2019年1月8日
知るというのは楽しいものですが、知識を増やせばいいというだけでなく知るための奥義のようなものもあって実はなかなか難しいものです。
昔から読書は知るために活用され、今日に至るまで読書は大切な知るための手段であることに変わりはないのですが、昔と今、読み方は変わったようです。
昔は本の数が少なく、同じ本を何度も読むという読書が当たり前だったのですが、本が増え、それに従い情報の量が増えてゆくと、情報というのは横へと広がってゆく習性があるためそれに振り回されて、どんどん広がりそこに喜びを感じるようになります。
そうなると何度も読むということはなくなってしまいます。しかし何度も同じ本を読むというのはそれなりの意味があるもので、私は特に垂直的な読書と呼んでいて、そこから得る情報は量としては確かに限られてしまうのでしょうが、一つの事柄を深く読み取る力が付くのです。知識の量ではなく、知識が深まると行っていいと思います。
よく言われることですが(主観的な経験の枠を超えるものではありませんが)、勉強のために使う参考書も、何冊も買い込んで数多くの参考書をこなすよりも、良い参考書と言われている一つを、二回、あるいは三回と繰り返し勉強する方が、理解が深まるのです。
繰り返しをするという行為にはそもそも時間という魔法が働いているからです。たとえば一人の人間が同じ本を読むのですが、初めに読んだ時と、次に読んだ時では時間が経過しています。その時間の経過の中で、その人は同じ人でありながらちがう人になっていると考えてみてはどうでしょう。あるいは、一つの本を読破したり、参考書をクリアーした後、また同じことをやるのは馬鹿馬鹿しいと思いがちですが、それでは知識の量を自慢する落とし穴に落ちてしまったことになります。そんなこともう知っているという姿勢は、何かにつけて取りがちですが、知ることの不思議を知っているものにとっては、危険思想の一つなのです。すでに知っていることに新たに出会うというところもみそです。ここには自分を克服するというプロセスが隠れて生きています。
知ったというのは概念化したということです。概念化とはこういうものだと決めることです。知識というのは固められた事実なのです。
たとえば「日本の新幹線は地震が多い国なので最高時速を300キロ以内で走る」という知識を本から得たとします。同じ本をもう一度読む時にはそのことがまた出てきて、「そんなの知っている」と先を急ぐのですが、それでは繰り返しの醍醐味を通り過ぎてしまいます。そういうタイプの人は繰り返しからはあまり恩恵を得ない人です。そこで立ち止まる人は繰り返し読むことからの恩恵に預かれる人です。
新幹線は何時間そのスピードで走り続けられるのか、その速さで、鹿児島中央駅から函館まで乗り換えなしで行けたとしたら何時間かかるのだろう、鹿児島と函館とは気候が違うが新幹線はそれに対応しているのだろうか、新幹線で一番多くみられるトラブルはなんなのか等々、いくらでも質問事項が頭の中を駆け巡ります。
これは初めて読んで知識として新幹線の時速のことを知った時にはなかなか出てこないものです。もし一度目の読書でその知識に接していくつもの疑問を同時に思いつくという人がいれば、その人は相当な想像力の持ち主ということになります。しかし繰り返してゆく時に、繰り返しを楽しむことができる人がいれば、そこで想像力を磨くことができるのです。想像力というのは確かに個人の資質に関わっているものですが、それは後天的にもある程度は作ることができるものなのです。
概念化され固められた事実が、いくつもの疑問に出会うことで柔軟になります。その時私たちは概念から解放されるのです。概念にとどまっている限り、そこから生まれる考えというのも硬いものになってしまうのです。柔軟な思考というのはそういう概念を壊し解放してゆくところで培われるものなのだと思っています。
2019年1月8日
私の世代はマスメディアを信じている最後の最後の世代でしょう。
こんなにマスメディアが報道内容枯らして堕落した姿を呈していても、どこかに郷愁を持ち続けていました。しかし何も伝えない日本のマスメディアには最近嫌気がさし始めています。
先日ふとしたことで2014年にロシアのソチで行われた冬季オリンピックの時に、2011年に起きた東北大地震の被害者の霊を弔う特別式典のことが話題になりました。そこでびっくりしたのは、何人かいた日本人はそんなことが行われたなど知らなかったのです。寝耳に水とはこのことです。
日本でもソチオリンピックはかなりの時間をかけ報道されていたはずです。それなのに、主催者が日本で地震により命を落とした人たちの冥福を祈るために行った公式セレモニーを無視していたのです。真っ先に報道したくなるはずのものなのに、一切報道なしという珍事が起きていたのです。後で知ったのですが、その時間帯は実況放送が行われていたのですが、その時テレビでは実況を中断して韓国のフィギアスケートのヨナキムの特集を流していたそうです。日本の放送局(フジテレビが放送権を取ったそうです)というのは一人の韓国の選手の特集の方が、日本に対して行われた心のこもったセレモニーより大事だったようで、この礼儀を逸した態度に呆れていまい、腹正しく、怒りさえ覚えたのでした。
これは氷山の一角に過ぎず、日本のマスメディアが現在行なっている報道の基準がわからなくなることはいくらでもあります。
アメリカのペンス副大統領が昨年10月04日に行った50分に渡る長い演説の内容もほとんど知らせないでいます。中国に対しての猛烈な批判内容であるため中国側のマスメディアが国民に伏せていることは理解できますが、日本も同様に伏せる必要があるのかと首を傾げてしまいます。この演説の内容は今の緊迫した米中間の情勢の中で知っておくべきもので、こんな大事なことを無視していられるとはいかがなものなのかと、報道人の報道に対する姿勢を疑ってしまうのです。
世界的に免疫学で大きな業績を残された故安保徹新潟大学名誉教授が亡くなられたことも報道はなかったようで、私は去年友人と話をしていて偶然に知ったのですがその時は、亡くなられたのは2016年でしたからすでに2年が経過していたので、背筋が寒くなりました。免疫のことは将来的に多くの人に知ってもらいたいものだと思っていましたから、このマスメディアの故安保徹の存在を無視したような態度が悔しくてなりませんでした。
報道の世界は何かが大きく偏っていると感じています。今日の世界情勢を公平に見るなどということは不可能です。たとえネットが発達したとしても、そこから得られる情報からも公平、公正なものが得られるとは信じていませんが、しかし今日の日本のメディアが行おうとしていることは、報道の良心が感じられないもので、報道という道具の悪用ではないのかとすら感じるのです。
今後もマスメディアが良くなることはないでしょう。だからと言ってなくなることもないとは思うのですが、このままの状態が続くようでは、マスメディアが社会に貢献することはますます少なくなってゆくようです。
そうした中でネットがあることでいささかでも世界情勢の生の部分に触れられることは、ありがたいものです。
2019年1月7日
芸術が栄えれば文化も栄えますが、芸術が廃れば文化は枯渇します。芸術によって文化が生まれ、文化によって芸術が育まれと、卵と鶏のような関係があるようです。
文化が枯渇してしまったら社会はどうなるのかというと、人間生活の機能面を重要視する社会が生まれることは必定です。それは効率を求める社会でもあり、多分近い将来人工知能に取って代わられるものです。
文化が生まれるためには、衣食住を支える経済力以上のものが欠かせないのですが、お金が有り余るほどあっても文化が作られと言う保証はないのです。政治的な権力を手に入れても同じです。権力を行使してなんでも思いのままに出来るようになったとしても、権力を象徴するものばかりがゴロゴロする社会になってしまいます。文化を生むには、芸術センス、芸術への理解が欠かせないのです。
ミヒャエル・エンデさんと生前にこんな話をしました。
「美術館や音楽会の会場から出てきたとき、私たちは表面的にはなにも変わっていない。お金持ちになって出てくるわけでもなく、賢くなることもないし偉くなって出てくるわけでもない。しかし何かが変わっている。会場に入った時と出てくる時では、大げさに言えば別の人間になっていることだってある。これが芸術の力だ。」
また別の人から、
「芸術について語るとは、自分が一番大切にしている人のことを誰かに語ろうとしている時に似ている。」
と言う言葉を紹介されました。
芸術について考えるにあたりとても貴重なヒントをくれた忘れがたい言葉なのでここに紹介させていただきました。
文化を支える芸術。この芸術というのは心の深いところ、とんでもなく深いところにまでしみ込んで、時には一人の人間の人生を変えてしまうのです。この魔法が芸術です。芸術の中の美のなせる技です。
芸術は美を表現します。そして創作であり創造されたものでなければならないのです。しかし何が美で、何を以って創作とするのかと言うことになると、定義することも証明もすることもできません。美に至っては焦点が定められないとても曖昧なものです。しかも主観的で、蓼食う虫も好き好きの世界です。芸術とは、言葉にしてしまうとこんないい加減なものなのです。
これが芸術ですから、芸術というのは社会的に見れば使い道がない無力なものと言えます。ところがこのなんの役にも立ちそうにない芸術が文化にはかけがいのないものと言うことですから、見方によってはあながち役立たずでも無力でもなさそうです。ここが文化を、芸術を理解するためには大切なことです。
文化という言葉は好んで用いられる言葉です。文化の日、文化祭、日本文化、果ては文化大革命まで、文化という餌で社会運動という魚を釣ろうとしているのです。目標を定め、社会を動かそうとするとき文化という言葉はとても効き目のある言葉です。しかしそこでの文化は本来の文化には似ても似つかない、文化に一番遠いい姿をしているものです。その文化の中では芸術が育つ環境がありませんから、芸術的素質を持って生まれても息ができませんから時期に窒息して死んでしまいます。
人間的であるというのはやはり文化を持つ存在だということに尽きるようです。文化を求めるところで初めて芸術が目を吹き出し、そこに息づく美が人々の心を満たし社会を潤いのあるものにするのです。美という極めて曖昧なものが、人間的であろうとする時、皮肉なことに最も具体的な力を発揮しているのです。