心のこと その二   感情

2014年9月2日

最近は心によって健康は作られると考えられるようになっていますが、よくよくみれば古くから言われている「病は気から」の現代版です。健康は肉体だけでは語りつくせないことが分かって来ていて、そこに心が登場して、心と体の共同作業という考え方が生まれたのでしょう。

ちなみにここでの心とは「気の持ちよう」と解釈できます。

 

心と言えばすぐにフィーリングと結びつきます。感じ方、感情のことですが、心と感情は言葉が違うだけで同じでしょう。日常生活ではお互いに区別されることなく使われています。

心はとても曖昧なものと先ほど言いましたが、厳密にいえば心と感情は別のものです。が、区別するのは一苦労です。あえて言えば心が具体的に活動している姿が感情でしょうか。

 

ということでここからは心でなく感情と言います。感情は思考から来る「意思」と、衝動的な「意志」とのバランスから生れます。理性は意思からきますから冷たいです。冷静なんです。エモーションは意志のほうですから暖かいものです。

感情は天秤のような秤ですから動いています。またシーソーのようなものですからいつもどちらかに傾きながら動いています。

秤やシーソーが壊れることはありますが、心というのは働き場所ですから壊れることはないので、心が病むと言いますが意思と意志のバランスが取れなくなっているだけなのです。感情の不安定です。

 

私たちが自分と感じているものがすなわち感情です。自分というのは二つの方向を向いていて、一つは外のほうでもう一つは内のほうです。そのバランスのことですから、感情イコール自分という数式はあながち間違っているとは言えないと思います。

 

 

発展途上国の子どもたちに「君たち幸せ?」と聞くと「うん」と二つ返事が返ってくるそうです。バラックのような家に住みグルメな食事の対極のような質素な食事なのに幸せなのです。ところが豊かな国の子どもたちの返事は「分からない」だそうです。

これは子どもだけに見られる現象ではなく、大人も同じような気がします。ただ大人の場合は質問を少し変えたほうがいいかもしれません。「あなたは自分に自信がありますか」というのはどうでしょう。一体どれだけの人が自分の感情に支えられていると言えるのでしょう。

 

 

知的な人間程自分に自信がなくなるのは、批判的に自分を見ることを知ってしまったからです。頭で考えすぎるからです。考えすぎずに素朴に生きている時には自信があった様です。勿論盲信と悪口を言う人もいるでしょうし、意識的な自分ではないといわれるかもしれませんが、自分に対してのおおらかな自信は、肉体に対してもいい形で影響していたはずです。

自己批判を超えて自己自信に辿り着くことが知的になりすぎた時代を生きる人間にとって必要なのです。

 

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