存在するものとして、普通の目的語扱いにはできないからです。亡くなっているのでこの世的には、つまり物質的には見えない存在なので、直接目的語としては扱えないのは理が通っています。物質としてでは存在していなくても心の中には確実に存在しているので偲ぶ対象にはなるのです。では目の前ではないとしたら、一体どこに偲ぶ目的を定めたらいいのでしょうか。
ここでシュタイナーのオイリュトミーを参考にしたいと思います。オイリュトミー的に目的格を動作で詳しく示しているのです。直接目的語は前に向かって示されます。間接目的語は斜め向かいに示されます。例えば、クリスマスプレゼントをお母さんにという時は、クリスマスプレゼントを前に示し、お母さんにという間接目的語は右斜め前に「どうぞ」という仕草のように示します。では亡くなっている人はどこで示されるのかというと後ろの頭上です。両手を頭の上で交錯させるのですが、その時交差点を頭上の後ろの方に持ってゆき、体も後ろに反らせます。二格が目的とする対象は頭上の後ろの方にあるのです。私は個人的に霊の世界に繋がる仕草だと思っています。というより、偲ぶ対象は頭上の後ろの方から私たちに向かってやってくるものなのです。二格のことはドイツ語でGenetiv(ゲネティブ)と言います。同じ語源を持つ言葉として、天才があります。天才のことをいうGenie(ジェニー)、旧約聖書で人類の生い立ちを説明している創世記のGenesis(ゲネシス)トイイ、語源を同じくする言葉で、天から与えられたもの、天からの贈り物ということです。天才的な発想というのは人間が頭を絞って考え出したものではなく、直感的に天から降ってきたものなのです。
さて古いドイツ語ではどいう行動が二格の目的をとったのか見てみましょう。考えるという言葉は二格で表される時には「思い出している」というふうになりますか、今日風に「君のことを考えている」というのではなく「君のことを思い出している」という意味合いに変化してしまいます。心の中のことなのです。あるいは「今日の式典を速やかに始められた」というのも「お陰様で無事式典が挙行されるに至りました」という具合になります。「食べる」のも「飲む」のも昔は二格でしたから、直接目的語で「何かを食べる」ではなく「食べ物をいただく」となり「何かを飲む」も「飲み物をいただく」という具合になり、目の前のものをパクパク食べるのではなく、まさに天から降ってくるものをいただくとなります。まさに日本的な「いただきます」というものであり、旧約聖書のマナの食べ物「天から食事が降ってくる」というのに近いものです。また死ぬというのも現代的には「何かが原因で死ぬ」となりますが、「かつて人間は二格で死んでいた」のですから「天の定めに従って命を全うする」という感じで捉えられていたのです。他にも喜ぶ、満足するなどはみんな「お陰様で」だったのです。自分だけの力で成し遂げたのではないという姿勢がはっきり伺えるのです。
現代人は傲慢なのです。なんでも自分の力でやったと思いたいのです。でも本当は、今でも、お陰様でということは忘れ去られているのかも知れませんが、脈々と通奏低音のように生き続け、響き続けているのだと思います。「お陰様で」は聞こえる人には聞こえているのです。






