世界観とイデオロギーの違い

2021年4月24日

世界観とイデオロギーとはずいぶん違うものだと考えています。

イデオロギーは、私たちが理解しやすいものを持っているようですが、世界観というとなんとなく焦点が合わず、ぼんやりしたものに見えてしまう傾向があります。これは近世に入ってイデオロギーが誕生し、私たちはその延長を生きているからなのです。

これをデカルトの「我思う故に我あり」というのを見ながら考えてみたいと思います。

 

この言葉ほど人間を狂わせた言葉はないかもしれない、私はそう思っています。健全なもの、世界観というものが崩壊したのです。宇宙とか世界とかが存在していることを、我ありという自分中心の自己満足に置き換えてしまったからです。

哲学はギリシャで生まれたと言われていますが、元々は「知恵を愛する」ことで、物事を自分の都合で説明したりするものではなかったのです。説明から自己満足が始まります。ここでいう思う、つまり思考するというのは自分で世界を、宇宙を説明したつもりになっているということで、まるっきし自己満足です。頭の中でぐるぐる空回りしそうな感じです。自分の思い込みの中で自分は存在しているという自己中心的なイデオロギーは、ギリシャの哲学にはなかったものです。それこそがその時に始まるイデオロギーとか、極端な危険思想の姿なのです。デカルトのこの言葉から近代哲学が始まったと言われていますが、そうなると人間はここからイデオロギーの世界に突入したということになりそうです。人間は主義で生きることをデカルトから学んだと言えるのです。

 

 

私はここを越えたいと願っています。イデオロギーから世界観へという道を開きたいのです。ここを越えないと、人間は行き詰まってしまうかもしれないという危機感もあります。イデオロギーのもとでは人間は健全でありえないからです。

まずやるべきことは、結論を自分に持ってゆかないことです。我ありなんて間違っても言わないことです。かと言って、我なしというのも不自然です。東洋の無は、一見我なしのように見えますがそうではありません。無は何もないということではなく、我がないということです。我ありと我なしの間の、透明な、無重力な中庸、それが世界観かもしれません。いや、これが世界観というものだと思います。世界観はイデオロギーとは違い、こちらから一方的に思うのではなく、向こうから来るのを待つという姿勢です。私はここで間接的に直感のことをいいたのです。直感はいつも向こうからやってくるもので、ガツガツしたところには直感は降りてきません。我思うというのは、私は考えているのだというわけで、向こうから来るものを待っているのではなく、ガツガツと何かを欲しているのです。それでは直感からどんどん離れてしまいます。もしかしたら一番遠いいものかもしれないのです。

イデオロギーというのは自己満足が目標ですから、世界観から一番遠いい、直感に見放されたものと言えるかもしれません。

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