ライアーの音と日本語

2025年11月22日

 

ライアーの音を聞くと何かを思い出すといってくれた人がいます。とても嬉しい感想です。思い出すのですから過去に遡るのですが、遠くの思い出なのにはっきりと何かが見えてくるのだそうです。そこでライアーの音がしていたと言うのではなく、ライアーの音に誘発されていい記憶が蘇ったと言うことの様でした。

実際にライアーを弾いている者としても、ライアの音が記憶を刺激している様な感触があって、その時に浮かんだ思い出の様なものを音の中に込めて弾いていることがありました。

ライアーの音には人間の記憶を刺激する何かがあるということなのかもしれません。

ライアー演奏で得意としているのは、ゆったりと響く、ゆっくりな音です。そこには余韻が心地よく響いていて、会場にものびのびするような流れが広がっています。そんな時にライアーの音がゆっくりと周囲に響き渡るのですが、その流れが時間の流れと一つになるのかもしれません。

ライアーが空間の中に広がってゆく響きの様子はピアノの音が会場を満たし響くのとは全く違います。ピアノは直線的で立体的なイメージです。ライアーはどうかと言うと、水に石を投げた時に水輪が広がる様な感じでじわじわと広がってゆきます。聞いている人たちもどこから音が来るのかがわからないことがあります。

 

ライアーの音の強みは、一音だけで何かが言い切れていることです。ややっこしい言い方なので簡単にいうと、一音だけで充分だということです。一音が限りなく美しいと言うことです。もちろんメロディーも綺麗に弾けますし、和音も練習して指が均等に使えればたっぷり響きますが、インパクトがあり、印象的なのは一音の美しさです。特に指の腹でしなやかに弾かれて生まれた音で、弾かれた音が長い余韻と共に消えてゆくのは絶妙です。

俳句を詠んでいる時に一つの音を変えるだけで句全体の世界がガラリと変わってしまうような体験があります。芭蕉の、「古池や」を例えば「古池に」としてしまうと、景色が変わります。「や」と「に」だけのことなのに、ガラリと変わってしまうのです。昔からライアーは俳句の様なものだろうと思ってはいましたが、それはライアーが演奏できる音楽の規模からの感想でしたが、最近感じているライアーと日本語の親近性というのは、形ではなく日本語の言語霊、日本語の言霊とでもいったものに変わっています。一音が美しいライアーと、一音で世界を変えてしまえる日本語との近似性です。

 

話が少し変わりますが西洋音楽は西洋語との関連で生まれた音楽だと言うことを確認しておきたいと思います。ミュージック、musicはギリシャ語の「ムシケ」、言葉と音楽が未分化の状態、という言葉からきています。クラシック音楽の歴史を辿るとそのことがよく見えてきます。クラシック音楽の中核をなしているのは西洋文化なのですが、特に西洋の言葉だったのです。

日本語と西洋語を簡単に比べてみようと思います。比較するときによく母音と子音の比重から見たりするのですが、その時は西洋語は子音が強く日本語は母音が強いと言われます。表音文字である平仮名で見ると確かにそのように見えます。漢字で書くときにも母音が母、子音が子というふうになっています。そのため日本語は母音的と言われるのですが、当の日本人からするとそんなことはなくて、むしろ日本人は子音と母音のバランスに特徴があると考えているのかもしれません。母音と子音が一つに溶け合っているのです。実際にドイツの人で日本語ができる友人に、日本語を母音の言葉と思うかと聞いてみる、母音が優っているという印象は持っていない、ということでした。ただその方も、西洋語は子音が強いとは感じている様でした。

日本語の響きは丸い感じです。最近ではその様なものをエネルギーといっていますが、それは西洋語の角張った直線的なのに比べると随分と違うものです。言葉の機能面というのか、使われ方からいうと西洋語は社会生活を送るのにはとても便利にできていて、社会生活を営むのに向いているということです。法律を作ったり、機械の説明をしたり、社会構造、心理構造などを説明するのにはとてもよくできている言葉です。外国でデスカッションをしてみるとよくわかります。日本語しか使っていない人にはわかりにくいことなのだと思うのですが、ドイツ語と日本語の二つを使って生きている私には二つの言葉の向かっている方向性、ベクトルが全く逆だということは自明のことなのです。日本語は社会生活を潤滑にするにはあまり向いていない言葉です。よく言われるように情緒的な傾向が極めて強い言葉ですから、詩情豊かな言葉と言えると思います。客観性より主観性に傾いているのかもしれません。

 

ライアーは楽器としてみると西洋音楽のための楽器系列からははみ出した楽器です。ライアーという名称は古代ギリシャからのもので、その後の弦楽器一般をライアーというのは歴史的にも見られるのですが(ビーバーというバッハの少し前に活躍したボヘミアの作曲がが領主に捧げたヴァイオリンの楽譜に、四弦のライアーのためのに、と書いています)、楽器としてはギター属の楽器、ヴァイオリン属の楽器に移行してしまいましたから、今日ではその跡形も残っていないのです。それが二十世紀になって全く違う考えから作られた楽器にライアーという名前がつけられました。その楽器は今日セラピーのための楽器として少しは認知されているものの、伝統的な音楽をする楽器としては認めてもらえていないのが現状です。西洋音楽が求めているものとらいの本質にどこか違うものがあるからだと思います。向かっている方向が違うとも言えます。何が違うのかという点ですが、響きの質と、テクニックの問題と、演奏のスピードです。

西洋音楽というのは西洋の言葉から生まれたものです。したがって西洋語の特性を調べてみれば西洋音楽の持つ特性が見えてくると言うことになります。ドイツ語を含め西洋語の特徴は何かというと、空間的な言語、空間の中で響く言語だということです。空間的な広がりを持つ言葉です。生活空間、社会空間というものです。響きそのものも子音的で立体的で、空間に向かって広がります。言わんとしているものが、目指しているところのものが、空間の中に広がろうというものです。西洋語にはそのための力があります。これはそのまま音楽世界にもつながっていて、西洋で生まれたピアノという楽器は特に音の空間での広がりを意識した楽器だと思っています。ヴァイオリン属の楽器でもピアノほどではないにしても空間を意識した響きが感じられるのですが、ピアノほどではありません。こんな中でライアーは居心地が悪いのは当然です。音量が少ないということもありますが、音の性質上空間的に広がることを願っていないところがあるからです。ライアーはそのように響かせたくないのです。もちろん聞き手が外にいるので最低限空間を意識はしていますが、空間の中で無理やりに広がろうということではないのです。外に広がりながら実は内向する様なところがあるのです。聞き手を引き込むことがも目的のようです。聞き手が聞き耳をそば立てるのです。他の西洋の楽器のように早く弾くことはできません。その様に弾いて周りを圧倒することもできませんし、超絶技巧のようなアクロバットもできない、近代以前の楽器そのままといっていいものを残しているです。このもたもたした不器用なところが、今の空間的楽器が置き去りにしてしまったものなのですが、それが時代的な必然によるのか、あるいは時代的な流行なのかはわかりません。

もしかするとこの混沌とした社会の中で、近代社会、現代社会が置き去りにしたものが今必要とされていると考えることもできます。そうするとライアーという楽器は過去の遺物の様な体裁を持ちながら実は未来的には大きな役割を担っているのかもしれないと思えてくるのです。ライアーを弾いている時に感じる余韻は、言語的には行間に近い感触です。言葉にならなかったものを感じさせるが行間ですが、弾いた後の残音、余韻も行間によく似ています。日本文化の間をとるという感覚は、合理的な時間の解釈から言えば無駄に通じるものです。そんな邪魔なものは排除して構わないというのが現代ということですが、実はストレスの多くはそうした合理的な時間の使い方からきているものなのです。ということは、一見無駄に見える間の考え方はこれからますます必要なものになってゆきそうです。

コメントをどうぞ