新年に思う -  ライアー的深みについて

2013年1月2日

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

新年というのはただカレンダーの上の話しですが、冬至までは毎日、一日が短くなって行きますが、これからはすこしづづまた一日が伸びで行きますから、気持ちが日に日に明るい方に向かいます。そんな中で新しい年が始まるわけです。前向きに明るく一年を始めようという古くからの知恵と言っていい様な気がします。

 

このブロクは秋の講演会の始まりと共にお休みに入り、そドイツに帰ってから体調がすぐれなかったこともあって長いことお休みをしてしまいました。楽しみに読んでいた方たちから、励ましのメールが入っていて、書かなければと思いつつも、思いがなかなか言葉にならないでいました。これからは一日が長くなって行く時期です。その流れに便乗できればと願っています。またよろしくお付き合いください。

 

日本であればお正月は御屠蘇と決まっていますが、ドイツですから違ったお正月を迎えました。今年は期せずしてワインのことに詳しい人とお正月を過ごすという機会に恵まれました。そこでいろいろとワインのことを伝授されたのですが、そこでの話しが私がライアーで言っているとこのことと同じ様な方向にあるのです。単なる奇遇とは思えず内心ニヤニヤしながら聞いていました。

 

しょっぱなから「ワインは舌先で飲むものじゃないんだよ、そこで味がするようなものばかり最近はおおくなっている」と嘆くのです。ワインは舌先で味わってから口の中に含んでゆっくり飲みながら喉を通す所から本当の味がしてくるものだというのです。そして喉を通った後口の中に残ったワインが、口に入って来る空気と触れ合ってゆっくりといい酸味を醸し出してくるのだというのです。そしてゆっくりと何段階にも渡って余韻を楽しめるワインがいいワインというものだというのです。全くどこかで聞いた様な話しです。

 

ライアーを弾くというのは、指先の仕事ではない。そうではなく指の力は弦が自分で震えるのを外から助けるだけのもので、指で引っ掻いただけの音は、ライアーの音と言っていいのかどうか・・。弦がゆらゆらと揺れながら作る音がライアーの音で、それだからこそ音に余韻があり、その余韻の中で心の琴線に触れるのだと私は常々申しております。

 

ワインの話しを聞きながら、ライアーにも通じる話しだと思いながら聞いていましたが、話しが深まって行くにつれて、それって人生そのものだという気がしてきたのです。私がライーのワークショップをする時には、そこから人生が見えて来る様な話しを織り込んで、ライアーイコール人生という様な組み立てをしています。でからワインを飲むという嗜好的なものと言ってしまえばそれだけですが、その遊びの中にも人生というのは惜しみなく自らを写しているのだと感じたのです。

 

ライアーも実は遊びです。いや音楽そのものが遊びであるから実は音楽として人の心に注ぎ込まれて行くのです。真面目に音楽をやっている人、学問として音楽を研究している人たちから見たら、「飛んでもないことを言う奴がいる」となるのでしょうが、私の方から言わせていただくと「遊びが無くなってしまっては、物事の命が消えてしまうのです」ということになります。

 

特に真面目な人というのは、案外落とし穴があることに気付かずにいるものです。その落とし穴というのは自分がえらくなってしまうということかもしれません。自分が感じている感じ方が最高だと、自分を権威づけていることがとても多いのです。実はこれは困ったことです。

 

遊び心があれば、遊んでいるという余裕があれば、何も自分だけが偉いのではないことくらいは感じるものです。

茶の湯なども、生け花なども同じ様なものでしょう。あの立派な遊びの中で心がいかほどに緩んで、のんびりとした時間の流れを感じることができるのか。芸術と言って学問的な世界にのめり込んでしまうこ人がいますが、芸事という遊びが音楽にも必要なのではないかそんな気がします。私たちの仕事もどこかで豊かな遊び心に貫かれていてくれたら、と願っています。ひきつった顔をしていては、天からいいものが降りてこない様な気がするのです。

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