心、自分との対話あるいは直観

2013年8月16日

心はどんな計器を使っても計れないものですから、計るという考え方から離れないと心と対話することはできません。

ところがやはり計るというのは相当癖になっているのでしょうか、先ずはそこから抜け出さないといけないと思います。

私たちの時代は計る時代です。なんでも計ります。食品などにも何日持つのか、何時まで売っていいのかが表示されています。なんでも計ろうとしているわけです。

計る後にはどう言う方法が来るのか、今のところまだよく見えていないのですが、恐らく今直観の中から、新しい理解のための方法が生まれてきそうです。それにはまだ名前がないので、今の時点では直観と言っておきましょう。

 直観によって物事は見える様になるのです。これはしっかりと押さえておいてほしいところです。ただ見えるとは言っても、物質的なものが見えるのとは違っています。

心も直観によって見える様になるのです。

今は心と言うと神経の中に押し込められてしまいましたが、心は独自の実態のあるものです。だから見える様になるのですが、今の時点ではまだ見えません。

こころと対話するというのは、心を直観で見るということですから、独り言の様なものとは違い、言葉による対話ではありません。

 

心をみると言うことは、自分を見るということにも通じることです。心にしろ、自分にしろ人から説明されても、痛くもかゆくもないものです。他人には解らない世界だからです。ただ他人が直観を持つと話しは違ってきます。

人間同士が対話している時、肉体的には他人は他人で離れて存在していますが、心はお互いに行き来しています。他人さんの心がわたしの心の中に入ってくるのです。そしてまるで自分のことの様に他人の心が見えてしまうのです。他人というのはそんなに他人でもないということです。

 

さて自分を直観したらどうなるのでしょうか。自分の心を直観したら何が見えるのでしょうか。

たぶんどす黒いものが見えてしまうはずです。普段は隠しているどす黒いものがです。

たとえば人殺しの事件の記事を新聞で読んだとします。先ずは「そんな悪人がいるんだ」と皆さん思うでしょう。でもその悪人に何時自分がなるのかは解らないのです。普段は綺麗事を並べますが、自分の中にも殺人を犯す要素はいくらでもあるのです。それが見えてしまうのです。とても辛いことだと思います。

勿論善い部分もみえるでしょう。善人の自分です。愛に満ちている自分です。ところが善人の自分とか、愛に満ちた自分は透明すぎて見えないのです。ですから、見えるのは、くろぐろとしたよくない自分の方なのです。

私たちが心を見る様になったら、影法師と呼ばれている、黒い層が先ず私たちの目の前に現れて来ると言われています。それを見る時、自分だとは思えない程形相が違っています。まるで他人の様です。いや、他人と思いたいだけなのかもしれません。人のせいにしている人みたいです。それを自分だと認めるのはとっても勇気がいることの様な気がします。

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