現代芸術の奇抜性、醜いという美。

2022年10月6日

音楽と雑音は別のものと思いきやその区別は厳密なものではないようです。区別がつけられそうで、いざやってみると簡単ではなく、特にクラシック音楽の中の現代音楽(この矛盾した言い方からして奇抜です)に至っては雑音を音楽そのものとして音楽の領域に引き摺り込んでくるので、ほとんど区別し難いのが現状です。日本伝統の音楽は好んで弦を擦ったり、尺八の空気の流れをこわして雑音を故意に作り出す技法がありますが、音楽と雑音の調和が取れています。

ところが軽音楽、ポピュラー音楽、ジャズやロック、日本の歌謡曲などをみてると、奇抜な、斬新なことが起こらなくもないですが、はめを外すとジャンル超えになるからでしょうか、たとえそのようなことが起こりそうでもそこには節度があり、ほとんどがジャンルの掟に従ってそのままの形を維持するようです。

もちろん一人ジャンルと呼んでいいような独自の歌の世界を作っている人も稀ですがいます。大変な才能に恵まれているのだと思いますが、後継者が出て来ないのが特徴です。

ではなぜクラシック音楽の現代音楽と呼ばれるジャンルは数多の音楽のなかでも突飛押しでないことに関して抜きん出ているのでしょう。ピアノをハンマーで叩き壊したり、4分33秒の間ピアノの前に演奏するのではなく、時計を見て正確に4分33秒を測るために座っていたりと、音楽の域を超えた突飛押しなものが生まれるのでしょう。

音楽だけでなくアートの世界でもよく似た現象が見られますし、ファッションにも共通項がありそうです。敗れたジーパンに継ぎ当てもしないできるのです。芸術性が高いと訳がわからなくなります。

食べ物は違います。不味いものを美味しいとは言わない頑固さがあります。それは食べ物が日常に結びついているからです。グルメという特殊な食文化からは突飛押しのない食べ物が出されますが、不味いものを美味しいという人はいません。

ここでキーポイントになるのは日常という概念です。

今見た現象の特徴は日常からかけ離れていることです。すっかり非日常的です。しかしよく考えてみると芸術というものにはそもそも日常からかけ離れたところを目指す衝動が内在していると言えるのですから、何も不思議なことではないのです。

 

限りなく美しい天井的な音楽を聞いているときはうっとりして日常とはかけ離れたところにいますし、あまりに美しい絵のまえでは時空が消えてしまいます。彫刻でも建築でも同じことが言えるわけです。限りなく美しい方に非日常が傾いた時代があったと言っていいのかもしれません。その一方で限りなく、醜い、美しくない非日常を目指す時代もあるのです。もちろん現代の芸術は醜い非日常を目指しています。醜悪なものの中に美を見つけようとしているので、芸術性が高まれば高まるほど醜くなるというわけです。なんとなく思春期の成長期に見られるような社会との摩擦に似ているといえば似ているような気もしますが、醜いものに対しての理解という点では大人です。

 

一体芸術の高みはこの先どこまで醜くなってゆくのでしょうか。

 

 

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