2018年10月13日
私たちに記憶という能力がなかったら・・。
そう考えるとゾッとします。私たちはその時その時の刺激に身を任せているだけの極端な刹那的存在という括りになってしまい、過去の蓄積など一切なく、時間という流れからも見放されて孤立した生き物になってしまいます。
今までの人間と私が想像する未来の人間とはこの記憶を巡って大きな違いがあります。今までは記憶することはいいことでした。覚えが早い、よく覚えているというのは頭がいいということでもあったのです。
しかしです。覚えることに日本の試験制度は専念しています。その姿を見ていただきたいのです。それは記憶尊重社会の遺物と言っていいものです。この形態を続けていけば、近い将来、日本は時代の流れから置き去りにされてしまう可能性が大です。
記憶する能力の副産物の「正しい」はさらに危険です。それはただ過去を整理して生まれるものだからです。「正しい」の根拠は過去にあるのです。
答えは正しくなければならないと信じている人は多いです。答えがあるということと、それが答えであるならば正しくなければならないという風に考えるのです。が、そんなことはないはずです。未来に向かう時、あるいは次のステップに向かう時、正しいということだけでは進めない事はみんな知っています。やるしかないこともあるのです。正しいのか正しくないのかにこだわっていては前に進めないのです。正しいというのは情報を整理して権威ある力によって辻褄を合わせたに過ぎない幻想だからです。
この「正しい」答えに振り回されている日本の教育姿勢も次の時代にはやはり遺物でしかなくなってしまうでしょう。
ここから解放されて初めて思考本来の姿が見えてくるような気がします。日本の教育がこの点に気がつけば、次の世代も、急変する世界情勢と共に歩んで行けるでしょう。ところが、もし日本が旧態依然に記憶とそこから生まれた正解に囚われ続けるのであれば、近い将来、日本が後進国になる事は間違いありません。
思考本来の姿については私もわからないところがありますが、一つ言えるのは、コンピューターの膨大な記憶能力を通して浮き彫りになったものがあるということです。
考えるというのは記憶と共存しているものですが本質的には違うものです。今までは物事の整理のために使われて来ましたがそれは記憶の衣装をまとっていたからに過ぎないのです。
私たちは考えるという行為そのものについてまだよく知らないのかもしれません。私自身も考えているようで、情報整理をしているだけのことが多々あります。純粋に考えるというのは、今までの言い方で言えば直感です。しかし直感にも様々な形、とりわけ深さがあるわけですから、「これが正しい純粋思考です」というのでは元の木阿弥です。これからどんな純粋思考が生まれるのかワクワクします。
思考の本来の姿はコンピューターによって、「記憶という衣装」を脱ぎ捨てたと考えて見てはどうでしょう。そしてさらにコンピューターの比重が社会的に増せば増すほど、考えること、純粋に考えること、つまり多種多様な直感が働き始め、その役割が広がると思います。
その時動き出すのは学問が過去から解放され未来を向き始め芸術になる動きでしょう。
意外と思われるかもしれませんが、学問の中にだって今までも未来を志向していたものがあったのです。しかし正しい学問のあり方という衣装を着せられていたり、正しいという幻想の陰に隠れていてよく見えなかったのです。学問の中にも実は芸術があったのだということです。いや芸術と共有しているものと言った方がいいかもしれません。それは繰り返しです。
未来は存在しないものです。予感しかできませんが、その予感の中から未来は確実に作られてゆくのです。学問の芸術性はコツコツと基礎的な研究をつづけることです。繰り返し繰り返しつづけることからしか見えないことがあり、芸術の基本もそこにあって、一見特殊な思いつきのように見られがちな芸術ですが、繰り返しという魔法の中から未来を説得するものが直感的に生まれるのです。
2018年10月11日
限界は私たちにとって枠です。肉体的な限界もあればメンタルな限界もあります。生きた限界とそうでない限界もあると思っています。
肉体的な限界はスポーツによく見られます。記録への挑戦もその一つです。
1968年のメキシコオリンピックの男子走り幅跳びの珍しい話しです。アメリカのボブ・ビーモンが、当時のスポーツ科学の専門家たちが提示した限界、8メートル50、を楽々と超えてしまい、測定はメキシコオリンピックのために新しく開発された計器ではなく巻き尺で行われました。戸惑っている人たちの姿がユーモラスで良く覚えています。当時の世界記録は8メートル35でした。これは長いこと塗り替えられずにいたので、8メートル50が限界とされ、計器はそこまでを正確に測るよう設計されていたのです。
さらにこの記録はあまりに驚異的だったため、走り幅跳びの限界といわれ、永遠に破られない大記録と騒がれたものでしたが、23年後の東京での世界陸上でまずは追い風参考ながらカール・ルイスが8メートル91を跳び、そしてその直後のマイク・パウェルの8メートル95で塗り替えられてしまいます。その後走り幅跳びの記録がどこまで伸びるのかを口にする人はいなくなってしまいました。
この限界は外から規定されたもので、記録という限界なので、破られるためのものです。スポーツ選手の目標になっているもので事実常に更新されています。
メンタルな限界は自分で自分を規定してしまいます。「私とはこう言う人間だ」と言う具合に、自分にできる範囲を枠で括ってしまうのです。私の経験では真面目なタイプの人に多い様です。真面目を含め、これは結構深刻な問題です。というのは、その枠の中に安住してしまうとそこから抜け出すのが難しいからです。人生がマンネリ化してしまい、硬直状態になります。
この枠がきつい人とそうでない人がいますが、いずれにせよ壊すのに役立つものは自分からの働きかけです。何が大きな力なのか、それは心の余裕です。ゆったりした余裕の中で枠が、那(たが)が緩みます。
70才になって「自分の体力の限界を試してみます」と言って、四国八十八箇所に出かけた男の人がいました。「どこまで歩けますかね。初日で降参するかもしれませんが全行程を自分の足で回りたいものです」と自分の限界をワクワクしながら話されている姿には余裕が感じられ、誠に羨ましい限りでした。
90歳になる男性が「私は死後の世界がどうなっているのか楽しみでワクワクしているのですよ」と話してくださいました。その時も大変な余裕を感じました。その方は科学者で長年植物の研究をされてきて、常に新しい発見を楽しみに研究生活を送られてきたのでした。死後の世界はその植物研究の延長にあるものだったのです。
お二人の生き様にユーモアを感じました。
限界はあるのかないのか、私にはどちらもありです。
限界は励みとしてあっていものです。目標とよく似ています。
また人間の能力には限界などないのです。
しかし一方で限界を愛する人もいます。
限界を安住の方便にするのは間違いです。それは言い訳につながる醜い姿です。
2018年10月5日
今年も日本の研究者、本庶佑氏がノーベル医学生理学の部門で賞を受賞しました。おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。
テレビのインタビューでお話しされている中で、基礎研究の大切さ、そしてそこに潜在する無限の可能性を力説されている姿に惹かれました。掻い摘んで言うと、今の日本はまさに真反対の状況にあり、目先の、成果がすぐに出るものが主流にあり、経済的援助もそちらに傾き、このままゆくと科学は尻窄みになりそうな危機感に満ちているのだと言い、実際に基礎的な研究は成果を求めた研究から見れば見えにくく、傍目には何をしているのかと訝しがられてしまう様なこともあるし、無駄なことをしていると見られることもしばしばだし、そんなことに時間を潰していないでとか、そんなことをして何になると言う見方をされることもある、肩身の狭いものだと言っていました。
お話を伺っていて、目先に振り回される科学研究の場、私自身も度々出会う日本的現象に悲しくなりました。科学の分野で基礎研究が肩身の狭い思いをしている限り科学に将来はないと断言していいと思います。なんの役にも立たないと言うと大げさですが、基礎研究は可能性の中にまずは閉じ込められています。そしてこの可能性というのは水面下にあって見えない未来形ですから、長い目で見れば未来に向かって研究していることになるのですが、いかんせん見えないので、周囲からの目が批判的になるのは仕方のないことなのかもしれません。しかしだからと言って役に立ちそうなもの、といった目先の研究に翻弄される科学ではお先真っ暗といっていいと思います。
岡倉天心は東京美術学校創設にあたり(今日の芸術大学美学部)学長として当時アメリカから招聘されます。癖の強い彼は当時の文部科学省と折り合いが合わず間も無く辞めてしまいますが、在職中に学生たちの絵を見て「売れそうな絵なんか描かなくてもいい」と叱咤したと伝えられています。
学問の世界と芸術の世界との違いこそあれ、何か共通したものを感じます。売れそうな絵と目先の成果を求めての研究、基本的には同じ穴のムジナで、全く同じ落とし穴に落ちた様です。
可能性の中で黙々と努力し続ける姿はひたむきで美しいです。話は少しずれますが英語の不定詞という言い回しのことを考えました。
英語を勉強されたかたはto+動詞で作られるInfiniitiv、不定詞のことを知っています。この単純な形がどの様な意味に使われているのかはひとえに文脈によります。文脈を汲み取るセンスを鍛える直接の方法はありませんから、回り道をすることになります。
不定詞は動詞の目的語として使われることが多いですが、主語になることもあり、さらに名詞にもなり副詞にもなり形容詞にもなりと形はいともシンプルなのに用途は変幻自在で、文法書と辞書からでは意味が読み取れず英語の初心者は難儀します。文章を読み取るセンスを磨くことからしか正確に不定詞の意味を汲み取れる様にはないのですが、これは地道な努力、無駄な回り道が外国語習得の本道です。
不定詞は可能性をいくつも持っているため文脈が汲み取れないとパニックに陥ってしまいます。可能性と言えば聞こえはいいですが、訳が分からず、どうにでも取れるという迷路です。文脈を読み取るセンスはたゆまない努力の末向こうからやって来るものなのです。