一つの楽器の音の追求
ピアノという楽器は、いつの日か今日のピアノに落ち着いたのですが、それまでには長い歴史がありました。打鍵鍵盤楽器というからには打楽器であり弦楽器であり鍵盤楽器であるという起源を持ち、それが一つの楽器として統一されたのですが、一朝一夕にして三つの起源がまとまったわけではありません。
打楽器であるので太鼓が起源になっていますから古く遡ることができます。一方弦楽器であるということはギリシャの時代にヘルメスが亀の甲羅に牛の腸で作った弦を張って作ったリラという楽器が起源と言えますから、打楽器からすれば新しいことは新しいと言えます。ピアノと同じ鍵盤楽器であるチェンバロは弦を独特の爪で引っ掻くのでピアノとは違い打鍵楽器ではないのです。弦を叩くことで音の強弱の幅が拡大されてダイナミックな表現が可能になり、弱音であるピアノと大きな音を意味するフォルテが思いのままになるということで、ピアノフォルテという名前の楽器となり、いつの間にかフォルテの方が省略されて、ピアノという名称でおさまったのです。
チェンバロもピアノも鍵盤楽器でありながら、実際は相当違う楽器だと言えます。オルガンも鍵盤楽器であるのですが、弦を持たないで、パイプに空気を通すことで音を作りますから、楽器としては鍵盤楽器でありながら別のジャンルに属しているのです。
ヴァイオリンも同じように長い歴史があります。弦を張っているのでギター属の楽器と同じ様に扱われてもおかしくないのですが、弦を擦るか弾くかの違いは大きいものです。ヴァイオリンもビッツカートという弾くテクニックを持ちますが、音量が擦った時ほどではなく、表現力として使うことができないものです。とはいうもののヴァイオリンはギリシャのリラから発生しているもので、弦を擦るようになるのは10世紀辺りからで、17世紀に出されたヴァイオリンの楽譜は献呈の言葉に「四弦のライアーのために」という言葉が添えられていますから、ヴァイオリンがライアーを起源にしているという意識はその頃まであったと考えられます。
弦を弾くか擦るかの違いは決定的です。弾く時には長い音符は消えてしまいます。全音部は弾いた時には鳴っていても最後は音が消えてしまい聞こえなくなってしまいます。全音部は余韻でしか体験できないのです。ところが擦る時には全音符はずっと鳴らすことが出来ます。消えることなく鳴り続けています。どちらが正しいのかということではなく、どのように音楽的効果に違いがあるのかということでしか論じられないものです。私の経験からすると、撥弦楽器の方が余韻と緊張で音楽を語れる分、情感と哀愁がある様な気がします。ただし主張する力は弦を擦る方が優勢で、表現の幅もある様な気がします。また弦を擦っている時の緊張感が薄れると間伸びしただらしない音楽になる危険性もあります。
ピアノは弦を叩いて音を出しますから打楽器でもあるのです。打楽器といえば太鼓、ドラ、鐘、トライアングル、シンバルがあります。ピアノのように叩いて音を作りながら音階を持つ楽器に木琴、マリンバがあります。ピアノの特徴は打楽器が直接音源を叩くのに色々なメカニズムが組み合わさって叩くということです。音を作るプロセスが違うのです。ここがピアノは誰が弾いても音が出ると言われる所以です。もちろん特上の音が出せるまでには時間がかかるのですが、メカニ任せている分手作りの音というところからは離れているので、逆にそこに魂を吹き込める様になるとのは並大抵ではないのです。
最後に私のライアーの音について。
私はライアーを、多くの人がヴァイオリンの弦を擦る様に弾くのに対し、打楽器的に弾いていると思います。和太鼓や鼓の人たちから興味ある貴重なお話を伺ったときに感じた「叩いているようで力を抜いている」という両立し難いようなスタンスです。太鼓を叩いている時、太鼓がいちばんいい音が出るように叩くように、弦が一番いい音を出せるようにということを考えているのです。ここにこだわると上手に音楽するということから少し外れてしまうかもしれないと感じながらです。






