言葉には意味だけでなく意志がある
言葉のことを考えていると、言葉には二つのきたら木があることに気が付きます。一つは意味を伝える道具として使われるものですが、それだけでは言葉が何なのかを言い尽くしていない様に思うのです。聞き慣れない言い方かもしれませんが、言葉には意味の奥に意志が働いています。この意志は私たちが言葉を使っているときにいつも働いているのですが、辞書には載っていない見えない部分ですから、普段は気づかずにいます。
詩の言葉というのが特にあるわけではないのですが、詩に着かられている言葉は日常で使われる言葉とは少し違い、慣れていない人にはとっつきにくいものです。使われていることばは意味だけではなく、私が言葉の奥にあるものとして捉えたい意志の方が強く働いています。てすから詩を読んで意味ばかりを探そうとしている人には、詩が何を言いたいのかチンプンカンプンということがよく起こります。詩の理解というのは普通の文章などを読むのとは違いうものです。簡単に言えば感じるところから入って行かないとできないと言うことなのですが、では何を感じたら良いのかというと、言葉の意志と言うことになります。意味が言葉の現象的な表れ、機能ということだとすると、意志は深いところにある根源的な衝動と言ったらわかっていただけるかとも思います。もしかししたら死をかいた本人もはっきりと意識していなかったかもしれないものです。詩人の本能の様な物で感じ取って使っているのかもしれません。
ドイツ語で詩のことはDichtungと言います。英語ではpoet,poetryです。ドイツ語でもラテン系の外国語としてPoesieと言ったりしますが、その時は詩というよりは詩情のことを指しているようです。このDichtungというのは「凝縮した状態」と言う意味です。水が凍る時に余分なものを除いて固まる感じでイメージしていただけたらと思います。従ってそうした言葉で綴られる詩の世界は透明感があるものとも言えそうです。詩を読んで、その意味を知ろうとしても詩が言いたいことに出会えません。詩の言葉が意味だけではないからです。詩は凝縮したことで暗示的な力に支えられます。詩の言葉は直接に何かを言い表していると言うより、多義的で、いろいろなことを暗示します。
詩の透明感と多面性が詩を読む人にとっての醍醐味なのです。言葉が意志を持つと、言葉は定義的な限定された意味から多義的になるようで、そのことから詩を読む時には知っている言葉でも知らない言葉に出会ったように新鮮に感じられないと詩は遠ざかってしまいます。その時は直感が頼りになるものです。この直感が機能していないと、詩というのは何度読んでもチンプンカンプンのままなのです。散文は知性からの正確さが求められます。詩の言葉は直感の正確さとでも言いたいような、知性とは別の研ぎ澄まされた感性が求められています。知性が散文で物語る時、詩は言葉の意味の奥からの意志の力で暗示的に語ります。
かつて長いことお世話になった広島にある、瀬戸内海汽船が持っていた夢の館、星ビルでお世話をしてくださった土屋さん(本名吉田直子)が、瀬戸内海汽船の仁田会長がなされた社員研修の内容を話してくださったのですが、その時の話がとても印象的でここで皆さんにシェアしたいと思います。星ビルの名前は星の王子さまからだと聞いています。
仁田会長の社員研修は少し変わっていて、ある時は星ビルの社員に向かって「詩を沢山読みなさい」、とおっしゃったそうです。「マニアルな接客方法なんかはお客さんが喜ぶ様なものではないので、接客のセンスを磨くには良い詩を沢山読むのが一番です」とおっしゃったそうです。それを聞いた時、この仁田会長の研修は本物だと感動してしまいました。接客している時にどのような言葉を使うかはマニアルでは学べないものです。お客様がどのような方なのかを読み取って、それに相応しい言葉を選べる様になるには、言葉のセンスしかないのです。そのためには本当に詩を沢山読んで鍛えるしかないのです。私も全く仁田会長と同じ気持ちです。






