年の功

2021年2月21日

半年ほど前、チェリストの徳永謙一郎さんのことをブログに書きました。五十五歳で癌で亡くなる四十五日前に、入院先のホスピスで行われた最後のコンサートの様子を、ドキュメンタリーで放映したものをYouTubeで見た感想です。

最後まで「もっと上手くなりたい」という気持ちを捨てることなくお亡くなりになりました。この言葉は聞き方次第でこの子に及んでまだそんなことでもがいているのかともとれます。しかし徳永さんのこの言葉は、「もっとチェロと一つになりたい」というふうに聞こえます。「俺が弾くんじゃない、チェロが弾く様にならなければ」というふうにも聞こえます。もう誰が聞いても充分上手なのに(N響の主席チェリストを長年された方です)、ここで上手という言葉が出てくることが意外ですが、まだ上手になりたいのかではなく、この先の上手は次元の違う上手です。私には「上手を超えたい」に聞こえるのです。その日弾かれた、カタロニア民謡の「鳥の歌」は上手を超えた演奏でした。レコードで残っている若いときの演奏はまだ上手の領域です。

百歳を過ぎても現役の墨と筆の美術家、篠田桃紅さんは、インタヴューが「だんだん歳を重ねてきたことでこういう線や色が出たと思われたことは」という質問に「自覚はしていないけど」と前置きして「やっぱり年の功というものは出ているでしょう」と受けて答えています。自覚がない、百歳を超えてた今も、年の功と言い流し、成長し続けているのだと感銘を受けた答えです。

芸の道は長しというのは、芸を極めた人が体得する稀なる境地です。極めた人だけが知ることのできる世界なのでしょう。

ところが、私たちの生きている姿を見つめれば、真剣にやっているものに対して、いつも、まだやり足りないものがあるという気持ちを持つものです。私たちの中にも小さな芸術家が住んでいるのです。この想いは不満ややけくそになっていることからではなく、自分に真摯に迎えば向かうほど、心の奥から自然に湧き出てくる感情です。

私たちが成長し続けるというのは、いやはや大変なことなのだとつくづく思います。芸術家の端くれなのですから。

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